26

安室さんに連れられて東都タワーの地下駐車場へと向かう。
私は何も言えなかった。安室さんも、「そろそろ帰りましょうか」と言ったっきり口を閉ざしていた。
繋がれた手はそのまま。優しく握られているのに、例えば私が逃げ出そうとはしないような強さを感じる。
ちら、と安室さんの方を見れば、視線は合わないけれど繋いだ手を握る力が強くなる。ぎゅう、と。
あぁ、好きだなぁ。私、本当に安室さんが好きだな。
じんわりと胸が熱くなって少し痛くなって、私は視線を正面へと戻す。
安室さんの車に連れていかれ、そっと助手席へとエスコートされて乗り込んだ。

「病院は、」

運転席に安室さんが座ったのを確認してから、私は口を開いた。安室さんはシートベルトを締めたまま、黙って私の方を見つめている。話は聞いてくれるらしい。

「…病院は、ごめんなさい。…もう少しだけ、考えさせてください」
「…それは、何故ですか?」

問われて、口を閉ざして考え込む。
安室さんが言うように病院で精密検査を受けるのが、本当に正しいことなのかが自分の中でわからないというのもある。私の体に異常が現れたのは突然のことだった。一度症状が現れてから感覚が失われていくまでは徐々にという形だったが、空腹感や喉の乾きを感じなくなったのはわりと突然だったように思う。
例えば病院で精密検査を受けたとして、何かわかるのだろうか。それも疑問だった。
もしかしたら、私の体はどこも悪くないんじゃないか。ただ感覚だけがぽっかりと失われてしまっただけ。そう思わずにはいられないのだ。

「…もう少しだけ、考えたいんです。この世界で生きていくこと、私の体の異常のこと。…明日一日、時間をいただけませんか。米花町を回って、自分の気持ちを整理したいんです」

この世界で生きる。言うのは簡単で、成すことは容易くはないだろう。
安室さんはその方法を一緒に考えてくれると言った。それに甘えて良いのか。それから、ここで本当に生きていけるのか。私はまだ踏み出せる勇気がない。
病院に行くのは、覚悟を決めてからがいい。
安室さんはじっと考え込んでいたが、やがて深い溜息を吐き出してハンドルに乗せた腕に額を押し付ける。

「……本当にあなたは、変なところで頑固ですね」
「うっ、そ、そうでしょうか」
「ええ。こういう時もさらりと流されてくれれば良いのに。…でも頑固なのは…あなたがちゃんと、本気で考えようとしてくれているからだと思うようにします」

もう一度小さく息を吐き、安室さんは車のエンジンをかける。座席が震えて、心地の良いエンジン音が私を包んだ。

「明日一日だけです。明後日になったら、あなたがなんと言おうと僕はあなたを病院に連れていきます。…いいですね?」
「…わかりました。…安室さん、ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんでしょう」

捨て置いても良いと言っても、安室さんは私を救い上げようとしてくれている。
とても優しい人だ。けれどその優しさは、私だけに向けられる訳では無い。

「安室さんは…私が、この世界で生きても良いと…そう思ってくれるんですか?」
「変なことを聞きますね。そうじゃなかったら、この世界で生きてみませんかなんて言いませんよ」

安室さんは苦笑を浮かべてそう答えると、アクセルを踏み込んだ。
緩やかに車が走り出し、やがて夜の街へと飛び出していく。

「言ったでしょう?帰しません、と」

私は何かを希望はしない。
私は安室さんのことが好きだ。けれどそれだけ。なにかそれ以上のことを望むなんて烏滸がましいし、恋人もおらず独身とは言っても彼に想いを寄せる女性はきっと多いだろう。
だから、ただそっと影から想わせて欲しい。

