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「えっ、ミナさん怪我してるの」
「あぁ、いや、もう治りかけだけどね。本当の完治にはあと一ヶ月くらいかかるってだけで…」
「それめちゃくちゃ重傷じゃん!」

本屋さんを後にした私と黒羽くんは、米花駅前まで一緒に行こうということになり共に路地をゆっくりと歩いていた。
店主さんが私の採用を考えてくれるとの事だったが、採用になって欲しいと言うよりは私で何か力になれることがあればという思いの方が大きい。皆から必要とされている本屋なのに、このまま閉店になってしまうのは心苦しい。最初はそんな話をしていたのだが、私が「私も今すぐには働けないから」と漏らしたことに黒羽くんが食いついたのだ。
ふんわりと怪我がもう少し治らないと、という話をしたところ彼に心配をかけてしまったらしい。

「え、こんな外を出歩いていいの?」
「うーん…今日はちょっと、予定外に動き回っちゃったからしんどいかな。これ以上歩行速度は上げられないかも」

ほんの少しだけ傷がじくじくと痛み始めている気がする。何か買って帰って、食べたらすぐに薬を飲まないと。足も体も重いし、今日は安室さんが帰ってくるのをギリギリまで待つことも出来ないなと思い苦笑した。きっと安室さんが帰ってくるのを待つまでもなく、私は寝落ちてしまうだろう。
黒羽くんはと言えば、私の言葉を聞いて非常に難しい顔をしていた。
別に彼に心配を掛けさせたいわけではないのだが、どうにも私は説明が下手だ。嘘は言えないし、逆に上手く誤魔化す言い回しも浮かばない。一度立ち止まってほんの少し浅くなった呼吸を整えていると、そんな私につられて黒羽くんも立ち止まっていた。

「…ミナさん、家どこ?送ってくよ」
「え、いいよいいよ。大丈夫、駅からバス乗っちゃうし」

黒羽くんは真剣な目でこちらを見つめていた。私の思っている以上に心配させてしまったのだと気付いて、失敗したなと後悔した。

「ミナさんが良くても俺が良くない。ミナさん、顔色悪いよ。せめて少し休んでから帰った方がいい」
「優しいね、黒羽くん」

黒羽くんが歩み寄ってきて私の肩を支えてくれる。私が知り合うこの世界の人達は皆優しくていい人達だ。私は多分、とても運が良いのだろう。
退院してから、こんなに動き回ったりしたのは今日が初めてだったか。たかだか数時間外に出ただけだが、私の体は私が自覚しているよりも衰弱しているようだ。私の思う通りに動かない体にもどかしさが募る。誰かの足手纏いになるのはごめんなのに。

「とりあえずミナさん、俺の肩に掴まれる?どこか座れる場所まで頑張って」

ぼんやりとした鈍痛が背中から腹部へと走る。これは、大人しく黒羽くんの肩を借りた方が良いかもしれないなと申し訳なく思いながら、私は彼の肩に手を伸ばした。

「ごめんね」
「どうして謝るんだよ、気にすんなって。ミナさんはあの本屋を救ってくれる人かもしれないんだから、しっかり怪我を治して元気になってもらわなくちゃ」

にかりと笑う黒羽くんに胸が温かくなる。黒羽くんは私の体を支え直し、ゆっくりと歩き出した。駅前に確かベンチがあったはず。そこまで歩ければ、少し休んで帰れるし問題ない。
路地を抜けて駅舎が見えてくる。もう少しだと思いながら一歩踏み出した瞬間、後ろからクラクションが響いて足を止めた。

「ミナさん」

まさか声をかけられるとは思わず、え、と小さく呟きながら振り返る。白いスポーツカー。それはよく見慣れたもので、その車の運転席から降りてくる人物もまたよく見慣れた人だった。

「安室さん…、どうしてここに」

グレーのスーツを身に纏った安室さんは、運転席のドアを閉めるとこちらへと駆け寄ってくる。私と黒羽くんの前で足を止めると、ちらりと黒羽くんの方を見てから私に手を伸ばした。

