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「…美味しい…美味しいです…」
「良かった。…久し振りに、あなたのそんな顔を見た気がします」

お昼は軽めに、安室さんお手製のクラムチャウダーとハムサンドだ。感覚が戻った際に味覚も戻っていた為病院食を口にした時に味があることに感動したものだが、それでも病院食は味も薄いし正直あまり美味しくない。入院生活中は安室さんのご飯を食べることを楽しみに過ごしていたが、今日それがようやく叶って大歓喜である。味が感じられるって素晴らしい。
コクのあるクラムチャウダースープは身に染みるようだし、ハムサンドは変わらぬ美味しさで何度食べても感動する。
心から美味しいと言えたのはいつぶりだろう。ご飯が美味しい。じっくり味わいながら食べていたら、安室さんがほんの少しだけ苦笑を浮かべ、それでも柔らかい表情でこちらを見ていた。

「だって美味しいんです…」
「本当に味覚が戻ったんだとわかってほっとしています。そんなに喜んでいただけるなら、夕食も頑張らないといけませんね」
「えっ、いえいえ、安室さんのご飯なら何でも美味しいの知ってますし…!」

チャウダースープを飲み、ほうと息を吐く。幸せだなぁと思いながら頬を緩めた。
安室さんは私と一緒にハムサンドをつまんでいたが、ふと視線を上げる。

「ミナさん、身分証明書を得たことで職を探したり家を借りたりすることも出来るということは以前お話しましたが、その辺を考えるのはもう少し体調が落ち着いてからで良いでしょう」
「えっ?」

退院したからには早いところ自分で生きる方法を模索していかねばならない。私としてはすぐにでも何か職を探し、ある程度資金を貯めてすぐにでも引っ越すつもりだったのだが。安室さんの言葉に目を瞬かせて首を傾げれば、安室さんは小さく肩を竦めた。

「背中から腹部にかけての傷は、塞がったとはいえまだ完治したわけではない。体力も落ちたでしょうし、今のあなたは“ひとまず普通の生活を送れるようになった”に過ぎません。今無理に行動を起こそうとするより、しっかり体を整えてからの方が良いと思いますよ」
「…で、でも、そうしたら私…まだしばらく安室さんのところにご厄介になってしまうことに」
「構いませんよ。僕もそのつもりですから」

確かに安室さんの言う通りなのである。
歩くのにはもちろん、体を動かすのは基本的に時間がかかるし、時折強い痛みが走ることもある。階段を少し昇り降りするだけで息は切れるし、普通に歩くのでも一キロメートルがやっとと言ったところだろう。
リハビリで立って歩くことが出来るレベルまでは体力が戻ったが、今までのような生活ができるほど元通りになったわけではない。重いものだって到底持つことは出来ない。
その自覚があるからなんとも言いづらいが、正直安室さんのお荷物になるのは嫌なのだ。今まで洗濯と皿洗いや掃除はさせていただいていたが、恐らく今の私に出来るのは皿洗いや掃除が精々。それも長時間は出来ないだろう。
今までですら心苦しかったのに、更なるお荷物としてここにいてしまって良いのかと眉尻を下げた。

「…でも、」
「言ったでしょう?あなたが元気になってこの世界で生きてくれることが、僕への一番の恩返しになります」
「…そう、なんでしょうか」
「ええ、そうです。それに、まだ万全な状態でないあなたを一人にするのはやはり不安ですしね」

ハムサンドをもぐ、と咀嚼しながら考える。
自分的にも、今すぐ自分自身の力だけで生活していくのはかなり不安が付きまとう。
この世界で職を探すのも、容易いことではないだろう。身分証明書が与えられたとは言っても、私はこの世界での経歴がない。どんな学校を経てどんな仕事をしたのか、上手く書くことが出来ないのだ。いきなり正社員や契約社員なんて望めるはずもないし、まずはバイトからかなと考えている。
家を借りるのは更にその先の話だ。収入を得てからでないと考えられない。

「焦らなくていいんです。ゆっくり考えていきましょう。時間はたっぷりあるんですから」

安室さんの言葉に胸が暖かくなる。
嬉しいことに変わりはない。けれども。

「…でも、安室さんベッドで寝てくれないじゃないですか」
「当然です。女性を床に転がして自分がベッドで寝るなんてことは出来ませんよ」
「私が職を見つけたり家を見つけたり出来るまでにどれくらいかかるかわからないのに、その間ずっと安室さんを床に転がしておくなんて私だって嫌です」
「そうおっしゃると思っていたので布団は一式揃えてあるんです」
「待ってください行動が早すぎませんか…?!」

