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あの後私と安室さんは救助に来たクレーン車で無事地上へと降ろされた。しっかりとした揺れない地面って素晴らしいなと若干感動を覚える。

「ミナさん、怪我は掠り傷と打ち身だけですか?」

安室さんに問われて自分の体を見下ろした。
緊張が解けたせいか身体中軋んで痛み始めてはいたけれど、軽く動かしてみてどこも軽傷であることに頷く。骨折や捻挫のような痛みはない。歩けるし、動かせない部分もない。

「はい、大丈夫です」
「では、手当は帰ってからしましょう。今から病院に行ってやってもらうよりは早いでしょう」

そんな判断勝手にしてしまっても良いのだろうかという気もしたが、安室さんの手当が的確なのはわかっているし私も特に重傷というわけではないから問題ないだろう。安室さんが言うことなら間違いないと思うし。

「駐車場で待っていてください。…万が一遅くなりそうだったらその時は連絡しますので…」
「大丈夫です。…待ってます、ちゃんと」

どんなに遅くなってもいい。安室さんと一緒に帰りたい。ここまで来たのだ。安室さんの用事が長引くからと言って私だけ先に帰るのは嫌だった。
小さく笑いながら待っていることを告げると、安室さんは少し目を瞬かせてから苦笑を浮かべた。

「…わかりました。出来る限り急ぎますから、待っていてください」
「はい」

私が頷くと、安室さんはほんの少しだけ微笑んでから背中を向けて走っていった。それを見送って私も歩き出す。
コナンくんや哀ちゃん、子供達…それから、蘭ちゃんや園子ちゃん達にも会えるだろうか。皆無事だろうか。
そう思いながら駐車場に向かって歩いていると、鞄の中のスマホが震えたのがわかった。取り出してディスプレイを見ると、コナンくんからの着信だ。通話ボタンを押してスマホを耳へと押し当てる。

「もしもし」
『ミナさん?良かった…無事だね?』
「うん、大丈夫。…それよりも、コナンくんは大丈夫なの?」
『平気だよ。…掠り傷くらいは出来たかな』

そう言って笑うコナンくんの声に、心からほっとするのを感じる。巨大観覧車の車輪を止めた後だと言うのに、彼はまだ元気も余っていそうだ。

「赤井さんは?」
『赤井さんも大丈夫。ミナさんによろしくって言ってたよ。あと、蘭姉ちゃんや園子姉ちゃんともさっき連絡が取れた。二人とも無事で、ミナさんのこと心配してたよ』
「蘭ちゃんと園子ちゃんも無事?良かったぁ…落ち着いたら電話しようと思ってたの。…私も二人のこと心配してたから」

聞けば、蘭ちゃんと園子ちゃんはやっぱりあの水族館にいたらしい。あのまま車輪が止まらずに水族館を轢き潰していたらと思うとぞっとする。

『それから、元太達は病院に運ばれたみたいだよ。軽傷だったけど、念の為ってことでね』
「哀ちゃんも?」
『灰原は今ボクと一緒にいるよ。ミナさんに会いたいからって。後で行くと思うから、会ってやって』
「うん。駐車場にいるから会えたら嬉しいって伝えて欲しいな」

コナンくんの言葉に頷く。子供達と会えるのはまた後日になりそうだったが、哀ちゃんに会えるだけでも嬉しい。元気な姿を見せて欲しいと思いながら息を吐いて、それから私はふと顔を上げた。

「……ねぇ、コナンくん」
『なに?』
「私、赤井さんとは初対面だったはずなんだけど…赤井さんは私のことを知ってたみたいなの。なんでかわかる?」

思い返してみても、赤井さんの顔には見覚えがなかったし声にも聞き覚えはなかった。ただ、赤井さんの反応は初対面の女に対するものではなかったし、私も何故だか赤井さんのことを知っているような気がするのだ。
あの瞳を、どこかで見たことがあるような気がするのだが…いくら記憶を遡っても赤井さんの存在は引っ掛からない。
コナンくんなら赤井さんとも知り合いのようだったし何かわかるかと思って聞いてみたのだけど、コナンくんは電話の向こう側で言葉に詰まったようだった。