「どうしてここに、はこちらのセリフですよ。どうしました?顔色が悪いようですが」
「えぇ…そんなに顔に出てますか。…えぇと…鎮痛剤が切れてしまったみたいで…」

安室さんの手が私の手を取る。その手の温かさを感じて、逆に私の手が冷えているのだと気付いた。安室さんは私の指先をそっと握ると、眉をひそめて小さな溜息を吐く。

「…あまり出歩くのは感心しませんよ。あくまで安静に過ごさなくてはいけないのはわかっていますか?」
「ごめんなさい。少しくらい大丈夫だと思ったんですけど…ダメでした」

へらり、と笑って答えると安室さんはますます眉を寄せる。あちゃ、これは結構怒ってるやつかもしれない。確かに自分の限界を見誤ってしまったのは私だ。外を出歩き散歩をするのは、私にはまだ早かったんだろう。ずきりと痛む腹部を押さえた。

「…帰りましょう、ミナさん」
「なぁ、」

安室さんが私の手を引くのと同時に、隣からやや低い声がそれを止める。視線を向けると、黒羽くんが難しい顔をして安室さんを見つめていた。

「何か?」
「あんた、ミナさんの知り合いみたいだけど…彼氏じゃ、ねーよな」

突然の黒羽くんの爆弾発言にぎょっとする。

「え、黒羽くん何言ってるの私彼氏いないよ」
「ちょっとミナさん黙ってて」
「えっごめんなさい」

ぴしゃりと言われてしまえば口を噤む他ない。
安室さんと黒羽くんはじっと見つめ合っていて、その空気は決して穏やかではない。というか、かなりピリピリというか…バチバチというか…なんというか。気まずい。
しばし二人はじっと睨み合うような形で見つめ合っていたが、やがて安室さんがにこりと笑って小さく首を傾げる。

「…確かに僕はミナさんの恋人ではありませんが、それが何か?」
「帰りましょう、ってどこに?ミナさんを家に送ってくって?」
「ええ、そうですよ。家の方向が同じなので」
「……へぇ〜」

じとり。黒羽くんの目が細められる。
何故こんな気まずさMAXの空気の中にいなくてはならないのだろうと思いながら視線を地面に落とした。黒羽くんが安室さんに噛み付いてる理由もよくわからないし、普段ならさらりと受け流しそうな安室さんが敢えて言い返していることにも驚いている。
ずきりずきりと痛み始める腹部をそっと撫でると、それに気付いたらしい安室さんが私の手を握った自分のそれに力を込めた。

「…もういいですか?彼女を早く休ませてあげたいんです」

安室さんがそう言うと、黒羽くんは私の様子を見て少しハッとし、ゆっくりと体を離してくれた。安室さんに手を引かれ、私はそちらに一歩歩み寄って黒羽くんを見つめる。

「黒羽くん、ここまでありがとう。ごめんね、心配させちゃって」
「あ、いや。全然。ミナさんは気にすんなって。…早く良くなるといいね。またあの本屋で会おうぜ」
「うん、ありがとう」

本屋、と安室さんが呟くのが聞こえたが、それは黒羽くんまでは届かなかったらしい。
安室さんは私の手を引くと、車へと歩いていく。助手席のドアを開けてくれたので、安室さんに支えられながら乗り込んだ。シートベルトを閉め、痛む腹部をそっと押さえる。

「…帰ったら夕食にしましょう。あなたは早いところ鎮痛剤を飲んだ方が良さそうだ」
「…すみません…」

安室さんが運転席に乗り込んでエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。窓の外を見ると、黒羽くんはまだそこに立ってこちらを見つめていた。
きっとまたあの本屋さんで会えるだろう。その時に今日のお礼と謝罪をもう一度しないとなと思う。
やがて黒羽くんの姿は遠く後ろの方に流れていき、見えなくなった。


