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自分で口にしてから、やけにすとんと納得した。
そうだ。現実味が失われていく。この世界が私にとっての夢になる。
夢はいつか閉じるもの。もしもこの世界が夢になってしまったとしたら…私はどうなるのだろう?夢の中で生きることは出来ない。だとしたら私は、一体どこに行くのだろう。
急に恐怖を感じて眉を寄せる。じわりじわりと、足音を消して近付いてくるようなそんな恐怖だった。

「…僕の推測でしかありませんが、ミナさんの身体に起きている異常は…世界を越えた、副作用ではないかと思っています」
「世界を越えた副作用」

不意に、元彼の言い放った「消えてなくなれ」という呪いのような言葉が脳裏を過る。あの言葉は元彼の自棄の言葉だと思っていたが…もし、仮に、言葉が力を持つとしたら。あの言葉の通りになるとしたら。

「私はいずれ、消えてなくなる」

きっと近いうちに触覚が消える。そうしたら?視覚、嗅覚、聴覚、全ての感覚が私から消えて、真っ暗な世界になったとしたら。自分がどこにいて、座っているのか立っているのか倒れているのかも理解出来ず、何に触れているかもわからなくなったら。
それは果たして、存在していると言えるのだろうか?
そんな状態になっても尚、生きていけるのだろうか。私は、生きていると…生きていくと言えるのだろうか。
私が元いた世界からは、私は消えてなくなった。けれども私自身を消してなくす為の言葉だったとしたら…その呪いは、こちらの世界にも噛み跡を残しているのかもしれない。

「させません」

安室さんの声に視線を向ける。
安室さんは私の手を掴み、ぎゅうと握りしめながら真っ直ぐにこちらを見つめていた。

「させませんよ。消えてなくなるなんてこと、絶対に阻止します」

安室さんの声は、囁くように静かだった。けれども、言葉からは強い意志を感じる。安室さんは本気でなんとかしようとしてくれている。
諦めるつもりなんてない。私はここで生きていきたい。投げ出すつもりもない。
けれど。

「…でも、どうやって」

方法がない。原因が私の身体にあるのならともかく、世界を越えた副作用なんて話がもし本当だとしたら、それこそ途方のない話だ。
元の世界に帰る方法は、結局見つかっていない。手がかりもない。私の体の異常を止めるのは、帰る方法を見つけるのと同じくらい難しいことである。
消えた感覚が元に戻るかもわからない。もしかしたら消えたものは、もうずっとそのままなのかもしれない。

「このまま感覚が消えていってしまったら、…もしかしたら私、眠ったらそのままもう起きれないかもしれないんですよ」

足元から崩れていくような恐怖だった。
眠りについたまま起きることも出来ない。例えば触覚が消えて聴覚が消えたら、外部からの刺激で私は目を覚ませないかもしれない。
安室さんがなんとかすると言ってくれても、失われていくものはどうしようもないのだ。私には止められない。私に止められないものを、安室さんにだって止められはしない。
もし、目を覚まさなくなったら…それは、きっと死んでいるのと大差ない。

「それでも」

安室さんは私の手を更に強く握り込む。
薄くなった感覚を、まるで呼び起こすかのように。

「それでも僕は阻止します」

強い声だった。そして静かな声だった。
安室さんの瞳はどこまでも透き通っていて凪いでいて、その瞳を見ているとざわめいていた胸も落ち着いてくる。不思議と安心してしまう。

「そもそも、あなたの話は全て憶測でしかありません」
「そんなの、安室さんの話だって憶測じゃないですか」
「えぇ、そうです。全て憶測の域を出ません。全ては無駄に終わるかもしれない」
「だったら」
「けれど、全て上手くいくかもしれない」

私の言葉を安室さんが遮る。安室さんにじっと見つめられて、声が出なくなる。
透き通ったブルーグレー。私の大好きな優しい色。

「あなたを、あなたに優しくない世界へ帰すつもりはありません。かと言ってこの世界から消えることも許しません。言ったでしょう、ちゃんと生きると」
「…言いました、けど」
「大丈夫です。だってあなたも僕も、世界を越えるなんて夢みたいなことを経験したんですよ。世界を越えることに比べたら、あなた一人繋ぎ止めるくらい出来ないはずがない。この世界を夢になんてさせません。ここは現実です。あなたがこれから生きていく世界です」

