31

「遅ェ」
「すみません!!」

萩さんに見送られて真っ直ぐに進むこと…ええと、どのくらいだろう。この場所では時間の概念がないみたいだから具体的にどれくらいの時間歩いていたかはわからないが、とにかく結構な距離を歩いたと思う。
ここは世界と世界の狭間で…私の夢の中らしいから、当然なのかもしれないが真っ白い世界に果てはない。行っても行っても景色は変わらず、再び私の感覚が麻痺してきた頃だった。
黒点。いや、遠目に男性らしき人の影が見えた。
次に会うのはあの人かな、あの人を目指せば良いのかな。そう思いながらそちらに歩み寄ってみたのだが。
開口一番に言われたのが、冒頭の一言である。私に謝る以外出来るはずもない。特に私が悪い訳でもないはずなのだが、とりあえず私は勢いよく頭を下げた。

「チンタラしすぎなんだよ、俺がどんだけここで待ってたと思ってやがる」
「すみませんすみません、いや、でも、その、え、これって私が悪いってことになるんですか」
「他に誰のせいだってんだ」
「すみませんごめんなさい私が悪いです」

伊達さんと萩さんはなんとなくいい人だなってすぐに思えたのに、三人目の男性はインパクトが強すぎた。
黒いスーツに黒いネクタイ、それから真っ黒なサングラス。そして口もあまり良くない。粗暴な印象を受ける喋り方に、思わず萎縮してしまう。
私がビクビクとしていたら、その男性は深い溜息を吐いてがしがしと頭を掻いた。

「んなビクついてんじゃねぇよ、別に怒っちゃいねぇ」
「………」
「距離を取んな。怒っちゃいねぇって言ってんだろ」

そうは言うもののやはり少し怖いことに変わりはない。少し離れていた距離をじりじりと詰めると、男性はおもむろにポケットから取り出したタバコを咥えて火を付けた。
ゆらり。白い煙が白い世界に溶けていく。

「松田」
「え?」
「俺の事はそう呼べ」
「…松田、さん?」
「おう」

伊達さん、萩さんに続いて、三人目の人は松田さん。
サングラスで目元は見えないものの、鼻筋は通っているし多分だけどこの人もイケメンだ。
なんだろう。こんなイケメンを見る機会ってそうそうないような気がするのだが。そう思いながら、私はぱちぱちと目を瞬かせて松田さんを見つめた。
すると松田さんは再びポケットを探り、何かを握るとそれを私の方に突き出した。

「ほらよ」

もしかして、と思いながら手を上に向けて差し出せば、そこにぽとりと石が落とされる。瞬間、バチンと静電気のような痛みが指先に走った。

「ぅわ痛ッ」
「はは、やっすいイタズラグッズみてぇだろ」

松田さんは笑っているが笑い事ではない。わりと結構痛かったのだ。
恨めしげに松田さんを睨んでから、私は改めて手のひらに乗せられた石を見ると、今までの丸っこい形から一変して少しゴツゴツとしている。荒削りされたような歪な形で、透き通ってはいるが色はレモンのような濃い黄色。試しにもう一度ぎゅっと握ってみると、やはりバチンと痛みが手のひらに走って取り落としそうになって慌てた。

「痛い…」
「あんたの落し物だとよ、取っとけ。探すのすげぇ苦労したんだから」
「…これなんか握ると痛いんですけど」
「言ったろ、安いイタズラグッズだって」
「安いイタズラグッズ………」
「痛みを感じられるってのは大事なことだ。死んじまったら、痛みも何もねぇからな」

松田さんの声はとても軽かったけれど、なんとなく胸が痛くなって視線を上げる。松田さんはどこか遠くの方を見ながら、のんびりとタバコを吹かしていた。
…痛みを感じられるのは大事なこと、か。私は目を細めてもう一度石を見つめると、それを先程の二つの石と同じようにポケットへと入れた。

「あんたは、人の痛みを感じられるわりに自分の痛みには鈍いみてぇだな」
「…そうでしょうか」
「でなきゃこんなめんどくせぇことになってるかよ。痛ェなら痛ェって言え。黙ってんじゃねぇ。痛ェのに何も言わねぇでブッサイクな顔で笑うな気色悪い」
「ぶ、…ぶさいく、」
「そこだけ拾ってるんじゃねぇよ重要なのはそこじゃねぇ」

怒涛のように降り注ぐ言葉に上手く反応を返すことが出来ない。さすがにそんなはっきりと不細工だと言われると傷付く。
ぽかんと口を開けて松田さんを見上げていたら松田さんは私に顔を向け、突然わしゃわしゃと乱暴に私の頭を撫で回した。

