Side A…3
こんな状況だ、たまにはしっかり寝ておこうと思いながら借りたブランケットに包まりラグマットの上で夜を明かした。目が覚めたのは午前十時過ぎのこと。いつもの生活から考えれば随分な寝坊である。俺も意識しないうちに疲れていたらしい。体を起こして伸びをすると、血が巡り始めて少しぼんやりしていた頭もはっきりしてくる。
寝室の方に視線を向けてみるが、物音はしない。…どうやらまだ佐山さんは眠っているらしい。まぁ、あの疲れた表情を考えれば無理もないか。
勝手にあちこち触るのも忍びないとは思うものの、かと言ってただ一夜の宿として部屋を借りたというのも自分の中ではあまりいい気分ではない。
朝食でも用意出来れば、と思いながらキッチンを覗いて見たのだが…なるほど、あるのはインスタント食品やカップ麺が主だった。申し訳程度に揃えられた調理器具にも使い込まれた様子はない。料理が苦手で自炊はほとんどしないという彼女の言葉はどうやら本当のようである。
「…とは言っても」
疲れた体にインスタント食品というのはどう考えてもよろしくない。俺も彼女もだ。せめて何か他にもう少しまともなものは無いだろうかと思いながら冷蔵庫を開けて…使いかけの味噌と卵、それから乾燥ワカメを見つけた。
若干疑いながら賞味期限を見てみたが、味噌もワカメも問題ない。怪しいのは卵だったが…容器に水を張って中に沈めてみたところ、浮いてくることも縦になることもなく鮮度に問題はなさそうだ。
多少の自炊はするのか、と思いながら他にも物色すれば米を見つけた。…簡単な朝食くらいなら作れそうだな、と思いながら支度に取り掛かった。
寝室の方から物音がしたのは、昼を過ぎて少しした頃である。味噌汁は出来上がってあるし、ご飯も炊けている。そろそろか、と思いながら味噌汁とご飯を椀によそってローテーブルに運べば、かちゃんと鍵を外す音がしてドアが開いた。
「おはようございます。と言っても、もう昼ですけどね」
「え?…あ、おはよう、ございます」
ドアから顔を覗かせた佐山さんににこりと笑って声をかければ、彼女は驚いたように目を瞬かせながらぽかんと口を半開きにした。
「へ、」
その表情のまま俺の顔を見つめ、それからローテーブルにある食事を見れば更に目を瞬かせる。そして彼女の腹部からぐうぅという音が鳴った。…腹は空いているみたいだな。
「え、お味噌汁…?これ、どこから…」
「すみません。申し訳ないとは思ったんですけど、冷蔵庫の中を少し見させて頂きました。味噌と、ワカメと卵があったので一晩の宿のお礼にと思いまして」
「えっ、それは全然いいんですけど、うちに味噌なんてありました?!」
いいのかよ。いや良くないだろ。彼女ならキッチンを漁って料理を作ったくらいじゃ何も言わないだろうと思って行動に移した俺も俺だが。
自分で買ったものくらい把握しておけ、と内心で思いながらも口には出さず、笑みを浮かべたまま賞味期限は確認したことを告げる。
呆然としたまま佇む佐山さんはひとまずそのままにして、俺も自分の分をローテーブルへと運ぶ。
「僕もご一緒して宜しいですか?」
「も、もちろんですっ!何も無いと思ってたうちの冷蔵庫からこんな朝食を錬成するなんて…安室さんすごい…」
「さすがに弱ったお体にインスタント食品はまずいと思いましたので。これしか用意出来ず申し訳ないです」
そんなに驚かれるようなものを作ったつもりは無いのだが。たかだかワカメと卵の味噌汁を作って米を炊いただけだ。けれども彼女にとっては大層なことらしい。
おずおずと佐山さんがローテーブル前に座ったのを見て、俺もその向かいに腰を下ろす。
いただきます、と手を合わせて彼女が味噌汁を口に運ぶのを見つめる。…昨晩出会ったばかりの男が作ったものも物怖じせずに口にするんだなと、なんとなく不思議な気分になる。
「美味しいです…」
「良かった。いきなり勢いよく食べると胃に悪いので、ゆっくり食べてくださいね」
言うと、彼女はこくこくと頷きながらゆっくりと料理を食べ進めていく。
ポアロで働いていても思うことだが、自分の作った料理を美味しいと言いながら食べてもらえるのは悪い気はしない。…口に合ったのなら良かった。
食事を進めながら、ふと顔を上げて佐山さんに視線を向ける。
「佐山さん、昨日はパソコンを貸して下さりありがとうございました」
「あ、いえ、とんでもないです。何かわかりましたか?」