***


「掴まってください」
「何から何まですみません…ご迷惑をおかけしてしまって…」

アパートの駐車場に着くと安室さんの手を借りながら車を降り、安室さんの腕に支えられながらゆっくりと歩いて部屋へと向かった。
鈍い痛みだったのが、時間が経ってずきずきと鋭い痛みに変わってきている。体力がないのに歩いたのと、痛みを耐えるのとで呼吸はすっかり乱れてしまっていた。

「…顔が白い。すぐにベッドに横になってくださいね」
「…うぅ…すみません…」
「謝らなくていいので、もっと自分を大切にしてください」

部屋の前で鍵を取り出すと、それを手に取った安室さんが鍵を開けてくれる。ドアを開けて中に入ると、そのまま寝室へと直行した。
ベッドに腰を下ろすと、安室さんがそのまま私の体を支えながら横たえた。距離が近い。安室さんは気にしていないようだが、私としてはこんな至近距離になるなんてやはり照れもあるわけで。ぼんやりと安室さんの顔を見上げると、安室さんは私の視線に気付いて目を合わせてくれる。

「食欲は?」
「…実はあまりなくて」
「わかりました。それじゃあ、お粥を作りますよ。空腹過ぎるのも良くないですから」
「…安室さん、お仕事は…」
「今日は早く終わったんですよ。だから心配しないでください」

安室さんも忙しい毎日を送って疲れているというのに、そんな安室さんの負担になることをしてしまって私は一体何をやっているんだろう。せっかく仕事が早く終わった日なのに、私の面倒を見るのに時間を割かせてしまっている。
安室さんは今日も夜遅いと思っていた。だから、早いところ自分でなんとかしてさっさと寝て、明日にはいつも通りの私になっていたかったのに。上手くいかないものである。
情けないなぁ。申し訳ないなぁ。私に構う時間、本当は安室さんには休んでいただきたいのだ。ゆっくりお風呂に入って、のんびり好きなものを食べて、そしてたっぷり寝て欲しい。
申し訳なさに視線を伏せると、安室さんの手がそっと私の頭を撫でる。おずおずと安室さんの方に視線を向ければ、彼は苦笑を浮かべていた。

「…また、余計なことを考えていますね」
「…余計なことじゃないです。安室さん忙しくて、今日はようやく早く帰ってこられたのに…私なんかの為に、せっかくの時間を台無しにしてしまって」
「台無しだなんて思っていませんよ。あなたは自身の体の現状を知るべきでした。良い機会だったと思います。どれくらいなら動けて、鎮痛剤の効き目はどれくらいなのか。そこがわからなければ、まともに動くことも出来ないでしょう?」

優しい声に目を細める。
どうして安室さんは、こんなにも優しくいられるのだろう。足を引っ張ってしまっても、怒鳴ったり、怒ったり絶対にしない。

「先程の青年は?」
「彼とは…米花駅前の路地を入ったところにある、本屋さんで会いました。ちょっと意気投合したというか…話しながら駅に向かってそのまま別れる予定だったんですけど」
「なるほど、それで本屋」

安室さんが納得したように呟いて、それから小さく笑う。

「その辺のお話も聞きたいですが…それはまた後でいいでしょう。夕食を用意しますので、出来上がるまで少し眠るといい」
「…でも」
「でもじゃない」

安室さんの人差し指が私の唇に押し当てられる。きょとんと目を瞬かせると、安室さんは小さく笑った。

「僕、あなたの面倒を見るの嫌いじゃないんです」
「え、」
「なので、僕としては甘えていただけると嬉しいんですが」

もう充分に甘えさせて頂いているというのに。
そう思って眉を寄せると、安室さんがくすりと笑う。

「まだまだ、足りませんよ。ミナさん」

もっと甘えてもらわないと。
安室さんのその声は、どこか楽しそうで…それでいて、どこか甘い響きを持っていた。

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