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ふわふわと揺らめいていた。
手も足も体もなくて、意識だけが真っ白な海の中を漂っているそんな感じ。
押され、流され、浮かんでは沈み。ぼんやりと、私はこれからどこに行くんだろうとそんな疑問を抱いた。

私、どうなったんだっけ。麻薬の売人の男に後ろから刺されて、コナンくん達が倒れた私に駆け寄ってくれたところまでは覚えている。
痛みがなくて本当に良かったと思った。犯人は逃げたし、警察にも通報済みのようだったからきっとあの子達は大丈夫だ。私はどうなったかわからないが、子供たちさえ守れないなんていうのは嫌だった。
もしかして、私は死んだのだろうか。
それは、悲しいな。子供たちに死ぬところを見せてしまったことも嫌だし、蘭ちゃんとの再会も果たせていない。沖矢さんとは連絡先を交換したばかりだった。毛利さんとももっと話をしてみたかったし、何より…安室さんを、きっと悲しませてしまう。
私を救い上げようとしてくれた人。私の大好きな人。私はまだまだ安室さんのことを何も知らないし、この世界で生きていきながら…少しずつ彼のことを知りたいと思っていた。
恋心って、相手のことをよく知らなくても芽生えるものなのだと気付いた。よく知らないから恋をしてはいけないなんてことはきっとないのだ。だから知りたいと思った。
安室さん。もう謝ることも出来ないのだろうか。また迷惑をかけてしまった。

そっちじゃないぞ、

声がして、意識がその声に集中する。男性の声だったように思う。聞いたことの無い声だ。誰だろうと無い首を傾げる。
少し低い、しっかりとした安心できる声。興味を引かれて、その声の方へと流れていく。何も見えないけれど、不思議なことに気配だけは感じられるような気がした。

こっちこっち、
変な方に行くんじゃねーよ、

また、別の声。それも二人。
どちらも男性の声だ。けれど、どちらも私の知らない声だった。
誰?私をどこに導こうとしているのか。声の方に引き寄せられていく。白い世界に光が見えて、それがどんどん強くなる。今の私に目があったら、きっと目を開けてはいられないくらいだっただろう。
ふわり、と温かい何かに触れた。

あんたの落し物は、俺達が探しておくから。…また会おうぜ。ゼロによろしくな、

ぜろ、
多分誰かのあだ名なんだろう。けれど私にその心当たりはない。そんなあだ名の人なんて私の知り合いにはいないはずだ。なのに何故か、安室さんの背中が浮かんだ。
何かを抱えて、背負って生きているあの人の背中。詳しいことは何もわからないけれど、あの人の人生が容易いものでなかったことくらいはわかる。

安室さん。
あなたに会いたい。


***


ふ、と意識が浮上する。
遠のいていた感覚が戻ってきて、自分に手も足も体もあることを確認する。ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井が写って一度だけ瞬きをした。
ほんのりと鼻につくのは消毒液の匂いだろうか。となると、ここは病院だろうか。

「………生きてる…」

小さく呟いてみたら、思いの外はっきりとした声が出た。体が痛むことも無く、ここが暑いのか寒いのかもわからない。失われた私の感覚は、相変わらずそのままのようだ。
やっちゃったなぁ。きっと生きていたら病院に連れていかれるのだろうとはわかっていたけど、感覚障害だけじゃなくこんな大怪我をこさえてしまった。どれだけの費用がかかるのかと考えると恐ろしい。
体を起こそうとしてみたが、痛みはないものの腕に上手く力が入らない。諦めて起こしかけた体をベッドに横たえ、深い溜息を吐いた。
首を動かして部屋を眺めてみるも、部屋は私一人で静まり返っている。窓の外は少し日が傾きかけているようだ。昼過ぎ、夕方前くらいだろうか。
えぇと、こういう時はどうすればいいんだっけ。考えながら、ナースコールという便利なものの存在を思い出す。
そうだ、ここが病院で病室なのだとしたら、ナースコールがあるはずだ。まずはそれで誰か病院の人を呼んで、情報確認をしなければ。
コナンくん達は、あの麻薬売人の男はあれからどうなったのか。安室さんに連絡はいっているのかどうか。コナンくんのことだから、その辺はきっと連絡してくれたのだろうけれど。
ナースコールに腕を伸ばそうとするが、力が入らず上手くいかない。体が自分のものでないような、そんなもどかしさを感じる。
腕をゆっくり動かしてまずは俯せになる。そうして、ナースコールに手を伸ばして小さなボタンをそっと掴んだ。

「ミナさん?!」

その時、病室のドアが開いて驚いたような声がした。コナンくんだ。その手には花の生けられた花瓶を抱えており、私の様子を見るなり慌てたように花瓶を棚に置いて駆け寄ってくる。

「目が覚めたんだね?!動いちゃダメだよ、横になって!!」
「だ、大丈夫だよ、痛くないし」
「だからッ!危険なんだよ!!」

私の声に被せて怒鳴るコナンくんの声に、びくりと小さく震えて動きを止める。

「痛みがないってことはストッパーがないってことなんだ!体の限界にも気付かずに無理をさせてしまうってことなんだよ!これ以上悪化させるつもりなの?!」

じっとこちらを睨みつけるコナンくんの表情に息を飲んで、ここは逆らわない方が良さそうだと思えばおずおずと布団に横になった。そんな私を見ると、コナンくんはようやく少しだけ表情を緩めてベッドサイドにあるパイプ椅子に腰を下ろした。
自分よりも遥かに年下の子供に怒られてしまった。ほんの少し情けなくなって、少し反省する。
そう言えば、コナンくんの他に子供たちの姿はない。少年探偵団の子達は来ていないのだろうか。