想うことだけは、許して欲しい。


***


翌日、安室さんは朝ご飯にミネストローネスープを作ってくれた。野菜を細かく刻んで、柔らかく煮込んだ栄養満点のスープ。咀嚼するのはしんどいでしょうから、という心遣いにじわりと胸が温かくなる。
安室さんは朝から探偵業の方が忙しいらしく、スーツ姿で仕事に向かっていった。いつものように米花駅まで送ってもらって安室さんの車を見送る。今日は少し遅くなるらしいから、私はのんびりと米花町を回ることにした。

まずは、喫茶ポアロへと。
安室さんのお仕事の邪魔をしてはいけないと思って足を向けたことは無かったが、いい機会だと思った。
のんびりと歩いてポアロの前にやって来て、毛利探偵事務所の窓を見上げる。
毛利探偵にはまだ出会ったことがない。いつか会いたいなと思いながら、ポアロのドアを開けて中へと一歩踏み込む。

「いらっしゃいませ、一名様ですか?」
「はい」
「窓際のお席へどうぞ!」

可愛い女性の店員さんだ。言われたまま窓際の席へと腰を下ろす。道路をぼんやりと見つめていたらメニューを差し出されて受け取った。
何を注文しようかと考えて、味覚がないのだから何を頼んでも同じだということに苦笑する。美味しくいただきたかったな。

「それじゃあ、ホットのカフェラテをひとつ」
「かしこまりました」

静かで落ち着いた店内にリラックスする。モーニングの時間からは少し外れていてランチの時間にもまだ早い。客は私だけだった。
図書館も好きだけど、こういうところでのんびりするのも悪くないかもしれない。今度、本を借りてここで読もうかな。
そんなことを考えていたら、スーツを着た男性がやってきた。ヒゲが素敵なおじさまだななんて思う。

「よう、梓ちゃん」
「あら、毛利先生。おはようございます」
「今日は安室くんはいねぇんだな」
「そうなんです。なのでハムサンドをご注文なら私が作ることになっちゃうんですよ」

今店員さんは、毛利先生と言ったのか。店員さんとも安室さんとも随分と親しいようだが、もしかして、と目を瞬かせる。
男性は私に気付くと首を傾げた。め、目が合ってしまった。

「あっ、えっと、あの、もしかして、毛利小五郎さんですか」
「いかにも私が毛利小五郎ですが…お嬢さんは?」
「あっ、わ、私佐山ミナと言います、えっと」
「佐山ミナさん…?もしかして先日、うちの娘と会いましたか」
「会いました!蘭ちゃんやコナンくんにお世話になってます」

蘭ちゃんやコナンくん、それから少年探偵団の子達とはたまにメールをさせてもらっている。蘭ちゃんと直接会ったのは初対面の時だけだが、メールのやり取りをする仲で随分と親しくなったと感じている。
そうか、蘭ちゃんはお父さんに私の話もしていたのか。

「いやぁこんな可愛らしい方だとは思いませんでしたよ!改めて初めまして、毛利小五郎です。娘の蘭がお世話になっております。佐山さんのお話は蘭やコナンからよく聞いていますよ」
「えっえっなんかお恥ずかしい…!!初めまして、よろしくお願いします」

毛利さんが手を差し出してくれるので立ち上がって握手に応じる。ついでに名刺も渡されたので有難く受け取らせてもらった。

「安室くんのクライアントだと聞いていますが」
「あ、そうなんです。いろいろと安室さんにはお世話になっていて…」
「彼は出来た男ですからね。まぁ、何か困ったことがあれば私も力になりますからご連絡ください。この名探偵毛利小五郎にね」
「ふふ、ありがとうございます」

温かくて優しい人だ。思わず笑みも零れる。
自信に溢れたその姿は少しだけ眩しくて、とても頼もしく思えた。有名な方だから緊張して話も出来ないかと思っていたが、こうして会ってみるとただただ良い人だ。
運ばれてきたカフェラテを飲みながら、毛利さんとは様々な話をさせてもらった。
蘭ちゃんやコナンくん、更には少年探偵団の子達の話、安室さんの話、米花町の話、ご自身が解決なさった事件の話。
どれもこれも面白くて興味深くて、すっかり打ち解けてしまった。夢中になって話をして、途中から店員さん(榎本梓さんと言うそうだ)も交えて話に花を咲かせた。
だから、気付くのが遅くなってしまった。
仕事に戻るからとポアロを後にする毛利さんを見送り、私も次の目的地へ向かおうとレジで会計を済ませる。

