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沖矢さんに促されるまま、私はコナンくんと一緒に工藤邸に上がった。
コナンくんは工藤新一くんの親戚と言うし、彼の様子から見ても恐らくこのお屋敷に通い慣れているというか入り慣れているのはわかるんだけど、私は初めてでものすごく緊張しているから彼のようにはいかないのである。

「お、お邪魔しまーす……」

おずおずと広い玄関に入り、沖矢さんがスリッパを用意してくれるのを見ておずおずと靴を脱ぎ、おずおずとスリッパを履かせて頂いた。
こんなお屋敷に入ったのは人生初めてかもしれない。こんな洋館で生活するのはセレブなら有り得ない話ではないだろうけど、私は至って普通の一般庶民である。挙動不審になるのも許していただきたい。

「ミナさん、こっち」
「…君は本当に慣れているんだねぇ…」

我が物顔で廊下を進むコナンくんについて行き、リビングへと通される。リビングも豪華だ。ソファーに座るように促されてそっと腰を下ろすと、あまりにフカフカで変な声が出た。

「ミナさん、もっとリラックスしてよ…」
「無理です。無理無理。だってこんなお屋敷入ったの初めて…変なところに触って調度品とか壊したくないもん、もし壊しちゃったら私弁償なんて出来ない…」
「ミナさん……」

コナンくんが呆れたような半目でこっちを見ている。
しかしなんと言われようと無理なものは無理だ。何事もないまま早くここから出たい。リラックスなんて絶対に出来ない。

「お待たせしました。傷に障ると良くないので、ミナさんは紅茶をどうぞ」

沖矢さんがお茶を入れてくれたらしい。トレーに乗せたカップをテーブルに運んできてくれた。コナンくんはオレンジジュース、私と沖矢さんは紅茶である。

「ありがとうございます…あ、いい香り…」

ほんの少しだけ緊張が解れるような気がしないでもない。角砂糖のポットを開けて、角砂糖を二つカップに入れて溶かす。
沖矢さんとコナンくんは私の向かい側に座って、じっとこちらを見ている。そんなに見られると更に緊張するんだけど私の顔に何か変なものでも付いているだろうか。

「…あ、えっと…」
「改めまして、退院おめでとうございます。あなたが病院に運ばれたと聞いた時は驚きましたよ。怪我の具合はいかがですか?」
「え、あ、大丈夫です、とりあえずは…。まだたまに少し痛むんですけど、順調に回復してます」
「それは良かった」

なんだろう、少し気まずいな。慣れないお屋敷で対面しているからだろうか。なんというか、上手く言えないのだが見張られているかのような緊張感がある。
沖矢さんは紅茶のカップを口に運んでいて、それを見て持ってきたマドレーヌの存在を思い出した。危ない、これがここに来た理由だと言うのに。

「あの、沖矢さん甘い物平気ですか?」
「ええ、まぁ」
「良ければこれ、召し上がってください。なんだかすごくご心配をおかけしたと聞いていたので…」

哀ちゃんにはそのままぽんと渡したけど、沖矢さん相手だと紙袋から中身を出した方が良いかな。あまり気にしなくても良いのかもしれないが、なんとなく落ち着かなくて紙袋から箱を取り出して沖矢さんに差し出す。
沖矢さんは少しだけ驚いたように、それでも受け取ってくれた。

「…普通は、あなたが快気祝いを受け取る側だと思うのですが」
「それさっき哀ちゃんにも言われました。いいんです、心配かけてしまったお詫びのつもりなので」

私は退院おめでとうと言ってもらえれば充分に嬉しいのだ。そんなわけで私の用事はこれで済んだのだからもう帰りたい。沖矢さんやコナンくんと話をするのが嫌なのではなく、場所が問題であった。

「ねぇ、ミナさん」
「えっ?な、なに?」
「ジンやウォッカって知ってる?」

なんだなんだ。今日のコナンくんはやたらお酒に関して聞きたがるなと首を傾げる。ジンやウォッカなら、先程のウイスキーよりもよく口にすると思う。ジントニックやスミノフなんかは私も好んでよく飲んでいる。

「お酒の話の続き?ジンもウォッカも好きだよ。カクテルで飲むことの方が多いけど…」
「へぇ〜」

にこにこと笑いながら相槌を返したコナンくんは、そのまま沖矢さんと顔を見合わせて小さく笑う。え、なに。そのアイコンタクトは。

「ミナさん、バーボンよりもライの方が好きなんだって」
「ホォー…それはそれは」
「えっ、な、なんですか」

そんな意味深に見つめられても困る。何か変なことを言っただろうか。すると、沖矢さんが小さく笑って言った。

「私もウイスキーが好きでよく飲むんです。最近はバーボン一筋ですが」
「なるほど、そうだったんですか。バーボンだとワイルドターキーが飲みやすくて好きです。…あぁ…お酒飲みたくなってきた…」