ね、と小さく笑いながら言う安室さんに、視界が揺らいで涙が溢れた。
ぼろぼろと涙が止まらなくて、でも片手は安室さんに握り締められていて、片手では涙を拭うのも追い付かない。
安室さん、好きです。あなたが好き。何度も何度も心の中で叫ぶ。伝えてはならないと蓋をしながら、その中で精一杯声を張り上げた。あなたが好きです。あなたのことが心から好きです。
しゃくり上げながら泣く私を見た安室さんは、何故だか安心したように笑って、そっと私の頬に流れた涙を拭ってくれた。
優しい手のひら。温度なんてもうわからないはずなのに、その手のひらはとても温かかった。

私は、強くならなければいけない。そしてきっと、もっともっと貪欲にならなければならない。
安室さんに何を返せるだろうか。安室さんに何かを返すには、生きなければならない。
全てを諦めない。生きるためには、何だってしてみせる。強くなりたい。



「涙は止まりました?」
「…はい…すみません、」

なんだか私、安室さんの前で泣いてばかりではないだろうか。ずび、と鼻をすすると、安室さんは小さくクスリと笑った。

「…安室さんが私を泣かせてるんですからね」
「おや。僕としては泣き顔よりも笑顔の方が見たいんですけどねぇ」
「…イケメンが言うと嘘くさい…」
「心外です」

顔を見合わせて、二人でくすくすと笑った。
外はもうとうに真っ暗になっている。消灯時間まではまだ時間もあるだろうが、いつまでも安室さんをここに引き止めておく訳にはいかない。
それから、いろんな話をしてすっかり話しそびれてしまっていたが、私の入院費と治療費に関しても話をしなければならない。

「…あの、安室さん…」
「入院費と治療費のことなら、あなたは何も心配しなくて大丈夫ですよ」

私が言う前に言いきられてしまって、言葉を紡ごうとした唇が中途半端に開いたまま固まる。

「…あの、私まだ何も言ってないんですけど…」
「あれ、違う話でした?」
「…違いませんけど」
「本当に心配いりませんよ。あなたは被害者ですから、損害賠償請求も出来ますし…まぁその辺のことは気にしないで僕に任せてください」

そんなまるっとお任せしてしまって良いのだろうか。
思わず不安そうな顔をするも、安室さんはにこにこと笑いながら気にしないでと言う。
まぁ確かに、変に首を突っ込んでも多分私にはわからないことだらけだとは思うが。ここは大人しくしておいた方が良いか。

「…それじゃあ、お願いします」
「ええ。任されました」

安室さんは優しく笑うと、腕時計で時間を確認してから立ち上がる。

「すみません、もう少しいたいのですが…仕事にそろそろ戻らなくてはならなくて」
「とんでもないです。…来てくださって嬉しかったです。ありがとうございました」

むしろ忙しい時間を縫って来てくれたことを嬉しく思う。安室さんは小さく首を振ると、少し乱れた私の髪を指で梳かして整えてくれた。

「また明日来ます。何か違和感があったら、すぐにナースコールで看護師の方に伝えてください。それから、繰り返しますが絶対安静なのですから体に負荷はかけないように。しっかり布団を被って寝てくださいね」
「…安室さん、やっぱりお母さんみたい」

それも世話焼きの。
くすくすと笑って言うと、安室さんは一瞬言葉に詰まってからほんの少し拗ねたような、照れたような、じとりとした表情で私を見た。あ、なんだか珍しい表情だ。