言葉を無くす私を見て、安室さんはくすりと勝ち誇ったように笑う。

「なので、諦めてください」

全てが先回りされている。外堀から全て埋められていくような感覚にひくりと頬が引き攣った。
拒否できる要素がない。諦めてくださいなんて、最初から用意されていたセリフに違いない。
仕方がない。私は、安室さんに勝つなんてこと絶対に出来ないのだから。
恩返しをしたいのに迷惑をかけっぱなしで心苦しいことに変わりはないが…安室さんが言った通り、時間はたっぷりある。
今下手に行動して逆に迷惑をかけてしまうことになるかもしれないのなら、もう少しだけ言葉に甘えさせてもらってからちゃんと恩を返したい。

「…わかりました。…それじゃあ、もう暫くお世話になります」
「はい。お世話します」

ぺこり、とその場で頭を下げたら、安室さんはくすくすと笑って頷いた。
それから顔を見合わせて、互いにまた小さく笑う。
嬉しいな。安室さんと過ごす時間が、とても幸せだ。


***


お昼を軽めにしたせいか夜の時間になると私の腹もそこそこの空腹を訴え、安室さんに作ってもらったトマトリゾットをご馳走になった。お医者様からはいつも通りのものを食べていつも通りの生活に戻っても良いと言われてはいるけれど、いきなり重たいものを食べてお腹が引っくり返らぬよう消化の良いものをという安室さんの配慮らしい。本当に頭が上がらない。
食事後は安室さんと交代でお風呂に入る。安室さんの後お風呂に入って、鏡で背中と腹部の傷を見た。入院中既に抜糸は済んでいるが、肌はまだ引き攣って少しよれている。時間が経てば綺麗になると聞いているが、今はまだ痛々しいなと苦笑する。綺麗になるとは言っても完全に消える傷ではない。他人からすれば見るに堪えない傷だと思うけど、私にとっては子供たちを守った証でもある。そっと傷痕をなぞって、お風呂を出た。
寝室に行くとベッドの横に布団が敷かれていて、本当に安室さん一式揃えたのかと思わず頭を抱える。むしろ布団があるのなら私がベッドでなくてもいいのではと思い進言してみたが敢え無く却下された。

「さぁ、寝ますよ」
「うぅ、解せない…」

安室さんに促されるままベッドに横になり布団を被った。それをちゃんと確認してから、安室さんは部屋の電気を消して布団に横になる。
安室さんのベッドのシーツはお日様の匂いがした。洗濯したてなのだろう。さらさらで気持ちがいいのに、安室さんの匂いがしないことをほんの少し残念に思う。
私が入院してる間くらいは、ちゃんとベッドで寝てくれていたんだろうか。枕に頬を擦り寄せて目を閉じる。

「おやすみなさい、安室さん」
「ええ。…おやすみなさい、ミナさん」

暗闇の中で声を交わして、すぐ側にある気配に安堵する。そうしているうちに、私はいつしか眠りに落ちていた。



夜中に、ふと意識が浮上した。
お腹の奥の方から背中辺りにかけてどんよりと重く痛むのに小さく呻く。
…夕飯後に鎮痛剤を飲んだのに…効果が切れたかな。

「…っ、」

寝返りを打とうとしたらずきりと強く痛み息を詰める。ずきりずきりと心臓の動きに合わせて痛みが強くなるのに眉を寄せて、少しでも楽な姿勢を見つけようとゆっくりと体を動かす。俯せになるとお腹の奥の方が押されて痛んだが背中の痛みはマシになった。それでも、痛みに呼吸が浅くなるのはどうにもならない。

「…ミナさん?」

衣擦れの音がして、暗闇の中で安室さんが起き上がるのが見える。

「…ごめんなさい、起こしちゃって」
「痛みますか」

安室さんの手が伸びてきて、私の額に触れた。ひんやりとしていて気持ちが良くて、小さく息を吐くとその手が私の髪を撫でた。気付かないうちに少し汗をかいていたみたいだ。

「…鎮痛剤飲んだのに…」
「多分低気圧でしょう。明日は雨の予報なので、それで傷が痛んでいるのかもしれません」

このまま治まってくれればいいが、痛みは少しずつ強くなっているように感じる。
…これは、ちょっとしんどいな。寝られないかもしれない。体を起こすのも辛そうだ。

「…安室さん、ごめんなさい…。なるべく静かにしてるので、どうぞお休みになってください」
「…二時過ぎか。少し待ってて」

私の言葉も聞かずに時間を確認した安室さんは、さらりと私の頭を撫でると立ち上がって寝室を出ていった。
扉は閉められているが、ダイニングキッチンの電気がつけられたのか光が漏れている。
一体何をしているのかと思っていたら、何やらミキサーのような音がする。え、何。
しばらくしたら、安室さんは手に二つのコップを持って寝室に戻ってきた。寝室の電気が付けられて、眩しさに思わず目を細める。

