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急速に感覚が戻ってくる。
指先から痺れるようなチリチリとした痛みが走り体全身を伝わって、じわじわと血流の流れを実感する。どくどくと耳元で鼓動の音がするようだった。
ぎゅうと胸が詰まって、ゆっくりと息を吐き出す。それと同時に目を開けると、部屋全体が柔らかいオレンジの光に包まれていた。時刻は夕方くらいのようだ。
暑い。ベッタリと汗をかいている。そして強い耳鳴り。気持ちが悪くて体を起こそうと力を込めて…貫かれるような、今まで経験したことの無い激痛に体が強ばった。

「ッう、え、…っ痛、」

あまりの痛みに呼吸さえ上手くすることが出来ない。私は起こしかけた体を俯せに倒して、一体何が起こったのか理解するのに必死だった。それほどまでに、突然の痛みだった。
お腹から背中にかけて、太い杭でも打ち込まれているかのようだ。その痛みが、体の神経を伝って脳天までずきりずきりと響いている。
痛い、なんてもんじゃない。死ぬ。これは死んでしまう。ナースコールに手を伸ばしたいが、指一本動かすことさえ出来ない。
浅く呼吸を繰り返すのが精一杯で、それも呼吸により腹部が動けば強い痛みに涙が浮かぶ。

「……ぃた、」

小さく呟くも楽になるわけでもない。早く誰かを呼ばないと。でもどうすれば。
本当に死ぬ。いっそ殺してくれと喚きたくなるような痛みに半ばパニックになりかけた。

こんこん、

響くノックに目だけを動かして視線を向ける。
ゆっくりと静かに開かれる扉から顔を覗かせたのは、お見舞いに来てくれたであろう安室さんだった。
夕日に透ける金の髪。ブルーグレーの瞳が私を捉える。
安室さんだ。なんだか長いこと会っていなかったような気がして、途端に安心感から目に溜まっていた涙がぼろぼろと零れる。

「…ぁ、むろ、さ…」
「ミナさんっ?」

俯せのままぼろぼろと涙を流す私を見た安室さんはぎょっとし、慌てたように駆け寄ってきてくれる。
痛みで意識が朦朧とし始めて、視界がチカチカと歪む。安室さんの方に力を振り絞って手を伸ばすと、強い力で握られた。
大きな手。温かい手のひらに吐息が零れた。

「ミナさん?!どうしました?!」
「…ぃた、い、…おなか、」
「えっ、」

安室さんが息を呑む。

「……いたくて、しんじゃいます…」
「ミナさん、あなた痛覚が…」
「あの、あむろさんに、…いわなきゃいけないこと、あって」

痛みに声が引き攣る。
既にぼやけかけている夢の記憶。私の夢の白い世界。
伝えなきゃ、掻き消えてしまう前に。
安室さんの手を強く握り返して、私は声を絞り出す。

「…だて、さん。…はぎさん、…まつ、だ、さん。…ヒロ…さん、……あなたに、…よろしく、って、……ぜろに、…よろしくって…いってました…」

本当は、あなたのことを頼むとも言われたのだけど。痛みでぐちゃぐちゃな思考では、よろしくというメッセージを伝えるのが精一杯だった。
安室さんの表情ももう見えない。痛みに意識が遠のいていく。

