35
夜中に何があったのか、朝意識が浮上した時点できちんと覚えていた。脳内整理のためにきちんと言葉で確認しようと思う。
確か時刻は夜中の二時過ぎ。低気圧のせいなのか突然私の傷口が痛み始め、それに気付いた安室さんが夜中にも関わらずバナナミルクを作ってくれて、それと鎮痛剤を飲んだ。
薬が効くまで三十分程度か。その間痛みに耐えなければと思いながらも寝ようとした私だったが、痛みは私を苛んでいてまともに寝れる気がしなかったのは事実だ。
安室さんの手が伸びてきて私の頭を撫でてくれていたのだが、触れても良いかという問いに私が答えないうちに、彼はベッドに乗り上がり、その、わ、私を抱きしめながら横になったのである。
痛む背中を優しく撫でられ、人の温もりを傍に感じてものすごく安心したのは間違いがない。安室さんの匂いと温もりに包まれて、痛みすら忘れて私は夢に落ちた。なんということだろう、快眠だった。

そして今。私は意識が浮上しているにも関わらず目を開けることが出来ない状況にある。
安室さんは基本的に私よりも早く起きていることが多く、そうでなくても私と一緒に起きるのが精々だ。私より遅く起きることはまずなかったから、私は安室さんの寝顔なんてもちろん見たことは無い。
意識が浮上しているにも関わらず、私が微動だに出来ず目を開けることも出来ないでいるのは…後頭部から項のあたりに感じる、安室さんの吐息のせいだった。
状況をおわかりいただけただろうか。
昨晩安室さんの腕に包まれて眠ったのは間違いない。だが目が覚めても尚同じ状況だなんて想像していなかった。
むしろ。そう、むしろ。昨晩よりも密着してしまっているこの状況を、私に一体どうしろと言うのか。安室さんの腕はしっかりと私の背中に回され、私は安室さんの胸元に顔を埋め、安室さんと私の足はほんの少し絡んでいる。付き合ってもいない男女が取るべきポーズではない。
どうすれば。どうする。思い切って少しだけ目を開けてみようか。
よし、と覚悟を決めるとそうっと少しだけ目を開けてみる。目に入ってきたのは、安室さんが着ているティーシャツの襟ぐりから覗く褐色の肌だった。再び何事も無かったかのように目を閉じる。何事も無かったことに出来るはずなどない。
寝起きまで脱力していた体にはすっかり力が入り、カチコチになってしまっている。どうしよう。今何時。安室さんを起こした方が良いのか、それとも狸寝入りをした方が良いのか。混乱しながらぐるぐると考えていたら、頭上でくすりと小さく笑う声がした。

「っ、あ、あ、安室さん…!!」
「ふ、っふふ、…ごめんなさい、つい。焦るあなたが面白かったので」

くすくすと笑いながら安室さんが少しだけ体を離す。焦る私が面白いから起きずにずっと観察していたと言うのか。え、いや。今の言い方からするともしかして。

「…安室さん、いつから起きてたんですか」
「うーん…あなたと同じくらい、ですかね」

それってつまりは言い換えると最初から起きていたとそういうことか。一人で慌てていた時点で大分恥ずかしかったのに、それをばっちり知られていたとわかり更に顔が赤くなる。

「…恥ずかしい…」

こんなことなら変に黙り込んでいないで、さっさと安室さんを起こせば良かったのだ。両手で顔を覆って俯いた。

「傷の痛みはどうです?」

そっと安室さんの手が私の背中を撫でる。顔から少しだけ手を離し、思っていたよりもずっと近い距離にあった安室さんの顔を見つめる。寝起きだと言うのに彼の顔に眠気のようなものはなく、いつも通りの表情をしている。
すごいな。私なんて起きてからしばらくは寝惚け眼だと言うのに。今日は羞恥と驚きの方が大きかったからしっかり目覚めているけれど。

