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日毎に自分の体調が良くなっていくのを感じている。
先日病院で検査してもらった際には順調に回復しているらしく、先生にも「回復力高いね」と笑われた。私の回復力が高いと言うよりは…安室さんの栄養バランスばっちりのご飯を食べているお陰じゃないか、なんて思ったりしている。
先生に一ヶ月後ないし三週間後くらいに仕事を始めたい話もしたが、そちらもとりあえずは問題ないだろうとのこと。これで胸を張って嶺書房さんにご報告に行ける。
ということで、記入を済ませた書類を嶺さんに届けた帰りなのである。住所欄は安室さんに相談し、「これくらいの提出用でしたら問題ありません」とのことだったのでMAISON MOKUBAの住所を書かせていただいた。
嶺さんは一ヶ月後を楽しみにしていると話してくれて、晴れて私の職場が正式に決まったのである。
ちなみに黒羽くんとは連絡先を交換済みだ。嶺書房さんで正式に働くことになったと連絡したら喜んでくれていた。遊びに行くよと言われたのでそれも今後の楽しみになりそうだ。

「さて、今は…二時か」

嶺書房さんを出て時計を見ると、二時を少し過ぎたところだった。
今日は安室さんは朝からポアロのシフトに入っていたはず。どうしようかな。ポアロに寄って帰るか、このまま帰るか…。あ、そういえば牛乳が無くなりかけていたんだっけ。それを買って帰ろうかと思いながら歩き始めたら、見慣れた子供たちの後ろ姿を見つけた。
少しだけ足を早めて歩み寄り、声をかける。

「こんにちは」
「あっ、ミナお姉さんこんにちは!」

元気よく返事を返してくれる皆に笑みが浮かぶ。
元太くん、光彦くん、歩美ちゃん、それから哀ちゃんとコナンくん。皆揃って歩いているところを見ると、どうやら下校途中らしい。なんとなくの流れで彼らと一緒に歩き出せば、不意に歩美ちゃんがこちらを見上げてきた。

「あっ、そうだ。ミナお姉さんはどう思う?」
「?何が?」

突然問いかけられて首を傾げる。
彼女達の話を聞いてみたところ、近頃ポアロによく来る怪しい男性がいて、昨日その男性を尾行してみたら商店街で見失ってしまったらしい。
というかポアロによく来る怪しい男性って。怪しいって一体どんなふうに。思わず苦笑が浮かぶ。

「怪しい男性って、どんなふうに怪しいの?」
「昨日の朝と夕方、二回もポアロにいて…二回ともハムサンドを食べていたんだ」
「え、すごいリピートユーザー」

同日で朝と夕方ってなかなかではないだろうか。確かにそれはちょっと…怪しいと決めつけるのはどうかとは思うけど、純粋に不思議ではある。

「あの人、きっと何かありますよ!」

光彦くんの言葉になるほどなぁ、と相槌を打つ。こういう小さな謎も見逃さないのが少年探偵団なのだろうか。
そう思いながら歩いていると、ふと見慣れた人影に目を瞬かせる。

「あ、安室の兄ちゃん」

目の前を通り過ぎて行ったのは安室さんだ。朝からシフトに入っているはずだから、もしかしてランチタイムも落ち着いて買い出しにでも行くのだろうか。

「用事を思い出したから、先に帰るわ」

え、と思って振り返ると、哀ちゃんが走って行ってしまうところだった。…今のタイミングで用事を思い出した?どうしたんだろう。何かあったのかなと眉を寄せる。
…なんか今のタイミングだと、安室さんを避けているように見えたけど…大丈夫かな。なんとなく心配になって視線を落とした。

「あ、あの人!」

今度はなんだと顔を上げる。すると、怪しい動きをしながら安室さんが歩いていった方向に向かう男性の姿。…もしかしなくてもあれ、安室さんを尾行してる?それに、帽子を目深に被ったその男性に私は見覚えがあった。

「…あれ、あの人」
「ミナさん、知ってるの?」
「う、うん。数日前にポアロでご飯食べた時にいた人なんだけど…なんかあの人、その時に安室さんを見ていた…ような…」
「どうして安室さんを尾行しているんでしょう…」
「ますます怪しいぜ!」