人間って、痛みで死ぬことってあるんだろうか。


***


結果として私が死ぬことは無かった。当然である。
けれども人生で経験したことの無い激痛は、本当に私を死に至らしめるのではないかと心から思ったのだ。コナンくんに「死んでいたかもしれない」と言われた言葉の意味をここに来てようやく実感した。間違いない。一歩間違えたら死んでた。生きていることに感謝する。
背中から腹部まで包丁で貫通されるとこんな痛みがするのかと、必要のない知識を得てしまったことになんだか虚しくなった。
あの日の激痛の原因は、一定時間で鎮痛剤を投与されてはいたものの私の痛覚が無かったせいで薬の効きの判断がつかず、薬が切れきった最高潮に痛い時に私が目を覚ましてしまったということだったらしい。私もタイミングが悪い。
あの時は安室さんが直ぐにナースコールを押してくれたらしく、次に私が目を覚ました時には鎮痛剤も投与された後ですっかり落ち着いていた。医学ってすごい。
その後精密検査を終え、味覚、触覚、痛覚にも異常は見つからず私の体は大怪我をしているということ以外はすっかり元通りだ。腹部が痛むため感じづらいが空腹感もある。喉は普通に乾く。
感覚があるって素晴らしい。

「本当に肝が冷えましたよ。病室を覗いたらあなたが俯せで泣いてるものですから。何事かと思いました」
「その節は本当にありがとうございました…お陰様で順調に回復しています」

しばらく慣れない痛みに苦しめられていたが、ようやくそれも落ち着いてきてゆっくりと安室さんと話が出来る時間が取れた。
安室さんもしばらく忙しかったみたいで、改めて対面して話をするのは少しだけ久しぶりだ。今日は完全なオフらしく、面会時間と同時に会いに来てくれた。

「…でも本当に、あなたの感覚が戻って良かった。どうです?急に現実味を帯びた世界は」
「痛いし疲れるししんどいけど、でもやっぱり生きてるって感じがします。死んだら、痛みも何も無いですもんね」

口にしてから、なんだか引っ掛かりを覚えて首を傾げる。…誰かに言われた言葉のような気がしたけど、誰だったか。思い出せない。

「…ミナさん」
「はい?」
「あの日、僕に言った言葉を覚えてますか?」

あの日、とは私が激痛に呻いたあの日のことだろう。安室さんに言った言葉とは。痛みに思考もぐちゃぐちゃだったから、自分がどんなことを言ったのか正直あまり覚えていない。

「私、何か言いましたっけ」
「…よろしく、とか言ったのを、覚えてませんか」
「よろしく?」

ぱちぱちと目を瞬かせる。
え。何をよろしくしたのだろう。私まさか痛みに朦朧とした意識の中で、安室さんに「ナースコールよろしく」とでも口走ったのだろうか。そうだとしたら相当恥ずかしい。

「え、…え、何をよろしくって言ったんですか…私」
「覚えてないならいいんです。大したことではありませんから」
「き、…気になります…!」

変なことを言っていなければ良いのだが。よろしく。よろしくって、一体何を。気になってそわそわしてしまうものの、安室さんはそれ以上言うつもりもないのかそんな私を見て小さく微笑んでいる。恥ずかしい。

「そう言えば、痛みで目を覚ます前に夢とかは見ました?あんな痛みに苦しむ直前なら、悪夢でも見ていたんじゃないかと少し心配していたんですよ」
「夢見てました!あ、でも内容はほとんど覚えてないんです。…えーと、…なんか真っ白い世界を歩いたり、走ったり、してた気がします…」

あれ、そんな単純な夢だったかなと思いながら首を傾げる。なんだかもっと、いろんな出来事があった気がするのに…思い出そうとしても、霞がかった記憶は追うことが出来ずに霧散する。

「すごく長い夢だった気がするけど…でも、悪夢ではありませんでした。とっても優しい夢だった気がします」

それだけは確かだ。どんな夢だったかは思い出せないけど、夢を見たことだけは覚えている。そしてその夢を思うと、胸が温かくなるのだ。良い夢だったに違いない。

「優しい夢を見て目が覚めたら感覚が全部戻ってるなんてちょっと不思議ですよね。なんだかすごくファンタジー」

安室さんは私の言葉にほんの少しだけ目を細めると、とても柔らかい笑みを浮かべた。
あまりに優しいその表情に魅入られる。

「そうですか。…良い夢なら良かった」

あなたはきっと守られたんですね。
安室さんは小さくそう呟いたけど、その言葉の意味は私にはわからなかった。けれど安室さんの表情が優しくて、どこか切なかったから意味を聞くことは出来なかった。
安室さんが少しだけ視線を落とし、彼の髪がさらりと揺れる。
優しい表情なのに、なんだかとても悲しそうで、寂しそうで。どこか遠くを見やるようなその瞳に、ぎゅうと胸が痛くなった。

