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数日後、私は再び米花駅前の嶺書房さんへと足を向けていた。
安室さんは大忙しの時期はとりあえず落ち着いたらしく、今はポアロの方に力を入れて働いている。ポアロだけの日もあるようで、今日は車ではなくバスで一緒に駅前まで出た。
駅前で安室さんと別れて人通りのない路地を曲がると、すぐにひっそりと佇む嶺書房さんが見えてきた。良かった、もう開店しているみたいだ。
軽く中を覗き込んでからドアを開けて店内へと足を踏み入れる。ふわりと古い本の匂いが私を包んだ。

「いらっしゃいませ…おや、君は」
「こんにちは。また来ちゃいました」

入口で店主さんにぺこりと頭を下げる。こないだ来た時と微妙に本の配置が変わっているというか…本の量が減っているように見える。閉店間際で、皆一気に買っていくのだろうか。
きょろきょろと棚を見ながらカウンターに歩み寄れば、店主さんは私を見てほっとしたように微笑んだ。

「良かった、君が来るのを待っていたんだよ。連絡先もわからなかったからね」
「あ、そういえば…。黒羽くんとも連絡先交換してない」
「あぁ、黒羽くんからメモを預かっているよ。はいこれ。君が来たら渡すように頼まれたんだ」

店主さんに差し出されたメモを受け取る。丁寧に折り畳まれているメモを広げてみると、そこには携帯の電話番号とメールアドレスが記載されていた。端っこの方に「連絡くれよな」のメッセージと一緒に黒羽くんの名前も書いてある。
わざわざ連絡先を店主さんに託してくれたのか。何となく嬉しくなって無意識に笑みを浮かべながら、私はメモを大切に鞄に仕舞い込んだ。後でちゃんと連絡しておこう。

「友人から、嶺書房さんのことを聞いたんです。昔からある本屋さんで、海外の専門書を取り扱っているからそっちの方面の人達御用達のお店だって。私、米花町に来て日も浅いので知りませんでした…ごめんなさい」
「そうか、君はこの街に来て日も浅いのか。いろいろと大変な街だろう、ここは」

店主さんは苦笑を浮かべながら言った。恐らく犯罪率のことを言っているんだろう。私も苦笑を浮かべて軽く肩を竦める。

「大変と言えば大変ですけど…でも、この街で生きていきたいと思ったので。大切な人達もいる街だから」
「そうかい。…なんだか君は訳有りのようだね」

店主さんはそう言ったけれど、その表情は優しく瞳は真っ直ぐに私を見つめていた。探るような色はない。けれど、私を見定めるような光を宿していた。
しばしじっと私を見つめて…やがて店主さんは、こくりと頷く。

「…うん。君に任せてみようと思うよ」
「えっ?」

突然の言葉にぽかんとしてしまったが、店主さんはそんな私に構わず一枚の書類を取り出して私に手渡した。
それは要するに履歴書…のようなもの。経歴を書くところはない。名前と、住所、生年月日や年齢。それから備考欄。息を飲んで店主さんを見つめたら、店主さんはにこりと笑う。

「何か資格とか得意なことがあったら、備考欄に書いておくれ。いつ頃から働けるかい?」
「あっ、えっ、えっ?あの、私から言っておいて何ですけど…よろしいん、ですか?」

店主さんの言葉はつまり、採用という事ではないのか。
こんないきなり、簡単に採用してしまっていいものなのか。おどおどとしていたら、店主さんは笑みを浮かべたままもう一度頷いた。

「こんな年齢だし、そこらの人よりはいろんな人間を見てきたよ。君の言葉や心に嘘はない、そう思ったからこの店を君に任せてみたいと思った」
「で、でも経歴書くところもないし…」
「君の為人はわかったよ。それだけ書いてくれればいい」

店主さんの言葉にぎゅう、と胸が痛くなる。痛くて、温かい。
私はもう一度店主さんから渡された紙を見つめると、それを折り畳んで鞄に仕舞った。住所のところは安室さんに相談しなければならないし、一度持ち帰ってきちんと記入してから持ってこよう。

「ありがとうございます…私、頑張って仕事を覚えます。よろしくお願いします。これ、ちゃんと記入したら明日にでも持ってきますね」
「あぁ、ゆっくりでいいよ。君に仕事を引き継ぐくらいまでは、私も店を続けようと思ったからね」
「その事なんですけど、ちょっと事情があって…きちんと働き始められるのは、一ヶ月後くらいになりそうなんです。今すぐにでもお手伝いしたいんですけど、多分そうすると逆にご迷惑になってしまうというか…」

体が治りきる前に働くのは危険だなと先日の一件でわかった。仕事中に万が一倒れでもしたら困るのは私ではなくてお店の方だと思う。閉店予定だったお店を任せてもらうのなら、きちんと私も向き合って働かなければならない。一ヶ月も待たせてしまうのは忍びないけども、ここははっきり伝えておかないと。

「構わないよ。怪我をしているんだろう」
「えっ?」

店主さんに話した覚えはない。どうしてと思いながら目を瞬かせたら、店主さんはくすりと笑った。

「黒羽くんから聞いたよ。彼女は怪我をしているみたいだからすぐには働けないと思う、ってね」
「黒羽くんが……」

そんなところまで気を回してくれるって彼一体何者なんだろう。すごくイケメンな男の子だとは思ったけど、やることまでイケメンって…この街のイケメンは皆そうなのだろうか。

「…ありがとうございます…。今度病院で経過を見てもらうので、その時に先生に聞いてみます。出来るだけ早く働きたいと思ってます」
「無理はしなくていいからね。働けるようになったら来てくれたらいいから」
「はい。…これからよろしくお願いします」