確かに、怪しいと言われれば怪しい。だって普通の人は尾行なんてしない。…はずだ。
安室さんと男性の背中は少し遠ざかっている。どうしようか、と思っていたら、コナンくんが一番に動き始めた。安室さんを追う怪しい男性を、更に距離を置いて追い始めたのである。
なんとなく私もその流れに乗って彼らについて行くが…尾行なんてして良いのだろうか。少し気まずい。
安室さんが住宅地の角を曲がって、それを追っていた男性も様子を伺いながらも曲がっていく。それを追いかけようとしたら、先頭を行っていたコナンくんが突然立ち止まって私たちを止めた。

「コナンくん、どうしたの?」
「この先は行き止まりなんだ」

行き止まり。
安室さんが敢えて行き止まりに向かったということは…もしかして、あの男性の尾行に気付いているんだろうか。それで追い詰めようとしてるとか?
私達は足音を潜めながらもう少しだけ近寄ると、そっと物陰から様子を伺った。

「最近ポアロによくいらっしゃるお客様ですよね」

安室さんの声が聞こえてくる。あの男性、ちょこちょこポアロに顔を出していたのか。接客してたらそれはもちろん気付くだろうなと思って小さく頷く。

「何故僕を尾行するんでしょうか」

安室さんがそう言った直後だった。突然男性が駆け出し、路地を曲がって逃亡したのである。あ、と思っている間に安室さんが男性を追って走り出し、次いでコナンくん達もその後を追う。慌てて私も彼らについて走り出した。
走り出したのは良いんだけど…忘れるなかれ。ここのところ調子が良くなってきて少しずつ回復しているとは言っても、私の体は以前よりもずっと体力も筋力も落ちてしまっているのだ。たかだか数メートル走ったあたりで息が上がり、前を走るコナンくん達と少しずつ差が開き始める。
そもそも走ったのなんていつぶりだろう。退院後も走ることはしていなかったから、怪我をする前にまで遡ることになる。そんな私が、彼らに追いつけるはずもないのだ。

「ッ、は、…っはぁ、けほっ…」

当然私は走れなくなり、道の途中で立ち止まって膝に手をついた。
心臓が痛いし、ぜぇぜぇと切れた息はなかなか治まらない。唾液は鉄の味がして気持ちが悪い。酸素を上手く取り込めないしすごく苦しい。
あぁ、本当にダメだな。怪我も良くなってきたことだし少し筋トレとかしないと、本当に弱ったままになってしまうかもしれない。鍛え直さなきゃ、と思いながら胸を押さえた。

「ゆっくり落ち着いて呼吸してください」

背中に温かい手が触れて、至近距離から声がしてハッとして顔を上げる。安室さんだった。
あれ、道の遥か先を行っていたはずの彼がどうしてここに居るのだろう。コナンくん達の姿はとっくに見えなくなっているのに。

「…っ、はぁ…、あむろさん、どうして…」
「梓さんから緊急の呼び出しでして。アイスを買って大至急戻ってきて欲しいと連絡があったので、あの男性のことはコナン君達に任せたんです。あなた達が追ってきているのには気付いていましたし」

おかしいな、安室さんを尾行していた男性からもそこそこ距離を取っていたはずなのにどうして尾行していたことに気付いていたんだろう。それも探偵さんのスキルのひとつなのだろうかと考えながら、緊急の呼び出しという言葉に目を瞬かせる。それ、私なんかに構ってないで早くアイスを買って戻った方が良いのでは。
そんな私の思いは顔に出ていたのだろう。安室さんは私の背中をそっと撫でながら小さく苦笑する。

「こんな状態のあなたを放り出して行くわけがないでしょう。ここからならスーパーもポアロもさほど遠くないので大丈夫ですよ」

一定の速度で背中を撫でてもらっているうちに、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。ようやく酸素を肺に取り込めたような心地がして、私は深く息を吐き出す。

