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気付いたら眠っていたらしい。安室さんに起こされて時計を見ると、大体一時間程度の時間が過ぎていた。
大人しくしていたからかなのかわからないが、腹部と背中の痛みは少しだけ落ち着いていて鋭い痛みはなくなっている。このまま鎮痛剤を飲めば残った痛みも消えるだろう。
安室さんを見上げればいつ着替えたのか、グレーのスーツではなく少しラフなシャツとスウェットに着替えていた。お風呂も入ったのだろう、彼の髪は少しだけ湿っているようだった。

「お粥が出来てますよ」
「ありがとうございます…」

安室さんの手を借りて起き上がり、ダイニングキッチンへと移動する。テーブルには出来たての卵粥がお椀に入れられていた。おかずには梅干しと鮭のほぐし。これなら食べられそうだ。
安室さんといつも通り向かい合わせに座る。安室さんは好きなものを食べて良いのに、私に合わせて彼の前にもお粥と梅干しや鮭ほぐしが並べられていた。申し訳ないなと思うが、違うメニューを作るのも手間になるのだろうかとそれはそれで申し訳ない。

「美味しそう…」
「お粥なんて誰が作っても同じですけどね」
「同じじゃないですよ。…いただきます」

手を合わせて蓮華を持ち、熱々のお粥を掬って口元に運ぶ。息を吹きかけて少し冷ましてから食べると、程よい塩加減と卵の甘みを感じて頬が緩んだ。…美味しい。

「…美味しい…」
「良かった。…そういえば、先程話していた本屋って?」

安室さんに問われて、もごもごと咀嚼していたお粥を飲み込んだ。

「新しいものも置いてありましたが、基本的に古い洋書を取り扱っている本屋さんみたいでした。店主さんが今月いっぱいで閉店するって話をされていて…働き手がいたら閉店しなくても済むみたいだったので、つい立候補してきちゃいました」
「立候補って、その書店で働くんですか?」
「まだわからないですよ、口で言っただけだし…考えさせて欲しいって言われたので。でも、良い機会だと思ったんです。いつまでも安室さんにおんぶに抱っこ状態じゃダメだし…とりあえず、仕事を見つけないとって思って」

そう言うと、安室さんは少し難しい顔をして口を噤んだ。もぐもぐとお粥を咀嚼しながら、何やら考え込んでいるように見える。やがてこくんと飲み込んだ安室さんは、少しだけ表情を緩めて私の方に視線を向けた。

「職を探すのはもちろん構わないのですが…まだ早いのでは?」
「あ、それは私も思いました。今日ちょっと出歩いただけでこんなふうに体調も崩しちゃいましたし。ただ、早く見つけておくに越したことはないというか…」

いくら戸籍や身分証明の件がなんとかなったとは言っても、私には履歴書に書ける経歴がない。私が卒業してきた学校はこの世界には存在しないし、資格に関しては書けるかもしれないが経歴もないのに資格だけで人を雇う企業はないと思う。経歴がない、経歴が書けないなんて怪しすぎる。だからこそ個人店で、開店閉店時間も決まっているような場所は私にとってとても働きやすい場所なのだ。
そう伝えたところ、じっと聞いてくれていた安室さんはなるほど、と頷いた。

「あなたの考えはわかりました。今月閉店の古書店といえば、恐らく嶺書房さんのことでしょう」

そういえばあの本屋さんの名前すらちゃんと見ていなかった。

「みね…?有名なんですか?」
「海外の専門書なんかを扱っているので、その方面の方々は御用達の書店ですよ。あそこじゃないと取り寄せられない本もあるとか。僕自身はさほど関わりがない場所なんですが」
「あ、それ黒羽くん…さっきの男の子も言ってました。他の本屋じゃ取り寄せてくれないものも取り寄せてくれるって…だから他のお客さんからも閉店しないで欲しいと言われてるって」

あそこじゃなきゃ手に入らない本があるなら、やっぱり閉店なんてきっと皆嫌がるんだろう。店主さんも続けたがっている様子だったけど…確かに、重い本を持ったり細かい文字を見るのは、店主さんくらいの年齢になると厳しいのかもしれない。
店主さんは、少し疲れているように見えた。人間の限界と言っていた。やむなく閉店するんだから、きっと相当しんどいのだろう。