「わ、わ、ちょ、松田さん…!」
「あいつはいい男だぞ。…それに見合うくらい、お前もいい女になれ」

穏やかな声だった。
松田さんの手が離れて、ぐしゃぐしゃに乱れた髪を整えながら顔を上げる。サングラスで変わらず目は見えなかったけど、口元に浮かぶ笑みは優しかった。

「…ミナ、なんて呼んだらあいつに怒られちまうかなぁ」
「えっ?」
「いいから、おら。次はそっちの方向だ。行けよ」

ぱん、と背中を叩かれてよろめく。思わず振り向こうとしたら、大きな手のひらで頭頂部を強く押さえ付けられる。
ぐぐぐと力が込められて痛みに悲鳴を上げた。

「痛い痛い痛い!松田さん!痛いですって!」
「わかってんだろうが振り向くな。精々頑張って、あいつを落としてみるんだな」

ぱっと手が離されて、そのまま背中を強く押された。
よろよろとした足取りで歩き出す。押さえられていた頭はズキズキと痛んで、ほんの少しだけ涙が浮かんだ。

「酷いなぁ…」
「チンタラしてんじゃねぇよ走れ!どうせここじゃ疲れもねぇだろ!」
「ぅわハイッ!」

背後から怒鳴られてびくりと震えて立ち止まった。口は少し悪いけど、その言葉の節々には優しさが顔を覗かせている。
怖い人だと思っていたけど…やっぱり、松田さんもいい人だ。大きく息を吸って、声を乗せる。

「…松田さん、いろいろありがとうございました!」
「おう。…じゃあな、ミナ」

振り返らないまま私は走り出す。
タバコの香りが遠ざかる。白い世界を、私はただ真っ直ぐに駆け抜けた。


***

走る。果ての見えない世界を走る。
疲れはない。息の乱れもない。足は軽く、心も軽い。今ならどこまででも走れる気がした。
早く夢から覚めたい。安室さんのいる世界で生きていきたい。
私の幸せはきっと、ここにあるのだ。

***


真っ直ぐに走っていた私は、徐々にそのスピードを落としてやがて立ち止まった。
視線の先に、誰かの後ろ姿が見える。体格からして男性。黒のズボンに、グレーのパーカーを着ているようだ。肩にはギターケースを背負っている。
彼が、次の人だろうか。

「待ってたよ」

何故だか近付くのも憚られてどうしたものかと思っていれば、男性から声をかけられる。
男性がゆっくりと振り向いた。輪郭のラインに髭のある、顔立ちの整った人だった。丁寧な物腰と柔らかな笑みに目を瞬かせる。

「あ、えっと」
「初めまして。ミナさん」
「は、初めまして!」

慌てて挨拶を返して頭を下げる。
どうしようかと思ったが、微妙な距離を保ったまま話をするのもおかしいかと思いゆっくりと歩み寄る。男性は、私が近くに行くまで黙って待ってくれていた。
私が目の前まで行って見上げると、改めてにこりと微笑んでくれる。

「俺の事は、ヒロと呼んでくれ」
「…えぇと、ヒロさん」
「うん。よろしく」

爽やかな人だな。自然と私も笑みが浮かんで頷いた。
ヒロさんは私の顔をまじまじと見ると、それからくすりと笑う。

「どう?ゼロは君に迷惑をかけたりしていない?」
「えっ?えっと、ゼロって…安室さんのことですか?」
「そうだよ。俺はあいつのことをゼロって呼んでるんだ」
「ゼロ……」

なんだかカッコイイあだ名だなと思いながら目を瞬かせる。それから慌てて首を横に振った。

「迷惑なんてとんでもないです!いや、私はご迷惑おかけしっぱなしって感じで…その、申し訳ないばっかりなんですけど…」
「あいつは迷惑なんて思ってないよ、大丈夫。…ミナさんは甘えるのが下手だからなぁ」
「…なんか、安室さんと同じようなことを言うんですね」

安室さんにも以前そんなようなことを言われた気がする。あれは確か…元彼が家に来た出来事の後だったか。甘えるのが下手と言われても、私は現時点で相当甘えさせて頂いているのだ。
安室さんの家に転がり込んで、洗濯や掃除は任せてもらってるとは言ってもご飯も全部お任せしてしまっているし。更にはベッドの占拠だ。迷惑以外の何物でもないはずなのに、安室さんは嫌な顔一つしない。
…だから、甘えてしまうのだけど。自分がとても嫌な女に思えて苦笑した。

「ゼロは、」

ヒロさんの言葉に、無意識のうちに落としていた視線を上げる。
ヒロさんは私を見つめて、少し困ったように笑っていた。

「迷惑なんて思ってないよ、本当に」
「…そうでしょうか」
「うん、俺が保証する。君が気に病むことは無い」

それも、安室さんに言われたな。
なんだかヒロさんと安室さんがどことなく似ているような気がしてくすりと笑う。安室さんの気持ちがわかるくらい、ヒロさんは安室さんのことをよく知っていて…もしかして、仲も良いのだろうか。

「ミナさんは、生きる覚悟は出来た?」
「…それはその、私がちょっと特殊な身の上で、世界どうこうの話をヒロさんがご存知ということでしょうか」
「うん。君は、自分の世界じゃなくて…こちらの世界で生きるつもり?」

