Side A…2
佐山ミナと名乗る女性に連れられ、彼女の住むマンションの部屋へとやって来たが、俺はそのまま風呂場に直行させられた。
いや。俺自身煤やら泥やらで汚れていたからまず風呂を借りられるのは有難かったのだが…それにしても彼女の警戒心のなさに呆れもするだろう。彼女は俺が何かを言う前に着替えとバスタオルを手に戻ってきて、俺に手渡したのである。
初対面だぞ。数分前に出会ったばかりの男を一人暮らしの部屋に連れ込んだばかりかそのまま風呂に直行させるなんて一体どういう神経をしている。最近の若い女性はその辺の警戒心が薄いのか?シャワーを浴びながら、そんなことをモヤモヤと考えた。
わかってはいたことだが、体には無数の掠り傷や痣が出来ている。どれもさほど深くないのが幸いだが、左半身を中心に未だ血も止まっていない部分がある。
…このまま借りたジャージを着ると、血で汚してしまうかもしれないな。そもそもあのジャージは男物だったし、恐らくあの女性の彼氏のものだろう。そんなものを見ず知らずの男に貸して良いのか。多分考えたところで無駄だろうと思い、溜息を吐くことで頭を切り替える。
考えなければならないことは山ほどある。ここはどこなのか。米花町へはどうやって帰るのか。あの爆発の後一体どうなったのか。
先程自分のスマホを確認してみたが、目立った損傷がないにも関わらず通信は圏外になってしまっていた。電源を入れ直しても直らなかったところを見ると故障か。何にせよ、まずは風見と連絡を取らなければと思いながらシャワーのコックを捻ってお湯を止め、バスタオルで体を拭った。
自分の体や髪からは普段使わないような甘い石鹸の香り。バスタオルからも馴染みのない柔軟剤の香りがして、酷く胸がざわついた。


「シャワー、ありがとうございました」

借りたジャージは俺のサイズより少し小さくて若干窮屈だったが文句は言えない。キッチンに佇んでいた彼女の背中に声をかければ、直ぐに振り向いて俺の姿を頭から爪先まで見つめた。

「とんでもない。…体は温まりました?」
「えぇ、お陰様で。…すみません、このジャージ、彼氏さんのじゃないですか?僕がお借りして良かったんですか」
「元彼のです。新品じゃなくて申し訳ないんですけど、そんなに使ってなかったしちゃんと洗濯してあるので大丈夫ですよ。でも、やっぱり少し小さいですね。安室さん身長高いから」

後で彼氏と拗れたらどうするのかと思っていたが、既に別れているのなら問題は無いか。とは言え、別れた彼氏の私物を取っておくのもどうかと思うけれど。
彼女はキッチン台の上のマグカップに浮いていたティーバッグを捨てると、冷蔵庫から牛乳を取り出す。

「お砂糖とミルクはどうしますか?」

そう尋ねられて、咄嗟に笑みを顔に貼り付ける。

「あ、いえ…僕は今温まってきたので大丈夫ですよ。佐山さんが召し上がってください」
「え?でも」
「本当にお構いなく。お風呂と着替えを貸してくださっただけでとても感謝していますから」

他人が作ったものを口にするのは抵抗がある。たとえこの女が白であっても、だ。
もし何かあったら。万が一のことがあったら。そういう懸念を抱かずにはいられない。出会ったばかりの人間をすぐに信用なんか出来はしない。
彼女はあっさりと引いてくれたが…その表情が一瞬だけ強ばったのを、俺は見逃さなかった。俺が一線引いたのに気付いたのだろう。…警戒心はないが、思っていたよりも聡い女性なのかもしれない。


***


その後リビングで腰を落ち着けて話をしようとしたら、彼女に待ったをかけられた。
曰く、「怪我の手当をさせて欲しい」とのこと。思ってもいなかった言葉に反応が遅れた。さして酷い怪我でもないから放っておいても問題は無いと思っていたのだが、彼女はやたらと頑固で今度は引いてくれなかった。「バイ菌が入ったら怖いから」なんて言い方をされては、何というか間が抜けてしまう。怪我の手当くらいならいいかと考えて、結局頼むことにした。
そうして怪我の手当を終え、ようやく話を進めることが出来たのである。