「ええ、まぁいろいろと。それで佐山さん、折り入ってあなたにお願いがあるんです」
お願いと言うと、彼女はさっと表情を強ばらせた。…別に取って食いはしない。そう怯えた表情をしなくても良いだろうと思う。
お願いとはなんてことはない。俺と一緒に霞ヶ関へ行って欲しいということ。霞ヶ関の話は昨日彼女とも警視庁がある場所として話題に出したばかりだ。だからか、佐山さんはやや不思議そうに、いやどちらかと言えば怪訝そうな表情を浮かべている。何か変なことを疑われているのがすぐにわかる。表情に全て出るタイプだなと思いながら思わず苦笑した。
「警視庁に用があるのは本当ですが、後ろめたいことは何もありませんよ。知り合いが警視庁で働いているはずなので、それを確かめたいんです」
「…えっと…安室さんのお知り合いが警視庁で働いていて…つまりは、その人に会いに行くってことですか?」
「まぁ、そういうことになります。…会えれば、の話ですが」
風見裕也。部下でもある彼に連絡が取れればとは思うが、まぁそう上手くはいかないだろうとも思っている。
けれども可能性がほんの少しでもあるのならば、今の自分はそれに縋る他ない。
「わかりました、お供します。そうと決まれば、まずは安室さんのお洋服を用意しないとですね」
確かに自分の所持している服といえば、ここに来た時に来ていたスーツしかない。あれは爆発に巻き込まれた際ボロボロになってしまっていて、あれを着て外を出歩くのは正直避けたいところである。その為、佐山さんの言葉は有難かった。
近くに衣料品も売ってるスーパーがあるとのことだったので俺も同行すると言ったのだが、警戒心の低い彼女は家で待っててくださいなんてとんでもないことを言う。
彼女が外出中、俺が家の中を荒らし回ったらどうするつもりだ。通帳なんかを盗まれるかもしれないだとか、そういうことを考えないのか。
もっと警戒心を持つように言うと、佐山さんはやや反省したように頷いて俯いてしまった。
…警戒心を持って欲しいが別に凹ませたいわけではない。思わず小さな溜息が零れた。
「僕を信頼してくださるのは嬉しいです。でも、昨日出会ったばかりの人間を家に一人残して出かけるなんてあまりに軽率すぎます。…なんて、あなたの厚意に甘えさせて頂いてる身では説得力もありませんが」
そう、なんの説得力もない。俺が彼女の厚意に甘え、手を貸してもらっているのは事実なのだ。
説教をするつもりはない。ただ、少しばかり心配なだけで。
佐山さんは俺の言葉に顔を上げる。…なんというか、放っておけないと思ってしまうのは彼女の人の良さの為せる技か。
「さぁ、食べてしまいましょう。外の雪も少し溶け始めていますよ」
雪は止み、空は晴天。今日は気温も少し上がるだろう。
***
食事を終えた後、佐山さんと一緒に近くのスーパーまで買い物に行った。俺の着替えと簡単なアメニティ類を揃える為だ。その際にわかったことだが、現金は問題なく使える。現金だけでも使えるとわかったのは収穫だ。
とはいえ、そんな大きな額を持っていた訳では無い。あっという間に底をつくだろう。佐山さんにATMを勧められたが、俺の所持していたキャッシュカードやクレジットカードの会社はここには存在していない。引き出すことは不可能だと考えるのが普通である。
キャッシュカードは使えないと伝えると佐山さんは不思議そうな顔をしていたが、今すぐは俺も上手く説明できる気がしない。もう少し自分の中でも納得できるだけの時間が欲しい。彼女には、夜にでも説明しようと考えた。
それから一度家に戻り、着替えてから霞ヶ関へ向かった。その道中で自分のスマホの操作を試みたが、相変わらず表示されるのは圏外の文字。
彼女にスマホを借りて風見の番号にコールしてみるも、コールするなりすぐに「この番号は現在使われておりません」という無情なアナウンスが流れる。スマホは、すぐに履歴を消して彼女へと返した。
「繋がらないんですか…?」
「むしろ、繋がったらおかしいのかもしれません。けれど、どうしても可能性を捨てたくはなかった」
そう。可能性があるならば、それに縋り付くしかない。どんなに小さな可能性だろうと、捨てることは出来ない。捨てたくはなかった。
彼女を地下鉄の入口に待たせて警視庁に向かったものの、収穫は得られなかった。
あの警視庁に、風見裕也という人間はいない。いや、この日本には、俺の知る人物は存在していない。また可能性が消えた。