「起きられますか?」

部屋の隅に避けてあったローテーブルの上にグラスを置いた安室さんは、言いながら私の方に手を伸ばした。そっと肩を支えられて、ゆっくりと体を起こされる。

「夕食後に薬を飲んでから六時間空いてますし、もう一錠鎮痛剤を飲んでおきましょう。空腹だとまずいので、これをゆっくり飲んでください」

差し出されたのは二つあったコップの片方だ。中に入っているのは、とろりとした液体。…バナナの香りがする。一口飲むと、牛乳とバナナの優しい甘さが広がった。先程のミキサーの音はこれだったのか。

「…すみません、起こしちゃった上にこんな面倒までおかけしてしまって…」
「いいんですよ。それに、予想していましたから」

こくりこくりとバナナミルクをゆっくりと飲み下す。コップが空になると、安室さんはそのコップを私の手元からさらってもうひとつコップと鎮痛剤を渡してきた。中身は無色透明。ほんのり温かいところを見ると、白湯だろうか。
有難く思いながら、白湯で鎮痛剤を飲み下す。薬が効くまで三十分くらいだろうか。それまで大人しくしていないとと思いながら、安室さんに支えられつつ再びベッドに横になった。

「…ありがとうございます」
「どういたしまして」

ずきり、ずきり、時折ビリビリと痺れるような痛みも走る。お願い、早く効いてと願いながら背中を丸めて枕に顔を押し付けた。
部屋の電気が消される。痛みに耐えようと目を閉じると、ふと伸びてきた安室さんの手が再び私の頭を撫でた。
なんだろうと目を開けると、暗闇の中で安室さんがこちらを見つめている。その手は私を宥めるように頭を撫で続けている。窓から差し込む外の光が、安室さんの横顔を少しだけ照らしていた。

「辛いですよね」
「…少し…、」
「触れても?」

問いかけられて目を瞬かせる。触れるって、どこに。
私が首を傾げていると、暗闇の中で安室さんが少しだけ笑った気配がした。それから衣擦れの音がして、ぎしりと小さくベッドが軋む。
え、待って。これって。

「あまり体に力を入れないように。ゆっくり呼吸をして、力を抜いてください」

私の目の前に横になった安室さんに、そっと抱き寄せられる。一体何が起こっているのか理解が追いつかずに何度も何度も目を瞬かせた。どうして私と安室さんでひとつのベッドに横になり、更に私は安室さんに抱き寄せられているのか。
安室さんは私の背中に回した手で優しく背中を撫でてくれている。その手の優しさに、じんわりと体が温かくなる気がした。

「大丈夫、何もしませんよ」

安室さんがほんの少しだけ私の方に体を寄せる。
安室さんの胸元に顔を寄せるような形になって一気に顔が熱くなった。暗闇でよかった。光の下だったら耳まで真っ赤になってしまっているのがわかってしまっただろう。望みはないと思っているとは言っても、好きな相手に抱き寄せられて混乱しない人間などいるのだろうか。少なくとも私は冷静でなんていられなかった。

「…安室、さん…」
「痛みに耐える夜って、結構きついんですよ」

私の戸惑った声をやんわりと遮りながら安室さんが言った。
痛みに耐える夜。その言葉にゆっくりと目を瞬かせる。

「僕はそれを、知っているので」

安室さんも、一人で痛みに耐えた夜があるのだろうか。そうだとしたら、一体どんな痛みを耐え忍んだんだろう。
私がほんの少し俯くと、額が安室さんの胸に当たる。
背中を撫でる手は優しくて、安室さんの腕に包まれていると温かくて。緊張していたのに、いつしか体から力は抜けてうとうととしてくる。

「…おやすみなさい、ミナさん」
「……おやすみ、なさい…」

眠気で瞼が持ち上がらない。舌も上手く動かず、随分と舌足らずな声になってしまった。それに小さく笑った気配がして、安室さんの手が優しく私の頭を撫でた。

あぁ、好きだなぁ。

安室さんの腕に包まれて安堵にすっかり体から力を抜いた私は、自分でも気付かないうちに寝息を立て始めていた。


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