「…まず、ここは東京都〇〇市の四丁目。僕は東京都米花市の米花町にいたはずですが、あなたに米花町という場所の心当たりはない」
「はい、聞いたこともないです。…ちなみに、ベーカチョウってどういう字を書くんですか?」
「米に花の町ですよ」
「なるほど、それで米花町…」

彼女の様子を伺ってみるものの、その様子に嘘を吐いているような様子はない。本当に米花町のことを知らないようだ。
ならばと思い、誰もが知っているであろう毛利小五郎や工藤新一の名前を出してみたものの、どちらも知らないという。探偵と聞いて真っ先に浮かぶのはシャーロック・ホームズらしい。そういえば工藤新一は平成のホームズと言われていたな。
念の為怪盗キッドのことも尋ねてみたが、同じく聞き覚えがないとのこと。互いの持っている情報が噛み合わない。仕方ないと溜息を吐く。

「…では、警視庁がある場所を教えてください」
「警視庁ですか?それだったら…確か地下鉄の霞ヶ関駅が近いんじゃないでしょうか」
「…なるほど、そこは同じか」

意外だった。米花町は知らないのに霞ヶ関は知っているのか。しかし東京という地名においては一致しているから、なんら不思議ではないのかもしれない。…となると、やはりどちらにしろ情報を集めなければならないだろう。
俺は自分のスマホを取り出すと、それの待受画面が彼女に見えるようにテーブルに置いた。

「これは僕のスマートフォンですが、どうやら壊れてしまったようでずっと圏外なんです。いろいろと調べたいのですが、これではインターネットに繋ぐこともできません。申し訳ないのですが、パソコンをお借りしても?」

俺のスマホを見た彼女の行動は早かった。隣の寝室からノートパソコンを持ってくると、それをそのまま俺の目の前に置いてくれる。
…本当に警戒心がないな。

「それはもちろん構いません。ネットには接続されていますから、好きに使ってください」

何にせよ、情報を集める手段があるというのは非常に有難い。落ち着いて調べられる環境というのも助かる。
俺は少しだけ肩から力を抜き、笑みを浮かべた。

「助かります。僕は少し調べ物をさせていただきますので、佐山さんはどうぞいつも通り過ごしてくださいね。…僕がいる時点で難しいかもしれませんが」
「いっいえそんなことは!無理矢理うちに呼んだの私ですし…!安室さんこそどうぞ寛いでください!」

彼女の行動が全て善意だったとして、それをそのまま信じるわけにはいかない。それに甘んじるわけにはいかない。俺は何としてでも米花町に帰らねばならないのだから。
けれど、少しだけ慌てたように言った彼女の「どうぞ寛いでください」の言葉に…思わず目を瞬かせてしまった。どうぞ寛いでくださいって。寛いでいられるような状況ではないのだが、何故だかその言葉が不思議と胸を温かくしたのである。

「ふ、…ふふ、本当にあなたは不思議な方ですね。ありがとうございます。ありがたく、寛がせていただきますよ」

思いがけず笑いが零れた。
…本当にこの佐山ミナという女性は、不思議な人だと思う。警戒心が薄くてどこかぼんやりしているけれど、ふとした時の察しは良い。鈍感なんだか鋭いんだか、これではわからないな。

「じゃ、じゃあ私お風呂行ってきます…!」
「ふふ、はい。行ってらっしゃい。ごゆっくり」

笑われたことが恥ずかしかったのか、彼女は顔を赤く染めて寝室に入ると、着替えを手にしてそのままそそくさとバスルームの方へ向かってしまった。
一頻り笑って息を吐く。すると体から力が抜けて、変な胸のざわめきも消えた。
焦るな。小さく頭を振って髪をかき上げる。

――焦りこそ最大のトラップだ

そう言っていたかつての友人のことを思い出す。その言葉は爆弾の解体技術を教えて貰っていた時に言われた言葉だが…別に爆弾解体の時のみに使う言葉ではない。
焦りは禁物だ。いかなる時でも。
焦ってもどうにもならないのだから、落ち着いてどうすべきか冷静に考えろ。
なるようにしかならない。今出来ることをやれ。