「…すみません…」
「まだ体調も戻り切っていないのに無茶をするからですよ。あまり体に負荷をかけないでくださいね」

返す言葉もない。しかしあの状況では走り出す他なかったような気がする。
安室さんは私が落ち着いたのを見れば小さく微笑み、それじゃ行きましょうか、と言った。

「え…行くって、どこに」
「アイスを買ってポアロに戻るんですよ。ミナさんも来るでしょう?」

休憩してから帰った方が良いですよ、と言われて、確かにその通りだなと思った私は買出しへと向かう安室さんについて行ったのだった。


***


買い物を終えた後私と安室さんはポアロに向かったのだが…そこからがまたものすごい展開だった。なんとあの男性がポアロに乗り込んできたのである。そして、その男性を追うようにしてポアロに飛び込んできたコナンくん達。私はそんな何とも奇妙な空間に居合わせてしまったのだが…そこから、コナンくんによって全ての謎の解説が成されたのであった。

男性は、商店街のパン屋さんで働くパン職人だった。ポアロで人気のハムサンドの評判を聞き付け食べに来てみたは良いが、あまりの美味しさに驚いたのだという。自分もこんな美味しいサンドイッチを作りたいと試行錯誤しては見たものの、上手くいかずに悩んでいたらしい。

「あぁ…なるほど…」
「ミナお姉さん、何がなるほどなの?」
「安室さんのハムサンドって、ちょっとコツがいるというか…ちゃんとしたレシピがあるから」

確かハムにオリーブオイルを塗ったり、マヨネーズと味噌の特製ソースを使ったり…だったような。一手間も二手間も加えられているから、美味しいのは当然だと思う。
パン職人の男性は、ちゃんとしたレシピがあるという私の言葉に目を見開くと、安室さんの肩を掴んで叫んだ。

「どうして、どうしてあんたはあんなに美味いハムサンドが作れるんだ!!」

男性を除く全員が呆気に取られて沈黙が下りた。


結局、安室さんがレシピを男性に解説してあげることで事は解決した。企業秘密とかそういうのがあるのではと思ったが、安室さんが気にした様子はない。安室さんのハムサンドをパン屋さんで売ることにも快く頷いていたのだから、本当に安室さんは器の大きい人だと思う。
安室さんのレシピのハムサンドを店内で食べたければポアロで、持ち帰りたければパン屋さんでということらしい。

「そっか、ポアロのハムサンドをお家でも食べれるのか」

それは確かに良いかもしれない。
皆でハムサンドを食べながら呟いたら、安室さんがぱちぱちと目を瞬かせてから小さく笑う。

「あなたは買って帰る必要は無いでしょう?」

ろくに咀嚼できていないハムサンドをごくりと飲み込んでしまった。

「えぇっ、安室さんそれどういう意味ー?!」
「ミナさんは買って帰る必要が無い…?えぇとつまり、いつでも食べられるということですか?」
「ミナ姉ちゃんズリーぞ!俺も安室の兄ちゃんのハムサンドいつでも食いてぇ!」

頼むからもう何も言わないで欲しい。驚いたようにこちらを見ているコナンくんも同様である。

「…ミナさんまさか」
「私はこれからポアロの常連になるので毎日でも来て食べれば良いという店員さんの脅しです、そういう意味です」

コナンくんの言葉を遮って言ってから、私は食べかけのハムサンドを口に押し込んだ。
私が子供達にやいのやいの言われている間も安室さんは何もしてくれないし、むしろなんかくすくす笑ってるし、どうして私は笑われているのかわからないし。
子供達に何を言われてもシカトしてやると思いながらハムサンドを食べ進めていたら、ふと安室さんのポケットのスマホが着信音を立てた。

「あ…ちょっと失礼、」

スマホを耳に当てながら離れる安室さんの背中を見つめる。
…仮にも仕事中に私用の電話に出ても良いのか…いや、彼は探偵業が本業なのだろうし、その関連の電話だったら無視は出来ないだろう。お仕事の電話なのかな。

「…、…何をです?……ですよね、」

微かに聞こえてくる安室さんの言葉ではどんなお話なのかわからない。けれど、何故だろう。…彼の声が、ほんの少しだけ強ばったように感じたのだ。

「目を付けられているって、誰に?」

安室さんから意識を離してしまった私には、その言葉は聞こえなかった。
ただ私はぼんやりと、もしかしたらまた探偵業で忙しくなるのかもしれないな、なんて呑気なことを…その時は考えていた。

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