『ぼ、ボクわからないなぁ…?ミナさんの気のせいじゃない?』
「…そうなのかなぁ」

コナンくんがそう言うなら、そうなのかもしれない。私の気のせいか。またどこかで会えたらいいなと思う。タバコの香りを纏った、綺麗な瞳の人。

「コナンくん、赤井さんに助けてくれてありがとうございましたって伝えておいてほしいな」
『…わかった、ちゃんと伝えておくよ』

そこでコナンくんは一度言葉を切ると、ほんの少しだけ固い声で言った。

『ミナさん、何も聞かないんだね』
「…なんのこと?」
『ボクのこともそうだし…赤井さんや、安室さんのことや、今回の惨事の元凶のこととか』

気になっていないわけではない。ただ、後でその辺の話は安室さんとするだろうからと思っていただけで。
けれど私は、全てを知りたいとは思わない。自分を納得させる材料が欲しいだけだ。話したくないこと、話せないこと、皆それぞれ事情があるだろう。だから私は…必要が無いのなら、知らないままでいい。

「変なコナンくん。その言い方だと、まるで聞いて欲しいみたい」
『そういうわけじゃ、』
「聞いたら話してくれるの?」
『……』
「話せないでしょう。それくらいのことはわかるよ」

きっとコナンくんは、コナンくん自身話せないことが多い。彼や哀ちゃんがただの小学生じゃないことはわかる。かといって、それにどんな意味があるのかまではわからないけれど。

「コナンくんが聞いて欲しいことなら、聞くよ。でも聞かれたくないことなら、無理に聞きたくない」
『…ボクがミナさんに話せることなんてほとんどないよ』
「だろうね」
『でもボクはミナさんのことを知りたいと思う』

はっきり言うなぁ。好奇心というか、知りたいと思っていることを隠しもしない。それでいて真剣なんだから適当にいなすわけにもいかない。

「私に答えられることならね」
『…そう、わかった。じゃあ、今度ゆっくり話を聞かせて。電話で話すことでもないだろうし』
「それもそうだね」

コナンくんと電話しながら歩いていたら、気付けば駐車場の近くまでやってきていた。顔を上げるとベンチが目に入る。
あのベンチは。
思わず立ち止まって、ぼんやりとそのベンチを見つめた。今は誰も座っていない。暗がりの中にひっそりとあるベンチに目を細めて、ゆっくりと息を吐いた。
あのベンチは…昨日、お姉さんが座っていたベンチだ。
車の事故にあったのかボロボロの姿だったお姉さんが、あのベンチに座ったまま…ぼんやりと、どこか遠くを見つめていた。
綺麗な人だと思った。身長が高くてすらりとスタイルが良くて、そしてとても美しい人。

『ミナさん?』
「…なんでもない。そろそろ切るね、駐車場に着いたから」
『…わかった。灰原が今そっちに向かったよ』
「本当?会えるの嬉しいな。待ってみるね」

ゆっくり足を進めて、お姉さんが座っていた場所にそっと腰を下ろす。
ここから、たくさんの人が流れていくのを見つめる。…これだけの人を、コナンくんは守ったんだ。
すごいな、と目を細めた。

「コナンくん」
『なに?』
「隠し事なんて、誰もが抱えてるものだよ。それを知ってても知らなくても、私にはあんまり関係ないの」

自分の目で見ているものを信じればいいだけだ。知らなければ何も変わらないかもしれない。知ることで何かが変わるかもしれない。でも、私は今が心地いい。

「私が君の隠し事を知ってても知らなくても、君が江戸川コナンであることに変わりはないでしょう」
『…それは、』
「私を、子供達を…ここに来ていたたくさんの人達を、君は守ったんだよ。君は、私にとってヒーローだもん」