***


バスルームから戻ってきた佐山さんは先程よりは少しスッキリした顔をしていたが、それでもその顔に滲む疲労は隠し切れていない。
出会った時から疲れた顔をしていると思っていたが、これはここ最近ちゃんと寝れていない顔だ。目の下の隈も酷いし、早いところ休ませた方が良いだろう。
そう思い彼女を寝室へと促したのだが…こちらの寝場所の心配までする彼女にやや呆れた。

「寝るところでしたら、お構いなく。まさか僕をベッドに寝かせようなんて言わないですよね?さすがにそれは遠慮させていただきますよ」

何かを言われる前に先手を打つことにした。しばらくは怪我人だからとか何とか言っていたが、やんわりと断れば食い下がることはなかった。
その代わりにモコモコのブランケットを持ってきた。薄いピンク色の、厚手のマイクロファイバーのブランケットである。

「これ、すごくあったかいので…。もし夜中寒かったら、そこにリモコンもあるので暖房入れてください。風邪引かないでくださいね」
「…何から何までありがとうございます」

何もそんなに心配しなくても。苦笑しながらも受け取れば、佐山さんは少し安心したようだった。そこまで心配されるのもどことなくこそばゆい。
そのまま寝室に入ろうとする彼女を、咄嗟に呼び止めた。

「佐山さん」
「はい?」

きょとんとして振り返った彼女の顔に、警戒の色は全く見られない。頬杖をつきながら小さく息を吐くと、俺は寝室のドアを指差した。

「そこのドア、ちゃんと鍵かけてくださいね。もちろんあなたに何かをするつもりはありませんが、それくらいの警戒はきちんと見せてください」

ドアに鍵かついているのはわかっていた。
繰り返すようだが初対面である。数時間前に出会ったばかりの男に対する警戒心を、せめてそれくらいは見せてくれないと俺が安心できない。
俺の言葉に最初は微妙な顔をした佐山さんだったが、少し考えて納得したのだろう。すぐにひとつ頷いた。

「…わかりました。何かあったら遠慮なく呼んでくださいね。…それじゃ、お休みなさい」
「ええ。……お休みなさい」

お休みなさい、なんて口にするのはいつぶりか。
彼女が寝室に入り、鍵の閉まる音を聞いてから再びパソコンへと視線を走らせる。

どうやら俺は、俺が考えていた以上にとんでもないことに巻き込まれてしまっていたようである。
まず、インターネットを使っていくら調べようとも…米花町という地名がヒットしない。ならばと地図上で米花町を探そうとしたのだが、そもそも米花町が存在していないのである。本来米花市が位置している場所を見てみると、そこに表示されているのは東京都〇〇市…つまり、俺が今現在居るはずのこの辺りになる。
米花駅のあった場所を見れば駅舎や駅周辺の様子は米花駅とほとんど同じであるものの駅名が違う。東都環状線なんて鉄道は存在せず、東都タワーの名前も東京タワーと別の名前になっている。
所持していたクレジットカードの会社やキャッシュカードの銀行は、検索をかけても存在しない。
一つ一つ情報を得る度に、有り得ないと思っていたことが少しずつ本当なのではないかと思えてくる。

「不可能な物を除外していって残った物が、たとえどんなに信じられないものだったとしても…真実である」

これはシャーロック・ホームズの言葉だったか。
途方もない話に深い溜息を吐く。

検索窓に警視庁、と入力してエンターキーを押した。
表示されるのは…見慣れた場所。霞ヶ関という地名とも合致している。
可能性はゼロに近い。けれどもう、手掛かりを求めて縋れるのはここしかないのである。ここで風見と連絡が取れれば、或いは。

「…行ってみるしかないか」

全ての可能性を潰して自分の中で結論が出たら、彼女にも話すしかないだろう。
自分がこの世界の人間ではないかもしれないなんて話、信じてくれるのだろうか。
そもそも、もしかしたら自分の頭がおかしくなってしまっただけではないのか。そう考えられたら楽だった。そう結論付けるには、俺の所持していたクレジットカードやキャッシュカード…スマホに残る連絡先の説明がつかない。

「今出来ることをやれ。…やるしかない」

ちらり、と寝室の方に視線を向ける。物音は聞こえない。疲れていたようだから、恐らくすぐに寝入ったのだろう。
一人ではないことに安堵を覚えるなんて思いもしなかった。
ここに来て彼女に出会えたのは…恐らく、とても幸運なことなのだろう。

(本編 #2〜#3)

Back Next

戻る