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翌日、私は安室さんの布団だけ干すと子供達との約束の時間に間に合うように家を出た。
車じゃないから少し行くのは不便だったけど、東都水族館の最寄り駅から施設のマイクロバスがあるとのことだったので問題は無い。
天気は晴れ。過ごしやすい気候だし、よく晴れたいい天気でよかった。きっと子供達も喜ぶだろう。

安室さんからの連絡は未だに無い。まだ忙しいのかな、スマホを見る余裕もないのかもしれないと思いながらもやっぱり少し不安になる。
昨晩の大規模停電に関しても、詳しい原因はまだ発表されていない。ネットに流れた動画から、首都高の湾岸線で事故があっただとか、高速道路下の工場が爆発したとか、いろんな臆測が飛び交っているけれどどれも定かではない。
今朝の時点で電気は復旧していたから問題は無いものの、はっきりとした情報が流れてこないのはやっぱり不安になるな。

東都水族館の入口に着いて、時計を見れば待ち合わせの時間の少し前だった。向こうは車だし到着時間も前後するかもしれないと思いながら、とりあえずコナンくんに到着したことをメールする。するとすぐに「もう着くから少し待ってて」と返事が返ってきた。
さて、もう着くらしいから少しこの近くを散歩していようかな、と思いながらのんびりと歩き出す。やっぱりリニューアルオープン初日だけあって人が多い。これは水族館の混雑も凄いだろうな。

「…、あれ」

ふと、視線が吸い寄せられる。
人が行き交う道の端にある、ベンチ。そこに腰を下ろした一人の女性の姿に。
すらりと長い手足、透き通るような綺麗なシルバーの髪。とても綺麗な人なのに、顔は汚れていて、体のあちこちに傷がある。どう見ても水族館に遊びに来た、という風貌ではない。
ぼんやりとどこか遠くを見つめている瞳に違和感を覚えた。あれ、何だろう。

「……こんにちは、」

なんとなく、私はその女性に歩み寄って声を掛けていた。女性は私の声で初めて目の前に立つ私に気付いたかのように、ゆるゆると視線をこちらに向ける。それだけだった。もしかしたら外人さん?言葉がわからないのかもしれない。でも、それで遠目から彼女の瞳を見た時の違和感を理解する。
左右で瞳の色が違うオッドアイ。オッドアイなんて初めて見た。噂に聞いたことはあったけどすごく珍しいって聞く。本当にいるんだ、すごく綺麗。
少し汚れた彼女の姿を見ながら、何だかすごくデジャヴを感じていた。それは安室さんが私の世界に来た時であったり、私がこの世界に来た時のことだ。彼女はまるで爆発にでも巻き込まれたかのような怪我をしていて、それでいてぼんやりとしている。あと、なんだろう…火薬?なんていうか不思議な匂いがする。
まさかとは、思うんだけど。彼女も私と同じように、別の世界から飛ばされてきた…なんてことは、ないだろうか?

「ミナさん!」

彼女にもう一度声をかけようとしたところで、背後から飛んできた声に振り向いた。
コナンくんと哀ちゃんがこちらに歩み寄ってくる。あれ、他の子達や博士は一緒じゃないんだろうか。

「おはよう。コナンくん、哀ちゃん」
「おはよう。…ミナさん、この人は?」

まぁ、真っ先に疑問には思うよな。私は女性をちらりと見てから、コナンくん達に再び顔を向けて緩く首を振った。

「…わからない。ここに座ってたんだけど、なんだかぼんやりしてるみたいで」
「…ねぇねぇ、大丈夫?お姉さん。顔、汚れてるよ?」

コナンくんが声をかけると、女性の視線がゆっくりとコナンくんに移る。それから目を瞬かせて、指摘されたまま手を自分の頬に当てた。よかった、言葉はわかるみたいだ。

「お姉さんの目、左右で色が違うんだね。…どうしたの?こんなところに一人で。お友達もいないみたいだし…」

怪我もしている。足と、手に。
ベンチに力なく置かれた彼女の手元には、無残にも壊れたスマートフォンがあった。すごいヒビの入り方だ。普通に落としただけではこんな壊れ方はしないだろう。