「…痛みはないです。すごくよく眠れました。ありがとうございました」
「それは良かった」

安室さんが柔らかく目を細めて笑う。そんな安室さんの表情を見ていると、胸が切なく軋む音がした。
…あぁ、これはあまり良くないかもしれない。安室さんと一緒にいるのが幸せで嬉しくて、このまま安室さんがいないと生きていけなくなってしまうんじゃないかなんて考えが脳裏を過る。
安室さんと一緒にいたい。安室さんの傍にいたい。…安室さんに触れたい。安室さんに、私を見て欲しい。そんなドロドロとした欲望が溢れて止まらなくなる。
これは、良くないものだ。きちんと蓋をして、閉じ込めておかなくてはいけない感情だ。こんな感情を安室さんに向けてはいけない。私が彼に向けて良いのは、純粋に好きだと思う気持ちだけ。きゅ、と唇を噛んでから、私は顔を上げてへらりと笑う。

「…おはようございます、安室さん」
「おはようございます、ミナさん」

彼の隣には、いずれ素敵な女性が並び立つだろう。その後も、良き友人でいられたらいい。
そう思うのに、私の胸は鉛を押し込められたかのように、どんよりと重いままだった。



「約束事を変更しようと思います」

安室さんが朝食を作るのを手伝おうと思ったが、病み上がりの人は座っていてくださいと言われてしまった。大人しくダイニングキッチンの椅子に座って朝食が出来上がるのを待ち、せめてもと料理をテーブルに運ぶのは手伝わせてもらう。
安室さんと一緒にテーブルについていただきますをして、食事を始めてしばらくしたら安室さんが不意に口を開いた。
今日の朝食は焼き鮭とお味噌汁、ご飯。日本の食卓である。

「約束事を変更、ですか」
「ええ。実はこれからしばらく仕事が立て込んできそうでして…夕方くらいに帰ってこられるかどうかわからないんです」
「えっお忙しいじゃないですか。大丈夫ですか?」
「忙しい時期はよくあるので珍しいことではないんです。僕は慣れているのでいいんですが…場合によっては帰って来られない日も出てくるかもしれません」

それって、以前の私と同じような状況なのではないだろうか。残業や早出に日々を消費していた頃を思い出し、無意識に眉が寄る。あれ、でも安室さんは私立探偵で、あとは掛け持ちでポアロのアルバイト…だったはず。ポアロのお仕事の方に帰れなくなる程の状況があるとは思えないし、探偵業の方が忙しいのだろうか。

「そういうわけですので、これをお渡ししておきます」

そう言う安室さんから手渡されたのは、鈍色に光る鍵だった。今の話の流れから、どう考えてもこの部屋の鍵である。

「え、これ、合鍵ですか?」
「いえ、複製厳禁なので純正キーです」
「で、ですよね?!そんなの私にぽんと渡したらダメじゃないですか!」

賃貸物件だと鍵の複製はNGだったはず。私も一人暮らししていた時は、管理会社の人に鍵の複製は駄目だということを説明されたのを覚えている。
だからと言って純正キーを私に渡したら、わたしが鍵を閉めてしまったら安室さんが家に入れなくなってしまう。
だが、安室さんは全く気にした様子も見せずにお味噌汁を啜っている。

「大丈夫です。まぁ、なんとかなるので」
「なんとかって…」
「僕よりもミナさんの方が家にいる時間が長くなりそうだなと思ったので、こうするのが一番良いと思ったんです。僕もなるべく十一時くらいまでには帰ってこようと思っていますが…帰れなかった場合は、鍵をかけて寝てくださいね。先に寝る場合も鍵を閉めてしまって構いません」
「で、でも、鍵…」
「僕、そういうの開ける特技持ってるんですよ」

にこり、と笑う安室さんに頬が引き攣った。
そういうのを開ける特技って。それってもしかしてピッキングとかいうやつなのではないだろうか。え、安室さんに自宅をピッキングさせるのか?それはどうなんだろう。というかピッキング出来るって一体どういうことなのだろう。探偵業を生業としてるとピッキング技術が必要になる場面も出てくるのだろうか。
私は安室さんから受け取った鍵を見つめる。何の変哲もない鍵だ。このまま持っていたら失くしてしまうかもしれない。何か適当なキーホルダーかストラップでも付けておこうと考える。

「…わかりました。お預かりします。ちゃんと寝る時には鍵もかけて寝ます。でも、帰りが遅くなっても構わないので…その時は、連絡してください。起きて、鍵開けますから」
「寝てるところを起すのは忍びないですよ」
「家主に自分の家をピッキングさせる方が忍びないです」