ひとつひとつ可能性が打ち砕かれていく度に、自分がどこに立っているのがわからなくなるような感覚を覚える。
ここも恐らく、日本には変わりないのだろう。けれどここは、この日本は…どこか俺によそよそしかった。薄い壁を一枚隔てているかのような、知っているのにまるで知らない景色で。
ここはどこで、俺はどうすれば自分のいた、自分の愛する日本へと帰れるのか。
「佐山さん」
警視庁から彼女が待つ場所へと戻ると、彼女は少し俯いてぼうっとしていた。声をかけるとぱっと顔を上げてこちらを向くものの、心ここに在らずといった様子に目を細める。
「寒かったでしょう。お待たせしてしまってすみません」
「おかえりなさい。私なら大丈夫ですよ。あの、それより…お知り合いの方には会えました…?」
思わず苦笑が浮かぶ。それだけで彼女は察したようで、眉を下げて俺以上に困ったような表情を浮かべた。
きっと心から俺のことを心配してくれているのだろう。他人でしかない俺の心に寄り添い、一緒に考えようとしてくれるその姿勢にほんの少し心が軽くなるような気がした。
「…いろいろお話ししなければなりません。あなたにお願いしなければならないことも増えました。とりあえず、佐山さんの家に戻りませんか?可能ならば、スーパーで買い物をしてから」
「え、買い物ですか?まだ何か足りないものありました?」
「いえ、そうではなく。…佐山さんの家の冷蔵庫、ほとんど空っぽでしょう?インスタント食品やカップ麺ばかりでは体に悪い。僕が作りますから、食料を買って帰りませんか」
元の世界に帰るためには足掛かりが必要だ。俺はこの世界で生きるのにあまりにも無力である。今の俺に頼れるのは、目の前にいる彼女だけなのだ。
交渉材料は多い方がいい。料理が出来るという部分で押していけば、料理が苦手な彼女としては揺らぐだろうと思いながらそう告げたのだが…彼女は何やら申し訳なさそうな表情を浮かべ、俯いてしまった。
「…すみません…ほんと私、料理苦手で…。お味噌汁作ったり卵焼いたり、それくらいは出来るんですけど…凝ったものは作れないし時間が勿体なくて。…でも、インスタント食品やカップ麺をお客様に出す訳にはいかないですよね。ごめんなさい」
一体何の話をしているのかと目を瞬かせる。
俯いたまま言い訳のように言葉を並べる彼女は、酷く脆く見えた。少しでも押したら壊れてしまいそうな、そんな危うさまで纏っているように感じる。
違う。俺は、彼女にそんな顔をして欲しい訳では無い。
「佐山さん、勘違いをしていませんか?」
俯いた彼女にかけた声は、自分でも驚く程に柔らかかった。
「…見ず知らずの僕に声をかけて、家に呼んでくれた。その優しさに、あなたに。僕は感謝しているんです」
最初はなんて警戒心のない女なのだろうと疑いばかりを抱いていた。蓋を開けてみたらなんてことはない、ただただお人好しの女性だっただけだ。半ばお人好しすぎ故の警戒心のなさに心配にはなるものの、俺にとっては幸運だったとしか思えない。
彼女がいなければ…どうだっただろう。あんなボロボロのスーツ姿では不審者扱いされるのも時間の問題だっただろうし…そうなっても切り抜けられただろうとは思うが、ならばその先は?情報を集める前に身動き出来なくなっていたのではないだろうか。
「…後で詳しく話しますが、あなたに出会えたのは幸運だったと思います」
そう、幸運だ。
不幸中の幸いとは、こういうことを言うのだと思う。
未だ不安そうな表情のままの彼女に、眦を下げて微笑む。あなたによって救われている人間がいるのだと、気付いてほしい。
「佐山さん、料理が苦手だっていいじゃないですか。苦手なことがあって悪いなんてことはありませんよ」
人には得手不得手というものがある。彼女は自分のことを過小評価し過ぎだ。
苦手なことがあるから悪いだなんてことは絶対にない。
「帰りましょう。夕食は、あなたの好きなものをご馳走させてください」
佐山さんに笑って欲しいと思う。
佐山さんは俺の言葉に少しだけ沈黙すると、視線を下げてぽつりと呟いた。
「………オムライスが食べたいです」
デミグラスソースのかかったやつ。
小さな呟きに目を瞬かせる。何故だかわからないが、ほんの少しだけ甘えてもらえたことに…胸が温かくなったような気がしたのだ。
(本編 #3〜#4)
Back Next
戻る