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「ミナさん」

安室さんの声がしてゆっくりと目を開ける。長い間目を閉じていたような気がしたが、実際には数秒のことだった。無事にどこかに着地したようで、落下しているような浮遊感はない。見ると、下の足場に上手く着地したようだった。
自分で思っていたよりも強く安室さんにしがみついていたようで、慌てて体を離す。

「す、すみませんっ!」
「いえ。今の着地で怪我はないですね?」

安室さんも私もあちこち傷だらけだ。それを分かっているから「今の着地で」という言い方をしたのだろう。
私はこくりと頷いた。上の崩れた足場よりもここはまだしっかりしている。だが、未だ大きな音と揺れは続いている。
一体何が、と思いながら安室さんと一緒に顔を上げ、息を飲む。

「観覧車が…!」
「車軸が破壊されたのか!!」

金属が軋む耳障りな音が響く中、二輪観覧車の片側が車軸から外れてゆっくりと転がり出す。視界が拓けて、月明かりが私達を照らす。少しずつ車輪が遠ざかっていく。車輪の転がる先には、水族館がある。あそこにはたくさんの人がいるだろう。このまま車輪が転がってしまったら…転がってしまったら?
どくりと心臓が音を立てる。こっち側の車輪は、まさか。
哀ちゃんと子供達が上手く合流して逃げられているならいい。けれどあの銃撃の中、果たして逃げられるような状況だっただろうか?お姉さんが上手くあの子達を逃がしてくれた?どう考えてもそうは思えなかった。
絶望する。

「だめ、」
「ミナさん?」
「だめ、だめ!!あの観覧車のゴンドラには子供達が!!」

元太くん、光彦くん、歩美ちゃん、…哀ちゃん。
転がる観覧車のゴンドラの中に、子供達の姿が見えたような気がした。見えるはずがない。でも、あの子達はきっとまだゴンドラの中だ。根拠なんて何も無いのに、不思議とそれは確信として私の中にあった。
私が助かったって、あの子達の身に何かあったら私はきっと生きていられない。あの子達の十字架なんて私には重すぎる。死にに来たのではない、私はあの子達と生きて帰るために来たのに。
蘭ちゃんや園子ちゃんだってこのまま無事でいられるかなんてわからない。停電した施設の中、水族館に避難してる可能性だって充分にある。
元太くんがエスカレーターから落下した時も、哀ちゃんが手摺から足を滑らせて落ちかけた時も、私には何も出来やしなかった。何も出来ずにただ見ていただけだった。
そんな自分は嫌なのに、どうして私には何も出来ないのか。

「元太くん!光彦くん!歩美ちゃん!哀ちゃん!!」
「ミナさん駄目です!ここから動かないで!まだ危険なんです!!」
「だってあの子達が残ってる!!私はあの子達を助けに来たんです!!死なせる為に来たんじゃない!!」

何も出来ないのはわかってるのにじっとなんてしていられなかった。走り出そうとして、強く安室さんに抱きとめられる。
こんな壊れかけの、何の役にも立たないガラクタの両手なんていらないから、だから。
手を伸ばしても届かない。涙で視界が歪む。
どうして私が泣くの。泣いたって何にもならないのはわかってるでしょう。泣いたら許されるとでも思ってるの?泣いてどうするというの。
…どうして泣くの。それはもう、諦めているということだ。

「あの子達を助けて…!!」

酷い声で叫ぶ。
諦めたくないの。でも私に何が出来るかなんてわからないの。泣いてばかりいる情けない自分に反吐が出る。
どうか何も出来ないこのガラクタを、壊して欲しい。

観覧車が坂で加速する。
絶望は純黒の色をしていた。
お願いだから、悪夢なら覚めて。

私と安室さんの横をすり抜ける、小さな影があった。
コナンくん。彼の手からは何か紐のようなものが伸びていて、それは私達が今いる残った観覧車の車軸へと繋がれているようだった。
彼は一体何を。

「ミナさん、あなたはここを動かないで」

安室さんの声に顔を上げる。安室さんは私の両肩を掴んで目を合わせると、はっきりと言った。

「あの子を信じて。大丈夫、必ず助けます」

言うなり、安室さんはコナンくんを追って駆け出した。
…安室さんの言ったあの子とは、コナンくんのことだ。でも、必ず助ける…とは。
私のことではない。言葉の流れからいって、恐らくコナンくん自身のことでもない。必ず助ける…何を。