「…私が力になれたらいいのになって思ったんです。本屋さんでのバイト経験なんてないから一から勉強しなきゃですけど」
「…全く、あなたからは目を離せませんね」

安室さんは苦笑して、ほんの少しだけ肩を竦めた。

「嶺書房の店主があなたを採用すると言ったのであれば、僕は反対はしませんよ。ずっと昔からある書店です。米花町の住人からの信頼も厚い。店主の人柄も良いと聞きます」
「店主さん、すごく優しそうでした。私外国語とかあまりわからないけど、わからないまま入店してもゆっくり見ていってって言ってくれたし…」
「あなたの今までの職場のことを思えば、嶺書房さんのような個人店で働くのは良いことかもしれません」

もう以前のような働き方は絶対にダメですよ、と安室さんに言われて苦笑しながら頷いた。前みたいな働き方をしたら、安室さんやコナンくんに会える時間もきっとなくなってしまう。ポアロに行く余裕なんて無いだろうし、会社と自宅を行き来するだけの生活なんてもう御免だ。

「働き始めたら少しずつお金を貯めて、引っ越さなきゃって思ってるので。いつまでもお世話になってるわけにもいかないし…」

安室さんの家に居候になっていて、携帯代金も安室さんが持ってくれている。ご飯も作って頂いてしまって、そんなお返しに私ができることと言えば掃除洗濯買い出しくらいなもの。しかも買い出しはほとんど安室さんが自分で済ませてしまうから、私はほとんど買い出しもできない。
早く自立しないとと思うと同時に、でもそうしたら安室さんと会える機会も減ってしまうんだろうなと思って少し寂しくなる。けれど、ポアロに行けば会えるだろうと思えばその寂しさも少し薄らぐ気がした。

「それに関しては、まだ今は考えなくて良いと思いますよ」
「…そんなわけにもいかないですよ。私、安室さんに負担かけてばっかりです」
「その辺のことを、きちんとお話しようと思っていたんです。ねぇ、ミナさん。あなたの言う負担って、何ですか?」

安室さんの言葉にぱちりと目を瞬かせた。
いつものようにあっさりと流されると思っていたのに…安室さんから思いがけず問いかけられて、一瞬言葉が止まる。
私の言う、安室さんにかけている負担とは。

「…居候させていただいてるのにベッド使わせてもらっちゃってるし、携帯代金も支払っていただいてしまってるし…ご飯だって。すごくお忙しいのに、私の面倒を見させてしまって申し訳ないです」
「それだけですか?」
「はい?」

安室さんはにこりと笑ってこちらを見つめている。その笑顔の意図が読めずに困惑していたら、安室さんは笑みを浮かべたまま小さく首を傾げた。

「言いたいことは言っておいてくださいね。あなたが言い終わりましたら、全て言い返させていただきますので」
「言い返すっ?!」
「ええ。いい加減、この堂々巡りをやめにしましょう。さぁ、他にはないんですか?僕にかけている負担とやらは」

何故だか追い詰められる感覚に言葉が詰まる。
えっと、ええと、何を言おう。あわあわと口をぱくぱくさせていたら、安室さんは私がもう何も言えないと察したのか更に笑みを深めた。

「居候させていただいていたのは僕の方が先ですよ。確かに一週間という短い間ではありましたが、あなたに迷惑をおかけして申し訳ないと思っていました」
「迷惑なんて思ってないです!その、変な話なんですけど、私安室さんがいてくださって本当に良かったと思ってるんです」

仕事を辞めようと踏み切れたのも、仕事を辞めた後の罪悪感を払拭してくれたのも、安室さんが傍にいてくれたからだ。安室さんがいなくても退職には至っていたかもしれないが、その後はどうしていただろう。元彼が家に乗り込んで来た時に安室さんがいなくて私一人だったら、一体どうなっていただろう。
そして何より。安室さんと過ごした私の家での一週間は、間違いなく楽しかったのである。

「安室さんと過ごした一週間、楽しかったんです」
「それが、答えですよ」

は、と間の抜けた声が口から零れた。
わけも分からず目を瞬かせる私を見て、安室さんは軽く肩を竦める。

「あなたが僕との生活を楽しんでくれたように、僕もあなたとの生活を楽しんでいます」

そんなはずは。そう思うのに、私は驚いたまま二の句が告げない。

「ベッドを使っていただくのは当然ですよ。そこは男として譲れません。あなたがそれだと気にするようだったので布団を購入したんです。言いましたよね、諦めてくださいって」
「いや、あの、でも…」
「携帯料金のことを気にされているみたいですが、それも最初はあなたから。申し訳ないと思っていました。とても助かりましたけどね」
「申し訳ないなんてとんでもないです、だって必要だと思ったし…」
「ええ、ですから、そういうことです」