伊達さんや萩さん、松田さんもなんとなく私のことについて知ってるみたいだったが、やはりヒロさんも全て知っているようだ。…皆さん、私の名前も知っていたし。

「…一つだけ、気掛かりなことがあるんです。以前付き合ってた男性が…こっちの世界でも私の世界でも共通してた人物で…その、」

彼を死なせてしまった、のだと思う。
忘れていたわけじゃない。考えないようにしていただけだ。どちらの世界でも爆死したであろう彼のことを。
どうするのが最善だったのかわからない。どうしてあんな行動を取ったのだろうと考えたりしたこともある。けれど、死人に口なしとはよく言ったもので、答えなどは出ないのだ。

「彼は…彼も、少し特殊で。世界と世界が重なったほんの数ミリの隙間に出来た異分子のようなもの、だよ。彼が世界を越えるきっかけだった」
「……なんでそんなファンタジーなことを真顔で話されているんですか?」
「君の夢の中だからかな」

結局私か。さすがに頭を抱えたくなってくる。

「この世界では、人の死は多分とても身近なものになる。…もし少し後悔してるなら、忘れないでいればいい」
「忘れないでいる?…そんなことでいいんですか?」
「死人は、忘れられてしまったら本当に存在しなかったものになるからさ。ゼロや君が世界を越えたのは、間違いなく彼が引き金だった。嫌いな奴だろうがどうでもいい奴だろうが、死んだ人間のことを覚えておくというのは大事なことだよ」

忘れないでいること。
いずれそれが、私の気持ちを整理するきっかけになるだろうか。
私は顔を上げて頷く。ヒロさんはそんな私を見て頷き返してくれた。

「それで、君の気持ちは?」
「はい。…こっちの世界で生きていきたいです。私、この世界で出会えた人達皆のことが好きです。……安室さんのことが、好きです」

私と繋がってくれた人達との縁を切りたくない。
元の世界には祖父母の墓がある。出来ることなら一度お参りくらいしたいけど、不孝な孫でごめんなさいと思うけど。それでも私はきっと、こちらの世界を選ばなければ一生後悔する。
問題は山積みだ。どうにかなるかどうかなんてわからない。だけどきっとなんとかなる。今までもなんとかしてきた。なんとかなってきた。
振り返るな。
伊達さん、萩さん、松田さんの言った振り返るなという言葉が、強く私の胸に響いていた。
振り返らない。

「私はこの世界で、…ここで。生きていきます」

ヒロさんは黙って私の言葉を聞いてくれた。そして、やがて優しく笑って大きく頷く。

「わかった。…でもそれ、ゼロに直接言ってやってくれよな。特に、好きです、の部分はさ」
「えっ無理です」
「えっ即答?」

伝えられるはずもない。私の気持ちは私だけがわかっていればいいのだ。
ヒロさんは苦笑したけど、やれやれと肩を竦めて溜息を吐いた。

「…一筋縄じゃいかなそうだなぁ…」

ヒロさんの小さな呟きに首を傾げる。何の話だろうと思ったが、ヒロさんは気にしないでと軽く手を振る。
それからポケットに手を入れ何かを握ると、それを私の方に差し出した。

「これが最後の君の落し物」

ヒロさんの手のひらの上に乗せられた、小さな雫型の石。透き通るブルーグレー。そっと手に取ると、ひんやりと冷たい。きらりと光るそれは、ずっと見ていられそうなほど綺麗だった。

「…これが、最後の私の落し物?」

見つめていると何故だか心が凪いでいく。優しくてあたたかくて、ほんのちょっとだけ胸の奥が痛むような切ないような、そんな気持ちにさせる。
…そうか、これ、安室さんの目の色と同じなんだ。

「大事に取っておいて。でも、それと同時に覚悟して欲しい」
「覚悟?」
「君はこの世界に繋がれる。元の世界にはもう戻れない。それでもいい?」

あぁ、やっぱりファンタジーだ。
何だかおかしくなってクスクスと笑う。ヒロさんは不思議そうに私を見つめて首を傾げている。
だって、面白いじゃないか。世界を越えて、元の世界に戻るだの戻れなくなるだの。重大な決断を迫られる主人公の気分。よくあるゲームやアニメの勇者ってところだろうか。
けれど私は勇者でもなんでもない、ただの一般人なので。

「構いません!」

どうせこれは全て私の脳内が見せてる夢だ。
そろそろ目覚めの時間かな。長かったけど、素敵な夢だった。
笑顔で頷くと、ヒロさんは嬉しそうに微笑んだ。

「ゼロを頼んだ。…それから、ゼロによろしく」

ヒロさんに貰った石を強く握りしめる。
白い世界がひび割れる。
ぱきり、ぱきり。ぱき、ぱきん。

「ヒロさん、ありがとうございました!伊達さん、萩さん、松田さんにもよろしくお伝えください!」

私がそう叫ぶと、ヒロさんはぽかんと口を開けて目を瞬かせた。それから、思わずと言ったように吹き出して笑う。

「…わかった。伝えておくよ」

白の世界が剥がれ落ちる。二つの世界の重なっていた空間が、引き剥がされていく。

「さようなら、ヒロさん!」
「…あぁ。さよなら、ミナさん」

透き通った割れる音。
一際大きく響いたその音と共に、私の意識はぐるりと反転して強く引っ張り上げられる。



長い、
長い夢だった。



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