「これ、ちょっと見せて?」
「…え、えぇ…」
「…お姉さんは、いつからここにいるの?」

コナンくんが女性のスマホを手に取り、哀ちゃんが問いを重ねる。女性は哀ちゃんの問いかけに口元に手を当てると、少し考え込んだ。
やっぱりぼんやりしてる。時間の感覚もわからなくなっているのかも。

「じゃあ…お姉さんは、どこから来たんですか?」

私が尋ねると、女性は私に視線を移してから緩く首を横に振る。

「わからない」

その一言に、思わずコナンくん達と顔を見合わせた。
コナンくんの目が細まり、再び女性を見上げる。

「…お姉さん、名前は?」
「……名前……、…ごめんなさい、わからない」

いつからここにいたのかも、どこから来たのかも、自分の名前さえわからない。哀ちゃんが女性の頭の傷を確認しているが、これってもしかしなくても。

「記憶喪失…?」
「大した傷ではないけど最近のものね」
「多分車に乗ってて事故に遭い、頭を怪我した」
「待ってどうしてそんなことがわかるのあなた達」

え、いや、コナンくんも哀ちゃんも小学一年生、だよね。頭の傷を改めたり、車で事故に遭っただなんてどうしてわかるのだろう。さすがに子供らしからぬ発言すぎて開いた口が塞がらない。
するとコナンくんは少し慌てたように表情を引き攣らせて笑った。

「こ、このスマートフォンが完全に壊れるほどの衝撃を受けてるし、これ車のフロントガラスの破片だなと思って…。きっと運転中に頭をぶつけたんだ」

コナンくんが小さな破片を見せてくる。…確かに分厚いガラスのように見えるけど、どうしてこれが車のフロントガラスだなんてわかるんだろう。コナンくんの方が頭は良いと思ってはいたけど、ずば抜け過ぎた洞察力に目眩すら感じる。スーパー小学生過ぎやしないか。

「それに、お姉さんから微かにガソリンの匂いがする」

そう言われて、あぁ、と思った。不思議な匂いの正体はガソリンか。火薬のような何かが燃えた後のような、何の匂いだろうと思ったけど確かにこれはガソリンの匂いだ。

「…じゃあ、爆発に巻き込まれたとか…そういうわけじゃないんだね」
「爆発に巻き込まれてるとしたらもうちょっと焦げ跡のようなものが残ってると思う。爆発に巻き込まれたにしては身形が綺麗だよ」

…確かに。安室さんも私も、ボロボロだったもんな。
じゃあ交通事故…昨日の首都高でのトラブルに巻き込まれたとか、有り得るかもしれない。

「お姉さん、他に何か持ってない?」

女性はコナンくんの言葉に服のポケットを漁り、不思議そうな表情で何かを取り出した。手のひらサイズの…なんだ、これ。単語帳?

「…カードに半透明の色が着いてる」

カラーフィルム、のようなもの。カラーフィルムよりはもっとしっかりしたプラスチックのカードのようだけど、こんなもの何に使うんだろう。
コナンくんと哀ちゃんと、三人で考え込んだ時だった。

「おーい!!コナン!灰原!」
「あ!ミナお姉さんもいる!皆の分のチケット買ってきたよぉ!」
「早く乗りに行きましょうよー!」

元太くん、歩美ちゃん、光彦くんだ。その後ろから阿笠博士も走ってくる。…思っていた通り、子供達の引率は大変そうだ。来てよかった。

「おはよう、皆」
「あれ、誰ですか?その女の人」
「わぁ、お姉さんの目、右と左で色が違う!キレー!」
「偽物の目入れてんのか?!」
「違いますよ元太くん!お姉さんはオッドアイだと思います!」

子供達の興味はあっという間に謎のお姉さんへと移っていく。まぁ無理もないよね、こんな美人のお姉さんだし、謎の人だし。
子供達はオッドアイだのオットセイだのと声を上げている。子供らしい会話を聞きながらふと女性と目が合って…二人して、思わずくすりと笑った。