そんな話をして、安室さんと顔を見合わせてどちらからともなく吹き出して笑う。

「朝早く出ていくこともあると思うので、僕が不在の場合でもミナさんは好きに過ごして頂いて構いません。今日は米花駅までの行き方をお教えしますね。ここの近くのバス停から米花駅行きのバスが出ているので」
「なんか本当にそんないいんでしょうか…私ただの居候なのに」
「僕としては家を空けるよりミナさんにいて頂けるのは有難いですね」

そういうものなのだろうか。なんとなくしっくり来ないものの、とりあえず頷いておいた。
鮭を解してご飯に乗せて口に運ぶ。程よい塩味とほかほかのご飯に頬が緩んで、お味噌汁を啜ってほうと息を吐いた。
今日も安室さんのご飯が美味しい。


***


朝食を終えた後、服を着替えた私と安室さんは一緒に家を出た。昨日安室さんが言っていた通りしとしとと軽い雨が降っている。二人で傘を差して、ゆっくりのんびりと歩きながら安室さんの後について行く。
バス停はアパートを出て少し歩いたところにあって、「米花駅行き」の表示があった。

「ここから米花駅に行けます」
「案外近くにバス停があったんですね…知らなかった」

忘れずに持ってきた地図を広げ、バス停の場所を確認する。バス停の場所がわかると、そのまま自然と「MAISON MOKUBA」の場所もわかる。だが、そこに印をつけようとすると安室さんに止められた。

「すみません。職業柄、自宅の場所が他人に知られる危険を避けたいので…印を付けるのは控えてもらってもいいですか?」

その言葉に、ふと思い当たることがあって目を瞬かせる。
安室さんに米花駅に送って貰うことは何度もあったが、その度に使う道がバラバラだったのである。私が米花駅までの行き方がわからないのもその為だ。
道を覚えようと思っても、覚えられなかった。いつも違う道を通り、違う道を曲がり、気が付くと駅の近くにやってきていた。

「…もしかして、米花駅に行くのにいつも違う道を使っていたのって…」
「あぁ、やっぱり気付いてましたか。そうです、あなたに道を覚えさせない為です。あなたを信用していないとかじゃない。例えば、僕を狙う誰かがあなたに目を付け尾行したら僕の住居が割れる。そういう危険を出来る限り避けるために、こういう手段を取らせて頂いてました」

探偵さんだもんな。きっと私が思っている以上に危険な目とかにも合うんだろう。爆発にも巻き込まれたくらいだし…いや、それは偶然なのかもしれないが。
もしかしたら安室さんからお借りしてるスマホのGPSが入らないのもそういう懸念からだったりして?なんて軽く思って、さすがにそれは考えすぎかと思い直した。

「なんか探偵さんって大変そうですね…。わかりました。住所というか、安室さんの個人情報の取り扱いにはすごく気をつけます」
「…それはありがたいんですが、怒らないんですね?」
「怒る?どうして?」
「僕は本当のことを隠して、あなたに何も言わずアパートの周りの情報を伏せた。実質あなたは僕がいなければあの部屋から出ることも、外からあの部屋に帰ることも出来なかったんですよ」
「だってそれ、安室さんにとってすごく大切で必要なことじゃないですか」

どうしてそれで私が安室さんに怒るのかよくわからずに首を傾げる。
安室さんは必要だと思ったことをしただけだ。私はこの世界に不慣れだし、尾行されてしまったから結果として背中を刺されてしまったのである。尾行されてしまうほどに私は周りのことに鈍感だと思う。
今回は私の怪我だけで済んだから良かったものの、例えば安室さんを狙うような人が私を尾行してしまって私がそれに気付かなかったら、安室さんに危害が及ぶ可能性だってあるのだ。
突然他人を家に住まわせるのなら、当然必要な防犯対策であると私は思う。
私が首を傾げていれば、安室さんはやれやれと溜息を吐いて肩を竦めた。

「…そうですね、あなたはそういう人だ」
「どういう意味ですかそれ」

いいえ何でも。安室さんがそう言って笑うので、私もまぁいいかと思う。


Back Next

戻る