「…安室さん」
「…、なんですか?」

声をかけると、安室さんはぱっと顔を上げていつもの笑みを浮かべてくれる。
そのことに少しだけ安心して、私も小さく微笑んだ。

「あの、図々しいお願いしてもいいですか?」
「なんでしよう。僕に出来ることなら良いのですが」
「退院したら、安室さんのご飯が食べたいです」

空腹感を感じるようになり、味覚が元に戻って、安室さんの料理が恋しくなった。いきなりがっつりしたものは食べられないだろうが、それでも安室さんの料理が食べたい。
安室さんは私の言葉にぱちりと目を瞬かせると、すぐに笑って頷いてくれた。

「もちろんです。ミナさんのために腕を振るいますよ」
「やった。楽しみにしてます」
「だから、早く元気になって退院してくださいね。…待ってますから」

待っている。その言葉があれば、私はきっといくらでも頑張れてしまうんだろうな。なんだか嬉しくなって大きく頷く。
話が一区切りつくと、安室さんは持っていた鞄から小さな封筒を取り出した。封筒自体は小さいが、少し厚みがある。なんだろうと思っていれば、それを差し出されてますます首を傾げる。

「忘れないうちに、これを渡しておきます」
「…なんですか?これ」
「開けてみてください。ただし、声は上げないように」

封筒を受け取り、言われるままに封を切って中を覗く。…なんだろう、何枚かの、カード?
封筒を逆さまにして中の物を取り出して、私は息を飲んだ。…声を上げそうになった。だって、どうして。

「…、…これ…」

入っていたのは、健康保険証。それから、クレジットカード。銀行のキャッシュカード。どれも名義は私になっていて、どういうことだと安室さんの顔を凝視した。
この世界において私の戸籍はない。私名義の保険証はおろか、クレジットカードやキャッシュカードも作れないはずだ。
安室さんは小さく笑うと、軽く肩を竦めた。

「正真正銘、あなたの名義です」
「どうして……」
「あまり深くは聞かないでください。詳しくは話せないんです。けれど偽造品ではないので、堂々と使っていただけます」
「…だって、私、戸籍…」
「そちらも、問題ありません。…あなたがこの世界で生きると決めてくれた時から、これくらいはさせていただこうと思っていたんです。仕事をすることも、家を借りることも出来る。…あなたは、この世界でちゃんと生きていけるんです」

一体どんな手段を使ったのか。安室さんの様子だと聞いたところで教えてはくれないだろうし(そもそも詳しくは話せないと断言されてしまった)、私が考えたところで答えも出ないだろう。
手元のカードを見つめる。真新しいカードは、私がこの世界にいる証。胸が熱くなって、きゅっと下唇を噛んだ。

「……安室さん、」
「はい」
「…ありがとうございます。…すごく、嬉しい」
「…はい」

この世界で生きていていいんだ。
存在しないものとして生きる方法を探さなければいけないかと思っていた。その覚悟をしていなかったわけじゃない。それでも、嬉しさに涙が浮かんだ。

「しかし、これからの生活のことを考えるのは退院してからで良いでしょう。今は傷を癒すことだけを考えて、しっかり体を休めてください」
「…はい。…安室さん」
「なんですか?」
「退院したら、たくさん、たくさん恩返しさせてくださいね。安室さんは私の恩人です」

あなたのためなら、きっとなんでも出来る気がする。
安室さんは私の言葉に目を瞬かせると、苦笑を浮かべた。

「…あなたが元気になってこの世界で生きてくれることが、一番の恩返しですよ」

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