「ふふ、ごめんなさい」
「皆変なの」
「お姉さんとミナお姉さんに笑われちゃったね」

歩美ちゃんの言葉に穏やかな気持ちになる。どう見てもこの女性は普通ではないけど…どこかぼんやりとしていたから、少しでも心穏やかになれればいいと思う。
それはそうと。

「おはようございます、阿笠博士。今日はよろしくお願いします」
「あぁ、ミナくん。こちらこそ今日はよろしく。…ところで、君達はこんなところで何をしとるんじゃ?」

阿笠博士に、この女性が記憶喪失であることを説明する。状況からして昨晩の首都高での事故に関係が可能性があるということも。

「それじゃ、すぐに警察に…」
「やめて!!」

阿笠博士の言葉を、女性が鋭い声で遮る。血相を変えて大きな声を出すから、通行人も何人か立ち止まってこちらを見つめていた。
…警察に、行けない理由でもあるのだろうか。
なんとなく、初めて安室さんと出会った時の…救急車を拒否された時のことを思い出す。…何か深い理由があるのかもしれない。

「警察に行けないわけでもあるんですか…?」
「わからない、」

記憶はないけど、それでも咄嗟に拒否をする理由がある。けれど、記憶が無いのなら尚更保護をしてもらった方が良い。
そう考えていたら、コナンくんが突然女性のことをスマホのカメラで撮影し始めた。光るフラッシュに、女性が怯えたような顔をする。
いきなりカメラを人に向けるのは失礼に当たる。私は慌ててコナンくんを止めに入った。

「ちょ、こ、コナンくん。いきなり写真を撮るのは失礼だよ…!」
「大丈夫。お姉さん、警察には通報しないよ。お姉さんの知り合いを探すために、写真が必要だったんだ」

…知り合いを、探す?コナンくんの言葉に目を瞬かせる。

「私の、知り合い?」
「うん。記憶を取り戻す手伝いをさせてよ」
「マジかよコナン!!」
「私達も手伝わせて!!」

こんな案件、少年探偵団の子達が放っておくわけがないよね。コナンくんは少しうんざりしたような顔をしていたけど、元太くんや光彦くん、歩美ちゃんの前でこんな話をしたのだからこうなることは予測出来ていたはずだ。

「私達がお姉さんのお友達を探して、それで記憶を取り戻してあげる!」
「大船に乗ったつもりでいてください!」
「…、ありがとう」

女性は少しだけほっとしたように微笑む。
…記憶が無いなんて、知りもしない世界に放り出されたのと同じだ。きっと、すごく不安だろうな。
私は安室さんやコナンくんと出会えたから不安を感じる時間も少なかったけど、この女性は自分のことさえわからなくなっている。平気でいられるとは思わない。
…私も、力になりたいな。
子供達は、せっかく観覧車のチケットを買ったというのにそれは後回しで女性の記憶探しをすることに決めたらしい。チケット代を払った阿笠博士にとっては理不尽極まりないだろうが…子供とはそういうものだ。さすがに全員分のチケット代は出せないけど、自分のチケット代に少し上乗せしてお返ししておこうと考える。

「阿笠博士、これ私のチケット代です」
「えっ?いや、しかし…」
「大丈夫ですよ。後で皆でご飯する時にでも、良かったら足しにしてください」

微々たる金額で申し訳ないが、無いよりはあった方が良いだろう。多少はマシのはずだ。
阿笠博士は少しまだ迷うように私の差し出したお札を見つめていたが、やがて息を吐くと小さく笑って受け取ってくれた。
子供達は女性の手を引いてさっさと走り出してしまっている。…さすがに記憶喪失の女性と子供達だけでは心配だな。私も後を追おう。

「コナンくん、哀ちゃん、私あの子達心配だからついてくね」
「あっ、うん。ありがとう」
「よろしくね」

コナンくんと哀ちゃんに一言告げてから私は子供達の後を追ってゆっくりと走り出す。
多分だけど…コナンくんなら、先程撮っていた写真も上手く使ってくれるんだろう。
追ってくる私に気付いた元太くんが大きく手を振ってくれているのを見て、私は走るスピードを少しだけ上げた。



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