にこり、と安室さんに微笑まれて再び口を噤む。言い返せない。

「僕が料理を用意することを随分と気にされていますが、一人分作るのも二人分作るのも手間はほとんど変わらないんですよ。料理は好きですし…作ったものを美味しいと言いながら食べてもらえるのは嬉しいですし。あなたは何か勘違いをしているようですが、朝食も無理に用意しているわけじゃありませんよ。自分の分のついでです。確かに近頃忙しいのは否定しません。ですから些か簡単なものになってしまっているのは申し訳なく思います」
「と、と、とんでもないですっ!簡単なものとかそんなの考えたことないです…!」
「それなら良かった。それに、あなたは食器を洗ったり掃除や洗濯まで請け負ってくださっていますよね。毎朝のゴミ出しまで。すごく助かるんです。料理を作るだけで、食器洗いや掃除や洗濯をしてもらえるなんて僕にとっては得しかない」

言い返せない。
固まる私を見て、安室さんは満足そうに目を細める。

「…さぁ、今度はミナさんの番ですよ。何か言いたいことがあればどうぞ。もちろん、そうしたらまた言い返しますけどね」

全て論破するぞという意思を感じて、ひぇ、と小さく悲鳴を上げた。
安室さんは黙ったまま私を見つめ、どうぞと目で訴えかけてくる。何か、何か言わなければと思うものの言い返せるネタが見つからない。だがふと思い当たって、私はハッとして顔を上げた。

「そ、そ、そうです!すごくお忙しいのに私の面倒見させてしまうのは私申し訳ないんです!お疲れならのんびりお風呂に入って、好きなものを食べて、ゆっくり寝て欲しいんです…!」

私がそう言うと、安室さんは少し目を瞬かせるものの何だそんなことかと言わんばかりに小さく笑う。

「ミナさん、いいですか」
「は、…はい…」
「先程言ったように、確かに忙しいことは否定しません。特に今は少々厄介な案件が絡んでいたので睡眠時間も短くなり気味でしたし、家を長く空けていたのは申し訳ないと思っています。ですがそれは、あなたがいようといまいと変わらない」
「は、」

相槌を打って良いのかわからずに中途半端な声だけが漏れた。ぽかん、と口を開ける私に構わず安室さんは続ける。

「あなたがいなくても忙しい時期は回ってきます。忙しい時期は家事にも手が回らなくなる。それでもここ数日、洗濯物や食べた後の食器類が溜まって山になることも無く、僕は非常に快適に過ごさせていただきました」

にこり、と安室さんが笑う。
洗濯物も食器類も、確かに私が片付けていた。洗濯物が増えていることに、安室さんが家に帰って着替えて行ったのを知ったりもした。
けれどそれは、居候させていただいている以上当然のことで。

「あなたのお陰です」

ありがとうございます、と何故かお礼を言われて混乱する。お礼を言うのは私であって、決して安室さんが私にお礼を言う立場では無いはずだ。

「あなたが料理以外の家事を請け負ってくれる代わりに、僕が料理をしてあなたの生活する環境を提供する。それじゃダメですか?」

ダメですか、なんて聞かれて、ダメだなんて答えられるのだろうか。
私は少し何かを言い返そうと思ってもごもごと口を動かしたが…結局言い返せる言葉を見つけられず、深い溜息と共に項垂れた。

「…ずるいですよ、安室さん…」
「要はお互い様ってことです。僕もあなたに感謝している、それをお返しさせてください」

この人はどこまで私に甘いのだろうか。
こんなに優しくされて、安室さんにどんどん惹かれていって、身動きが取れなくなってしまうのではないかと怖くなる。怖くなるのに、安室さんの傍にいていいと言ってもらえているみたいで嬉しい。
浅ましい自分に泣きたくなる。それでも…やはり、嬉しいのだ。

「…でも、金銭的な面でご迷惑をおかけしてしまっているのは本当に心苦しいので…借りてるスマホもお返ししなきゃと思ってるんです」
「もう使ってないものですから別に返す必要はありませんよ。…でも、そうですね。じゃああなたが働き始めたら、契約をあなた名義に移しましょうか。それならいいでしょう?」

こくりと頷く。私が気に病まないような選択肢を与えてくれることにほっとする。
すっかり馴染んだこの家の匂いも、この空間も。安室さんと過ごす空気も、とても大切なものだ。
少し冷めたお粥を口に運びながら、私はなんて幸せ者なんだろうと目を細めた。

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