「ご馳走様でした。カフェラテ美味しかったです」
「良かった。是非また来てくださいね」

店を出て歩き出す。
私はホットのカフェラテを頼んだ。なのに…温度を、感じられなくなっていた。




「おや」
「あ」

駅前で図書館に行くバスを待っていたら、声をかけられて振り向く。見覚えのある眼鏡の男性に笑みが浮かんだ。

「こんにちは、沖矢さん」
「こんにちは。お久しぶりですね、ミナさん」

どこに住んでいるかもわからない人だったから会うのは諦めていたのだが、こんなところで会えるなんて偶然に感謝だ。
バスの列から外れて沖矢さんに歩み寄る。

「お元気でしたか?」
「ええ、変わりなく。ミナさんも?」
「まぁ、ぼちぼちです」

へらりと笑って、鞄からスマートフォンを取り出す。それから沖矢さんへと差し出した。

「今日はスマホ持ってるんです。…良ければ、連絡先交換しませんか」

私がそう言うと、沖矢さんは少し驚いたようだった。まさか私から言い出すとは思わなかったのかな。でも、この世界での繋がりを…少しずつ広げてみたいと思った結果だ。
安室さんは気を付けろと言うけれど、やはり私は沖矢さんが悪い人とは思えない。知っていきたいと思う。

「コナンくんや少年探偵団の皆から連絡先を交換したと聞いて、羨ましく思っていたんです」
「そんな大袈裟な」

沖矢さんと連絡先を交換してから少しだけ会話をする。
最近どうですか、とか、沖矢さんおすすめの本の話とか。他愛のない会話は心地良い。

「…よく笑うようになりましたね」
「え?」
「いえ、こちらの話です」

この後用事があるという沖矢さんと別れて、時計を見ると昼を過ぎて大分時間が経っていた。
コナンくんや少年探偵団の皆に会うつもりだったから、小学校が終わる時間まで図書館で時間を潰そうと思っていたが、この時間なら今から探しに行った方が早そうだ。小学一年生ならばそろそろ学校も終わる時間だろう。蘭ちゃんに会うのはその後かな。
放課後はよく米花公園で遊んでいると歩美ちゃんから教えてもらったから、とりあえず米花公園に行ってみようか。米花公園にいなかったら少し待ってみて、それでも駄目なら毛利探偵事務所に行けばいい。
そう考えて、私は米花公園へと歩き出した。


***


多分、感覚はとても鈍くなっていたんだと思う。
それは、自分で自覚できないほど深い奥の方から。

米花公園に近付くと、覚えのある子供たちの声が聞こえて自然と笑みが浮かぶ。どうやら歩美ちゃんの教えてくれた通り、皆公園で遊んでいるらしい。ボールの音がするからサッカーでもしているのかな。
角を曲がって公演を覗き込むと、私にいち早く気付いた光彦くんが手を振ってくれた。

「あっ、ミナさん!こんにちは!」
「わぁ、ミナお姉さんだ!」

コナンくんに元太くん、光彦くん、歩美ちゃん。それから哀ちゃんの姿もある。勢揃いだなと思いながら公園へと踏み込んだ。

「ミナねーちゃんどうしたんだよ、こんなとこで」
「こんにちは、皆に会いに来たんだよ」
「歩美たちに?」
「そう、少し話したいと思って、」

ここまで来たんだ。
そう言おうとして皆の顔を順に見つめた。
コナンくんと目が合った瞬間、彼が大きく目を見開いて弾かれたように叫ぶ。

「ッミナさん!!!」

どん、と背中に衝撃。それから、腹部に違和感。
ここまで来たんだ。最後まで言えずに、私の口からは空気が溢れる。一歩ゆらりとよろめいて、何が起こったのかわからずに目を瞬かせた。