ぺこりと頭を下げると、店主さんは優しく笑ってくれた。


嶺書房の店主さんは、お店の名前の通り嶺さんと言った。嶺さんにとりあえず携帯番号だけ伝えると、また書類を届けに来ると話して店を後にした。
時計を見ればまだ昼過ぎだ。どうしようかなと考えて、せっかくだからポアロにでも寄っていこうかと考えた。一度立ち止まって自分の体調はどうか確認して、痛みや変な怠さもないことに頷く。これならポアロに寄って帰るくらいは問題ないだろう。
私は路地を抜けるとポアロに足を向けた。


***


「いらっしゃいませ…おや、」
「こんにちは」

ポアロのドアを開けると涼し気なベルの音が鳴る。中に入ると安室さんが出迎えてくれた。奥には梓さんの姿もある。
私が来るとは思っていなかったんだろう。少しだけ驚いた顔をして、すぐに柔らかく微笑む。

「こんにちは、ミナさん。良ければカウンター席へどうぞ」
「ありがとうございます」

安室さんに案内されるままカウンター席へと腰を下ろす。この席だと、作業している安室さんを一番近くで見れるんだなぁと思いながら鞄を膝の上に置いた。
店内を見回すと、やはり昼時だからか少し混雑している。ただ、皆食事自体は済んでいる人が多くてのんびりとした思い思いの時間を過ごしているようだ。

「ご注文は何にしますか?」

安室さんがお冷と一緒にメニューを持ってきてくれたが、私の注文はもう決まっている為お冷だけ受け取った。

「ハムサンドとホットのカフェラテでお願いします」
「かしこまりました」

以前味覚を失ってしまった時に来た時、頼んだカフェラテの味も温度もわからないまま飲み下してしまっていた。美味しかったですって梓さんには伝えたけど、それは嘘でしかない。ちゃんと味を理解した上で、ちゃんと美味しかったと伝えたい。

「そういえば、今日は嶺書房さんの方に行かれたんですよね?どうでした?」

カウンター越しに声をかけられて視線を上げる。

「えへへ、仕事決まりました。私の体調も考えていただいて、一ヶ月後くらいから働かせていただこうかと…今度病院行ったら先生に相談してみようと思って」
「おめでとうございます。そうですね、病院の先生に相談してみるのが良いでしょう」

安室さんが笑ってくれるので私も嬉しくなる。
働き始めたら、安室さんにどんな恩返しをしようかな。とりあえず昨日話した通り携帯の契約は私名義にして、家賃も半額くらい払わせてもらえないかと考える。
頬杖をついてぼんやりと考えていたら、ふと視線を感じたような気がして視線を巡らせた。

「……?」

帽子を目深に被った男性。一瞬目が合ったかと思ったけど、男性はすぐに俯いてハムサンドを頬張っている。
…なんだろう、気の所為かな。

「お待たせしました」

安室さんがハムサンドとカフェラテを運んできてくれて、思わずぐうとお腹が鳴った。恥ずかしくなってお腹を押さえたら、その音をばっちり聞かれていたらしく安室さんがくすくすと肩を揺らして笑う。

「…聞こえましたか」
「可愛らしい音ですね。食べてお腹の虫を落ち着かせて上げてください」
「そうします……」

恥ずかしい。赤くなった頬を誤魔化すようにハムサンドを手に取ると、小さくいただきますと口にしてから食べ始めた。
うん、いつも通り美味しい。以前レシピを教えてもらったけど、やっぱり私なんかに作れる気はしない。これは安室さんの手で作られるから美味しい説もある。私の中でだけの話ではあるが。

「ミナさん、こんにちは」
「梓さんこんにちは!お邪魔してます」
「とんでもない、ごゆっくりしていってくださいね!」

接客を終えた梓さんが近寄ってきて声をかけてくれた。梓さんの笑顔って見ていると気持ちが穏やかになるなぁ。素敵な女性だなと思いながら私も自然と笑みになる。
温かいカフェラテを口に運んで、ミルクのまろやかさと程よい苦味にほうと息を吐く。…美味しいなぁ。ちゃんと味がわかって良かった。
ふと顔を上げると、カウンターに頬杖をついた安室さんと目が合った。え。ずっと見つめられていたのだろうか。

「え、…えっと、な、なんでしょう」
「いいえ。…あなたがものを美味しそうに食べたり飲んだりしているのを見ると、安心するなぁと思いまして」

ふ、と柔らかく目を細めてこちらを見る安室さんに、どきりと胸が跳ねた。
そんな顔で見ないで欲しい。お腹の音をからかわれて赤くなっていた頬が落ち着いたと思ったら、再びまた一気に頬が上がってしまったのを感じる。
なんだろう。安室さん、私が照れるのを楽しんでいやしないだろうか。やめて欲しい。私は視線を逸らして残っていたハムサンドを頬張った。


「ありがとうございました〜」

梓さんの声に顔を上げる。すると、先程の帽子を目深に被った男性が会計を終えてポアロを出ていくところだった。
男性が座っていた席に視線を向ければ、ハムサンドは綺麗になくなっておりそこには皿だけがぽつんと置かれていた。
先程感じたように思ったあの男性からの視線。私の気の所為だった可能性が九割だとは思うけど、なんとなく気になるなと思いながら小さく息を吐く。
先程の視線は…なんというか、私を見ていたと言うよりも。

「安室さん、ホットコーヒーひとつお願いします」
「わかりました」

梓さんと安室さんのやり取りを見ながら、ふむ、と私は少しだけ目を細めた。
なんというか、先程の男性の視線は。
…安室さんを見ていたように、感じたんだよなぁ。

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