「…あの子達、を、」

すっかり遠くなった安室さんとコナンくんの背中を見つめながら、私はその場に力なく座り込んでいた。
コナンくんを信じて。大丈夫、コナンくんは…必ず、あの子達を助けます。
安室さんの言葉の意味を理解して、溢れる涙が止まらない。

「まだ、諦めていない」

どうして、諦めずにいられるのか。
だって、こんな巨大観覧車が外れて転がっているのだ。人の力ではどうしようもないだろう。どうやって自分の何十倍、何百倍、いや、何千倍もの力を止めようというのか。

「なんで、諦めずにいられるの」

さっきもそうだった。銃火器を積んだオスプレイを相手に、たった三人でどうして立ち向かえたのだろう。
普通の人なら誰もが絶望するような状況の中、どうして走っていくことが出来るのか。異常とも言える勇気。普通はそれを、無謀と呼ぶのだ。
誰もが膝をつくだろう。誰もがもう駄目だと諦めて、動くことをやめるだろう。走ることを、歩くことをやめるだろう。
けれども、そんな中でも諦めずに動き続ける光がある。
コナンくんも、それを追っていった安室さんも…恐らくは、赤井さんも。あの三人は、諦めたりしない。

コナンくんが繋いでいった紐が、突然凄い力で引っ張られてぴんと張る。…よく見ると紐じゃない。太く平べったい…ベルトのようなもの。
…まさか、この車軸に繋いだこのベルトで、転がった車輪を止めようとしているのか?このベルトが張ったということは、少なくともコナンくんは転がっている車輪に繋げることが出来たということだろう。それでも車輪は止まらない。
ふらり、と立ち上がって、私はゆっくりと歩き始めた。
足場のギリギリのところまで行って立ち止まる。無意識のうちに、両手を胸の前で組んでいた。ぎゅうと手を握り締める。

「…コナンくん、」

私にはどうすることも出来ない。けれど、祈ることは出来る。祈ることしか、出来ない。
皆を助けるには奇跡を起こすしかない。奇跡を起こせるのは、きっとコナンくんしかいない。

「…お願い、」

どうかお願い。あの子達を、ここに遊びに来ている全ての人を、助けて。ほんの子供に託すことしか出来ない私を、どうか許してほしい。

「ミナさん」

声に視線を向ける。どこにいたのか、安室さんがこちらに向かって飛び降りてくるところだった。
綺麗に着地した彼は、私の隣に立ちながら未だ止まらない車輪を見つめる。

「…止まる、でしょうか」
「信じるしかありません。あの小さな探偵を」

声が震える。
安室さんは真っ直ぐに水族館の方へと視線を向けながら、鋭く目を細めている。
私は再び視線を転がる車輪へと向けた。信じるしかない。

「…あれは、」

建設中エリアから、何かが飛び出した。…重機?クレーン車?あんなもの一体誰が運転しているのだろう。
クレーン車は勢いよく観覧車の車輪へとぶつかっていく。…まさか、押し止めようとしているのか?あんな巨大な車輪を、それよりもずっと小さな重機で。

「…諦めてない人が、…他にもいるんだ」

コナンくんや安室さん、赤井さんの他に…そんな勇気を持つ人がいるんだ。
諦めずに強く突き進んでいくことの出来る人。

以前、安室さんに言われたことがあった。ミナさんがなりたいのは、どんな自分ですか?と。
私はそれになんて答えただろう。ふらふら流されるだけじゃなくて、自分の足で歩けるような人になりたい。後ろ向きになりたくない。
手探りでもいいから前に進んでいける強さが欲しい。
強くなりたい。強い人になりたい。
お願い。
ちっぽけな人の力でも、大きな力に対抗できるかもしれない。強く願う。どうか止まって。

「止まって…!!」

瞬間、転がる車輪の下の方で爆発が起こった。それと共に車輪が音を立てながら少しだけ傾き、…そして、やがて沈黙する。固唾を飲んで見守る中、爆発の煙が少しずつ晴れていく。
車輪の動きは、完全に止まっていた。

「……止まった」

遠くから歓声のような声が聞こえる。車輪が止まったことによって助かった人達の喜びの声であることはすぐにわかった。

「……なんて子だ、」

安室さんの小さな呟きに視線を向けると、彼はほんの少しだけ笑みを浮かべていた。風にサラサラの髪が靡いて、柔らかく細められた瞳が見える。

「本当に、この巨大な観覧車を止めるとは」

コナンくんが止めたんだ。あんな小さな子供が。
大人にだって出来ないことをやり遂げて見せたのだ。こんな巨大な観覧車の車輪を止めるなんて誰が想像するだろう。
きっと助かった人達は知らない。誰が止めたかなんて報道すらされないだろう。自然に止まったと考える人がほとんどのはずだ。
それでも、私は知っている。こんな悪夢のような惨事の裏で、それを止めようと諦めずに走った人達がいたことを。実際に、大勢の人の命を助けてくれたということを。