「ようやく…見つけたぞ、」

すぐ後ろから男性の声。振り向くと、見覚えのない男性が私の背中に張り付いていた。
…見覚えのない?いや、違う。この男性、以前にどこかで。

「っきゃああああ!!!!」

劈くような歩美ちゃんの悲鳴。目の前の子供たちの怯えと驚愕の表情。
ぬるり、と腹部から…背中から何かが抜ける感触がやたらと気持ち悪かった。一体何が、と自分のお腹に視線を落として、真っ赤に染まるそこにゆっくりと目を瞬かせた。
溢れる血が腹部から染み出している。

「お前らだよな、以前俺を尾行していたのは。…はは、ガキどもと女一人…消すのなんざ簡単だ、」

吐き捨てるような声に視線を向ける。
…そうだ、この男、以前図書館で私のことをじっと見つめていた男性だ。そこまで考えて全てが繋がる。
尾行をしていた。思い当たるのは麻薬取引の現場を見た子供たちが、売人の男を尾行していた一件だ。この男が、売人の…犯人だったのか。

「次はそこのガキだ、」

ゆらりと男が踏み出す。手に持った長い刃渡りの包丁には私の血がついている。その男が向かう先は、未だ驚愕の表情を浮かべたままのコナンくんだった。
神様に感謝する。
空腹感や喉の乾きを感じなくなって、味覚が失われた。そして冷たいものや温かいものを感じられなくなった。そして今、私からは痛覚も失われていた。
痛覚があったら痛みで動けない。けれど私は動くことが出来る。
動くことが出来るということは、助けられるということだ。

瞬時に駆け出す。まだ間に合う。
男とコナンくんの間に入り、振りかざされた包丁の刃をその手で強く受け止めた。

「ミナさん!!」
「ミナお姉さんッ!!」

痛くないから力を入れられる。
まさか私が動けるとは思わなかったんだろう。男性の表情には驚愕が浮かんでいた。
馬鹿だなぁ、殺す気で来たから油断していたのだろうか。包丁を握る手には手袋も何も無い。包丁には男の指紋がべったりついているだろう。
男は逃がしてもいい。でも、せめてこの包丁だけは証拠品として奪わなければ。

「な、なんだお前…!き、気持ち悪ィ…!」

ちらりと横目に子供たちを見ると、警察への通報をしてくれている。そのことにほっとして、男に視線を戻した。

「早く逃げないと、警察が来ちゃいますよ?」

私の言葉に男の手が緩む。その隙に包丁を抜き取り、男から遠くへと投げ捨てた。茂みに包丁が落ちた音がして、瞬間男に突き飛ばされる。

「くそっ!」

そう吐き捨てた男は、包丁には見向きもしないで公園から走り去って行った。それを見送り、ふぅと息を吐いたところで、かくん、と膝が折れる。

「ミナさん!!」
「ミナお姉さん!!」
「しっかりしてください!」

足が体重を支えきれなくなって、地面に倒れ込む。
子供たちが駆け寄ってきて私に声をかけてくれるのを見つめながら、良かったと呟く。

「皆、怪我はない?」
「ッ何を言ってんだよ!自分の心配をしろよ、どうして…!」

コナンくんに怒鳴られて苦笑する。
体に力が入らない。とてつもなく眠くなってきた。うとうとと瞬きをしながら、それでも大丈夫なんだよと口を動かす。

「大丈夫。痛くないから」
「っ、え、」

普通にしゃべったつもりが、私の声は酷く掠れてほとんど吐息にしかならなかった。言葉はコナンくんにしか聞こえなかったんだろう。彼は息を飲んで私を凝視した。

「なにを、」
「後のことはよろしくね、探偵さん」

そこで私の意識は、ぷつりと途切れた。

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