そう言えばいつから飲んでないかな。こっちの世界に来てからはそれどころじゃなかったし、久々に晩酌でもやりたい気分だ。傷が治りきるまではそれもお預けだけど。

「良ければ、今度一緒に飲みませんか。私も酒は好きで、何種類か置いているんです。ウイスキーがメインではありますが」
「いいんですかっ?わぁ、是非!怪我が治りきったらお願いします!」

思いがけないお誘いに笑みが浮かぶ。
もしかして、コナンくんは私と沖矢さんの話題作りのためにお酒の話を振ってくれたのだろうか。沖矢さんがウイスキー好きと知っていたから、私にバーボンが好きかどうか聞いたとか。コナンくんなら有り得そうな話だ。
じい、とコナンくんを見つめていたら、私の視線に気付いたコナンくんが苦笑を浮かべた。

「いいの?ミナさん。またここに来ることになるけど」
「えっ」
「昴さん言ったでしょ、何種類か置いてるって。ここにだよ」
「あっ」
「家主の方に許可は取っておきますから、また是非。あなたと酒を飲みながら話をしてみたいですしね」

家主ってそれ工藤優作さんのことなのでは。
やっぱり私はとんでもない場所に足を踏み入れてしまった。沖矢さんと飲めることに喜んだのは私だし、今さら断りの言葉など浮かぶはずもない。

「……えっと…それじゃあ…、……また来ます…」

絞り出すような私の声に、沖矢さんとコナンくんは苦笑を浮かべていた。


***


沖矢さんともう少し話してから帰るというコナンくんを置いて、私は工藤邸を出て駅へと向かっていた。
思っていたよりも話し込んでしまった。今から帰ると夕方くらいになる。今日も安室さんは夜遅いだろう。

安室さんの忙しい日々はまだしばらく続くようだ。
探偵業とポアロのバイト、掛け持ちしなければやっていけないような生活を送っているとはどうしても思えないのだが、朝早く家を出て夜遅く帰るような生活がいつまで続くのかわからない。
寝ているのだろうか。ちゃんと食べているのだろうか。家で顔を合わせる日も少ないし、顔を見られたとしても本当に少しの時間ということも少なくない。
朝ご飯を無理に用意して頂くのも忍びなくて一度だけ進言してみたのだが、「朝自分が食べる分のついでに作っているだけだから」との理由であっさりと流されてしまった。

「…本当は、何か帰ってきた時に温めるだけで食べられるようなものを用意しておけたら…素敵なんだろうけど…」

安室さんレベルの料理の腕を持つ人に、私の適当な料理なんて出せるはずもない。このままじゃダメだと思いながら、料理教室なんて通えない。自分で練習しようにも安室さんの家では無理だ。
そもそも、今例えば私がお茶やコーヒーを淹れたり料理を作ったとして、安室さんは食べてくれるんだろうか。
安室さんが初めて私の家に来た時にそれとなく拒否をされて、一緒に生活する中でも避けられていたことから私から何かすることはやめるようになっていた。
あの頃よりは気を許してもらえたと思っているけど、安室さんって他人の手の入った飲み物や食べ物は食べてくれないような気がする。

「…ちゃんとこの世界で一人暮らしを始めたら、自炊しよう」

時間の余裕は出来た。以前のような働き方は絶対にもうしたくないし、そもそも経歴が書けない私には正社員など無理な話だと思う。
なら今までしてこなかったことをやってみようと思って、一人納得しながら頷いた。


その本屋さんを見つけたのは偶然だった。
少し米花駅の辺りを散策して帰ろうと思い、入ったことの無い路地にふらりと足を向けたのである。
あまり人目につかない路地にひっそりとあったその本屋さんは、少しレトロな造りの店構えで洋書ばかりを置いているようだった。外国語は得意ではないが、なんとなく興味を惹かれてそっと店内へと入り込む。
ちょっとだけ埃っぽい本の匂いがした。この匂いなんとなく好きなんだよなぁと思いながら、棚にずらりと並べられた本を端からゆっくりと見ていく。新しいものもあるが、中古品なのだろう古びた表紙のものもある。
店内はさほど広くない。所狭しと本が置かれていて、少しノスタルジックな雰囲気に胸が高鳴る。