「っ、」

ハッとして私は鞄からスマホを取り出し、哀ちゃんへとコールする。繋がってと祈りながらコール音を聞いていれば、それがぷつりと途切れた。

「っ哀ちゃん?!」
『ミナさん、…その様子だと、無事みたいね』
「私は大丈夫、哀ちゃんは?他のみんなは?お姉さんは?!」
『ミナさん、大丈夫だから落ち着いて』

哀ちゃんの声を聞いたら、安心したからか止まっていた涙が再び溢れ出した。胸の奥が震えている。目の奥が熱くなって、鼻の奥が痛くて、私はみっともなくボロボロと涙を流しながらスマホを握り締めた。

『…子供達は、みんな無事よ。…掠り傷と痣くらいは、残りそうだけど』
「みんな、無事……」

膝から力が抜ける。隣にいた安室さんが抱きとめてくれなかったら、その場に座り込んでしまっていただろう。

「よ、…良かった…う、良かったよぉ…」
『ちょっと、みっともなく泣くのはやめなさい』
「うーっ、だって…!」

ひくりひくりと小さくしゃくり上げていたら、電話の向こうで哀ちゃんが苦笑する気配がした。
子供相手に笑われてしまうなんてと思ったけれど、哀ちゃんが冷静すぎるのだと思うことにした。こういう時の涙は、止めようとしても止まらないものだ。
零れる涙を拭っていると、電話口から優しい声がする。

『…地上で、会いましょう。…みんな、無事でね』
「うん、…ッうん、…後で会おうね、哀ちゃん…!」

通話を切って、スマホのディスプレイに視線を落とした。この施設に来てから、まださほど時間が経っていないことに目を細める。
…一時間にも満たない間に、起こったことだったんだ。もう何時間もここにいるような気がするけれど。
そういえば…哀ちゃん、お姉さんの安否については何も話してくれなかったな。

「ミナさん」

安室さんの声に顔を上げる。安室さんは、私の体を支えたままじっとこちらを見つめていた。

「とりあえず、僕達も地上に戻りましょう。ここも安全とは言えません。いつ倒壊するかわかりませんから」
「そ、そうですよね。ごめんなさい、一人で歩けます」

いつまでも安室さんに寄りかかっている訳にはいかない。慌てて体を離そうとしたのだが、安室さんの腕は私の肩を抱いたまま離してはくれない。
え、と思いながら目を瞬かせると、安室さんはそんな私を見て小さく笑った。

「あなたに、たくさん聞きたいことがあります」
「う、」

これは、怒られるやつだ。私が表情を引き攣らせると、安室さんは更ににこりと笑う。

「あなたがこんな危険なことに首を突っ込むとは思いませんでした。それに、まさか赤井と行動を共にしていたとは」
「う、え、赤井さん…ですか、」
「ええ。とても、詳しくお聞きしたいですね」

安室さん、赤井さんと何かあったんだろうか。ただならぬ空気を感じながら萎縮して身を竦ませると、安室さんは小さく息を吐く。彼がもう一度私を見つめた時には、いつもの安室さんの顔に戻っていた。

「…あなたも僕に聞きたいことがあるでしょう」
「…、…はい」

安室さんこそ、どうしてこんなところにいたのか。
赤井さんのことをFBIと呼んでいたが、彼は一体何者なのか。コナンくんや安室さんは…何者なのか。
話したくないことを聞くつもりは無い。けれど、自分で自分を納得させられるだけの材料くらいは欲しい。

「連絡、返せなくてすみませんでした」
「え?」
「何度か連絡くれたでしょう。立て込んでいて返事出来なかったんです」

申し訳なさそうに視線を落とす安室さんを見て、私は慌てて首を横に振った。
そんなの気にしないで欲しい。安室さんが忙しかったのはわかっていたし、むしろ連絡が邪魔になっていなかったか心配だったくらいだ。

「少し用があるのですぐには帰れませんが…、駐車場で、待っていてください。出来るだけ早く用を済ませて行きますから」
「…それって、」
「一緒に帰りましょう、ミナさん」

先に帰っていろと言われるかと思った。
…一緒に帰れるんだ。安室さんと一緒に、家に帰れるんだ。
嬉しさに胸が熱くなる。私も安室さんも、生きてる。

「…はい、」

私は鼻を啜って、大きく頷いた。

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