「…コナンくん、だけ?…少年探偵団の子達は…」
「…今日は蘭姉ちゃんと来てるから。あいつらは昨日来てた。心配してる」
「…そっか。心配させちゃってるか」
「当然でしょ。なんであんなことしたの」
「あんなこと、って?」
「ボクたちを庇って、男の包丁を受け止めたの、覚えてないの?」
「覚えてるよ。でも、あの場で他に方法あった?」

犯人の動きはかなり素早かったし、誰か人を呼んでいるような時間はなかった。あの時私が動かなければ、コナンくんはきっと刺されていただろう。
私は私の取った行動に後悔していないし、良かったとさえ思っている。

「…私、どれくらい眠ってた?」
「…丸二日くらいかな。刺されたのは一昨日のことだよ。予想よりも起きるのが早かったからびっくりした」
「…私そんなに重傷なの?」
「背中から刃渡り三十センチの包丁で刺されたんだよ?包丁はミナさんの腹部まで貫通してた。更にはその重傷で走って犯人の腕を掴んで止めて、無茶のし過ぎだよ。死んでたっておかしくなかったんだ」
「そっかぁ…死んでたかもしれなかったんだ、」

先程見た夢を思い出す。
はっきりとしたことは忘れてしまったが、温かい声に導かれていたような気がする。死なずに済んだのは、あの声のおかげなのかもしれない。

「どうしてそんなに呑気なの?死んでたかもしれないって言ったんだよ」
「呑気かなぁ」

私がぼんやりと言うと、コナンくんの視線が鋭くなる。
これは、本気で怒ってるな。おちょくるようなつもりは無いのだが、コナンくんにとってはそう感じてしまったかもしれない。

「呑気だよ。…お願いだから、もっと自分のことを大切にしてよ。ミナさんが死んだらみんな悲しむんだ」
「みんな悲しんでくれる?」
「当然でしょ。…ちゃんと、生きて」

コナンくんの言葉に視線を向けて、小さく笑う。
ちゃんと生きて、なんてこんな子供に言われる日が来るなんて。やっぱりコナンくんは普通の子供とは違うなと思いながら頷いた。

「…わかった。ちゃんと生きるよ」
「ならいい。…麻薬売人の男は、ミナさんが機転を利かせてくれたおかげで凶器の包丁から指紋も取れたし、無事に逮捕されたよ。ボク達にも怪我はなかった」
「…良かった。本当に、コナンくん達が無事で良かったよ」
「安室さんにもちゃんと連絡してあるから。会ったら一、二時間の説教くらいは覚悟しておきなよ」
「うっ、それはちょっと嫌だなぁ…」
「それだけのことをしたんだから、甘んじて受けて」
「はぁい」

安室さんにも連絡がいっていることにほっとした。よく考えたら私が刺されたのは一昨日だし、この状況を知らないはずもないんだけど。
きっとすごく心配させてしまったんじゃないだろうか。安室さんに病院に連れてきてもらうよりも先に、自ら病院送りになるとは思っていなかった。
安室さんは今何をしているんだろう。あとどれくらいしたら会えるのかな。
早く安室さんに会いたいという気持ちが膨らんで、無意識に小さな笑みが浮かんだ。

「ミナさん、」
「なに?」
「痛くない、って言ってたよね」

コナンくんの言葉に目を瞬かせる。

「…うん、言った」
「その言葉の意味、聞いてもいい?」

普通の子供だったら深く考えないかもしれない。でも、コナンくんはきっと気にするし、どういうことなのか知りたがるだろう。
コナンくんなら、あの時の私の動きから本当に痛みを感じていないことくらいは理解しているはずだ。
でも。

「ごめん、話せない」
「どうして?」
「痛みを感じないのは本当。でも、それ以上のことは話せない。原因は私にもわかってないの」

痛覚が失われて、次は一体何を失うんだろう。嗅覚?触覚?聴覚?もしかしたら視覚かもしれない。
いくつ感覚を失うのだろう。あとどれだけ失い、私には一体何が残るのだろう。
そう考えると少し怖いけれど、それでも私が思うのはこの世界で生きてみたいということ。
私はもうこの世界で独りではない。繋がってくれた人達がいる。その人達のことが好きだし、その人達を大切に思う。

「…いつか話してくれる?」
「気になるの?」
「当たり前でしょ」
「…いつか話せる日が来たら。その時は聞いてくれる?いつになるか、わからないけどね」

それはきっと、私がこの世界での人生をちゃんと歩み始めた時だ。私の言葉に、コナンくんは小さく笑って頷いてくれた。そんな小さなことでも嬉しいと思う。

「…ミナさん、いろいろ話して遅くなったけどさ」
「うん?」
「ボク達を、助けてくれてありがとう」

ほんの少しだけ困ったように笑って言うコナンくんに、一瞬ぱちりと目を瞬かせてから私も小さく笑った。

「どういたしまして」

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