「お客さんかな」

カウンターの方から声をかけられ、視線を向ける。そこには店主らしき年老いた男性と、高校生の男の子がいた。こんな洋書店に高校生なんてちょっと不思議だなと思いながらカウンターへと足を向ける。

「こんにちは。ちょっと興味が湧いてお邪魔しちゃいました」
「そうだったのかい。どうぞゆっくり見て行っておくれよ」
「ありがとうございます。すごい数の洋書ですよね、圧倒されちゃう。本の匂いってなんとなく好きなんですよねぇ」
「あぁ、わかる。俺も古い本の匂いって好きなんだ」

不意に話しかけられて男の子に視線を向ける。人懐こそうな男の子だ。

「図書館とかの匂いも好きで」
「独特な匂いだよなぁ、古びた本の匂いってさ」
「図書館とか、本屋さんの空気って好きなんだよね」

男の子は私の言葉に頷くと、改めて私を見つめてへらりと笑った。

「俺、黒羽快斗。オネーサンは?」
「あ、初めまして。佐山ミナです」
「ミナさん。これ、お近付きの印ね」

黒羽快斗と名乗ったその男の子は、突然私の目の前に手のひらをかざして小さく揺らして見せた。それからThree、Two、One、とカウントダウンして…ぱちん、と指を鳴らす。すると、ポンッと音がして黒羽くんの手のひらから一輪の薔薇が現れた。

「えっ、えっ?!なに?!すごい!!」

黒羽くんは私の反応に満足そうに笑って、その薔薇を手渡してくる。柔らかい香りがする。本物の薔薇だ。突然の手品に頭がついてこない。

「いい反応ありがと」
「黒羽くんの手品久々に見たなぁ」
「閉店まで今月いっぱい、来れる日は来て見せてやるよ。手品くらい」
「えっ今月いっぱいって?」

店主さんと黒羽くんの会話に顔を上げる。すると、黒羽くんが溜息を吐いて肩を竦めた。

「今月いっぱいでこの店閉めるんだって。うちのジイちゃんが贔屓にしてる店だしマスターもいい人だし、なんとか存続して欲しいって思ってるんだけど…」
「私ももう歳だからね。本みたいな重いものを持ったり、発注書なんかの小さな文字を見るのはしんどいんだよ」

跡継ぎもいないし、と困ったように笑う店主さんからは、本当はこの店を続けていきたいという思いが伝わってくる。
こんな素敵なお店なのに。本を大切に思う店主さんのこだわりの詰まったお店なんだろう。

「普通の本屋じゃ取り寄せられないような洋書も取り寄せてくれるから、他のお客さんからも閉店しないで欲しいって声もたくさん上がってるのにさ」
「人間の限界だから仕方ないんだよ」

黒羽くんと店主さんの話を聞きながら、薔薇を持つ手に力を込める。
見る限り、この店主さんの個人店。今日私がふらりとここに寄ったのは偶然だった。だからこそ、もしかしたら何かのタイミングだったんじゃないかと思う。

「あの、」
「うん?」
「つまり、働き手がいたら…存続出来るってこと、ですよね」

私が言うと、黒羽くんと店主さんは驚いたように目を見張った。

「私今仕事探してるんです。…あの、良ければ、働かせていただけませんか」
「ッいいじゃん!!そうしなよ、マスターも跡継ぎさえいればって言ってたじゃん!」

黒羽くんが食いつくと、店主さんはぱちぱちと目を瞬かせた。どうしよう、話が急すぎただろうか。

「いや、しかし、そんな…」
「俺、ここの本屋がなくなるの嫌だよ。ジイちゃんだって他のお客さんだって悲しんでる。ここが無くなったら困る人もたくさんいるんだしさ。考えるだけ考えてみてよ。ミナさんはいいんでしょ?」
「うん。今のお話聞いてたら、店主さんがここを無くしたくない気持ち伝わってきたし…前職は事務職だったので本屋さんのお仕事はわからないんですけど、仕事はちゃんと覚えます」

はっきりと言うと、店主さんは少し考え込んでしまった。じっと待っていると、やがてゆっくりと顔を上げた店主さんが口を開く。

「…気持ちはとても嬉しい。だが、私もこの店を閉じるつもりでいたからね。驚いてしまって…すぐに決断が出来ないんだ。少し、考えさせてもらってもいいかい?」

店主さんの言葉に私と黒羽くんは顔を見合わせて、再び店主さんに向き直ると大きく頷いた。

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