顔を上げると、少し離れたところから哀ちゃんが走ってくるのが見えた。思っていたよりも早かったなと目を細め、私は小さく笑う。

「…君は無謀を奇跡に変えた。たくさんの勇気をくれたと思う。…助けてくれてありがとう、コナンくん」

諦めない強さを教えて貰った。なりたい自分になる為にはどうすればいいか。諦めずに真っ直ぐに走り続けたコナンくんや赤井さん、安室さんの背中を、私はきっと一生忘れないだろう。


***


「ミナさん」
「哀ちゃん」

コナンくんとの通話を切っていたら、目の前まで来ていた哀ちゃんに声をかけられた。スマホを鞄に仕舞って、改めて哀ちゃんに向き直る。あちこち汚れて軽く擦りむいたりはしているようだが、大きな怪我はしていないようだ。でもバイ菌が入ったら大変だから、出来るだけ早く手当して欲しいななんて考える。

「…無事で良かった、」

手を伸ばして哀ちゃんの体をそっと抱きしめる。小さな体は温かくて、確かな鼓動の音がする。ちゃんも生きてる。良かった、目の奥が熱くなった。

「…あなたもよ、ミナさん」

少しだけ体を離して哀ちゃんと目を合わせると、彼女はほんのちょっとだけ困ったように微笑んで私の頬に触れた。

「あなたが無事で良かった」

互いにボロボロで傷だらけだけど、無事であることに変わりはない。生きているんだ。今はそれ以上に望むことなんてない。

「コナンくんから聞いたけど…元太くんや光彦くんや歩美ちゃんは大丈夫?」
「ええ。皆大した怪我はしてないわ。ピンピンしてるわよ」
「そっか…良かった。次に会う時には元気な姿が見られるね」

あの子達の笑顔が見たいと思った。そのためには、私もちゃんと元気に出迎えられるようにならないとと思う。
私は一度ゆっくりと深呼吸をしてから、哀ちゃんを真っ直ぐに見つめる。

「哀ちゃん、…お姉さんは?」

私が問うと、哀ちゃんは一瞬だけ泣きそうに表情を歪めた。揺らいだ彼女の瞳を、見逃しはしなかった。

「…わからないわ、走って逃げている間にはぐれてしまったから。…でもきっと、…無事よ。…大丈夫」

優しい子だなぁ、哀ちゃん。
私はぎゅっと唇を噛み締めてから…笑みを浮かべる。

「…そっかぁ、…良かった。……きっとまた、いつか、会えるよね」

私がなりたい自分とは。安室さんに問われた時に答えた言葉を思い出す。
悲しいことがあっても辛いことがあっても、いつでも笑っていられるような…そういう人になりたい。強くなりたい。
だから私は精一杯笑って見せる。強くある為に。


「ミナさん、」

安室さんの声に顔を上げた。こちらに歩み寄ってくる姿を見て、予想していたよりも早かったなと思う。

「安室さん。お疲れ様です」
「お待たせしました。…おや、」

私の目の前にいる哀ちゃんを見て、安室さんが足を止める。哀ちゃんはちらりとだけ安室さんを見たけれど、彼と正面から向き合うことはしなかった。

「…それじゃ、ミナさん。私行くわ」
「あ、うん。…怪我の手当ちゃんとしてね。ゆっくり休むんだよ」
「ええ。…ミナさんもね」

言うと、哀ちゃんはそのまま走っていってしまった。
…事情はわからないけど…安室さんを避けているように見えた。何か理由があるんだろう。私には知る必要は無いことだ。
哀ちゃんの姿は、やがて人波と暗がりに紛れて見えなくなった。

「…それじゃ、僕達も行きましょうか」

ゆっくりと視線を安室さんに向ける。
柔らかく微笑んだ安室さんに手を差し出されて、そっとその手に自分の手を重ねるとぎゅうと握り込まれた。手を引かれて立ち上がり、安室さんと一緒にゆっくりと歩き出す。
…あぁ、生きてるんだなぁ。私も、安室さんも。
繋いだ手の温もりに、ようやく心から安心出来たような気がする。

「…安室さん傷だらけですね」
「ミナさんには言われたくないですよ」

そんなことを言って、二人して顔を見合わせてくすくすと笑った。

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