「ちゃんとわかってます?」
「わかってます。言いつけは守ります」

へらりと笑えば、安室さんもやれやれと溜息を吐きながらも苦笑を浮かべてくれた。

「それじゃ、お休みなさい。ミナさん」
「はい。…お休みなさい、安室さん」

病室を出ていく安室さんをベッドから見送る。
安室さんが部屋から出ていくと、一気に部屋が静かになる。今は時計の音くらいしか聞こえない。静かだなと思いながら、天井をぼんやりと見上げた。
これからどうなるかはわからないけど…安室さんのことは信じられるし、信じたいと思う。安室さんが大丈夫と言うならきっと大丈夫だ。
緩やかな眠気を感じて目を閉じる。
病室の電気が少し眩しいけれど、絶対安静と言われたし。いずれ消灯時間になれば消えるだろう。
そのままゆるゆると、私はまどろみの中に落ちていった。


***

その晩、不思議な夢を見た。

***


「もしもーし、聞こえるか?」

誰かの声がする。あれ、この声はどこかで聞いたような気がする。ええと、どこで聞いたんだっけ。曖昧にぼやけて上手く思い出せない。

「おーい。起きれそうか?」

軽く体を揺さぶられる感覚に眉を寄せる。
なんだろう。えぇと、起きれそうかと聞かれたら、まず起きる方法を思い出さなければいけない。
少し指先に力を入れてみると、ぎゅうと握り込むことが出来た。そのまま瞼に力を入れて、ゆっくりと押し上げる。

「お、お目覚めか」
「……えっと…」
「おはよう」
「……おはよう、ございます…?」

横になった私の顔を、一人の男性が覗き込んでいた。
綺麗に切りそろえられた短髪と、がっしりとした体。眉毛は太く目つきはやや鋭いが、その顔に浮かんだ笑みから人の良さが見て取れた。

「あー、ミナちゃん、つったっけ」
「えっ私のこと知ってるんですか」
「おぉ、ずっと見てたからな」
「み、見てた…?!」

思わずギョッとして目を剥けば、男性は慌てたように手と首を横に振った。

「違うぞ?!ストーカーとかそういうんじゃないからな?!」
「…違うんですか」
「違う!……つか、あー、こんな話してる場合じゃねぇんだ。先に状況の説明させてもらってもいいか?」
「…はぁ…えっと、あなたは…?」

表情がくるくる変わる面白い人だ。悪い人ではなさそうでほっとする。この人は私のことを知っていたみたいだが、私は初めて見るため名前もわからない。なんと呼べば良いか分からず首を傾げていたら、男の人は頭を掻きながら小さく唸り、へらりと笑う。

「…まぁいっか。伊達ってんだ。よろしくな」
「えぇと、伊達さん。…よろしくお願いします」

ぺこりと頭を下げると大きな手のひらに頭を撫でられる。伊達さんは私の手を取って立ち上がらせると、辺りをぐるりと見回した。
その動きに習って私も辺りを見回してみるのだが…一面、真っ白い空間。地面がどこにあり空がどこにあるのかさえ分からない、ただただ白い空間に私と伊達さんは立っていた。

「ここはなんつーか、世界と世界の狭間、みてえなもんなんだってよ。あんた、世界を越えたろ?」
「そんなことまで知ってるんですか?!」
「おう」
「そしてそんな突拍子もない話を疑う様子もない…」
「そりゃ、それが真実だって知ってるからな」

伊達さんは私の様子を見て少し楽しそうに笑うと、それでだ、と話を続けた。

「今言った通りここは世界と世界の狭間。つまりあんたの世界と…こっちの世界の間ってことだ。一歩足を踏み外すと、多分あんたは元の世界に帰るか二度とここから出られなくなる」
「…えぇぇ…なんだかすごくファンタジー過ぎませんか?さすがにちょっとそういう設定恥ずかしいというか」
「どうせあんたの見てる夢だ、諦めな」
「私の脳内どうなってるんですか…」

なんだ、世界と世界の狭間って。どこぞのRPGゲームのような話になんとなくむず痒くなってげんなりするも、世界を越えるなんてことがそもそも現実離れした出来事であるし、そう思うとファンタジーなことも有り得るのかもしれない…。…恥ずかしいことに変わりはないが。
まぁ何にせよ、伊達さんの言う通りこれは私の夢なのだろう。
夢ならきっと何でもありだ。私はそう開き直ることにした。

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