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東都水族館での惨劇から数日。
私と安室さんの怪我も大分癒えた。私の膝の擦り傷もほとんど治りかけているし、安室さんの側頭部の裂傷も同じくだ。私も病院の先生から回復力が高いと褒められたことがあるが、安室さんにしても相当回復力が高いと思う。
安室さんはしばらくとても忙しそうだったが、それももう落ち着いたようで以前のように朝は一緒に起きて朝食を食べ、帰りも夕方くらいになる生活に戻っていた。
必然的に、安室さんと一緒に過ごす時間が増える。安室さんの家にはテレビがない。つまり、私と安室さんが会話をしていないと…沈黙が続くことになる。
あれ、おかしいな。安室さんと一緒に過ごす時間が私はとても好きで、安心出来る時間だったのに、今は…なんというか、ちょっと身構えてしまうというか、緊張してしまうというか。
安室さんと一緒の空間にいると…その、照れてしまうのである。
なんだかむず痒くなってこそばゆくなって、何を考えれば良いのか何を話せば良いのかわからなくなるのである。
けれども慌てているのは私だけで、安室さんはいつも通りだ。私一人で照れて慌ててなんだかちょっと空振って、そう、いたたまれない。
安室さんに抱きしめられた日のことを何度も思い出してしまう。
以前ベッドで抱き締められて眠った日は、あれは私の為だった。私が傷の痛みで眠れずにいたから、それを慰める為に安室さんが一緒に眠ってくれただけ。けれどもこないだ抱きしめられたのは…あれの意味するところは、なんだったのだろう。
強い力だった。あんなふうにぎゅうと抱き締められたのは祖父母を除いて初めてだった。とてもあたたかくて、ドキドキするのに心地よくて、えぇと、その、多分。
とても、幸せだったんだと、思う。

「ミナさん?」
「ぅわっ、ハイッ」

不意に声をかけられてびくりと身を竦ませた。
目の前に座っていた安室さんが、心配そうにこちらを見つめている。
今は夕食。安室さんお手製の本日のメニューはおろしポン酢の和風ハンバーグ。お味噌汁とほかほかのご飯。非の付け所のない美味しさです。

「何やらぼんやりとしているみたいですが…大丈夫ですか?どこか具合でも悪いんじゃ」
「へっ?!ち、違います!大丈夫です!」
「じゃあ、料理がお口に合わなかったとか」
「天地が引っくり返ってもそんなこと有り得ません…!」

安室さんの料理が口に合わない人類なんてそもそもこの地球上に存在しているのか。今まで様々なメニューを食べさせてもらってきたけれど、不味いだとか口に合わないと思ったものはひとつもない。どれも美味しいものばかりだった。
そうではない。そうではなくて…。
安室さんの目が見れない。見つめ合ったら恥ずかしさで死んでしまう気がする。
私は安室さんの視線を避けるようにお味噌汁の器を持ち直すと口へと運んだ。安室さんがじっとこちらを見ているのがわかる。やめてほしい。

いつも、常にこんな状態になるわけじゃない。今まで通り普通に話が出来る時もある。ただ何かの拍子に抱きしめられたことを思い出してしまうと…もうダメだった。ドキドキと胸が高鳴って、顔が熱くなって、恥ずかしくてたまらなくなってしまう。
これは、多分あまり良くないことだ。
私は、安室さんのことを好きでいられるたけで良い。安室さんからの気持ちは何もいらない。ただ傍にいさせて欲しいと願うだけ。なのに、今の私と来たらどこかで期待してしまっている。安室さんのことを想うだけでは嫌だと、安室さんからの気持ちが欲しいだなんて浅ましいことを考えてしまっている証拠だ。
ダメダメ、と頭を振る。

「ミナさん」
「は、はい」
「僕の方を見てください」
「うぐ」

私が安室さんの目を見ることが出来ないとわかっていてそんなことを言っているのか。勘弁して欲しい。

「ミナさん」
「……はい」

お味噌汁の器をテーブルに置いて、おず、と顔を上げると。
じっとこちらを見つめる安室さんと目が合って思わずすぐに顔を背けた。やめてほしい。眼力がすごい。

「ミナさん、最近僕の目を見てくれることが減りましたよね」
「そ、…うでしょうか」

気のせいなんじゃ、と言いながら小さく笑うものの、視線は相変わらず泳いだままである。説得力の欠片もない。いくらなんでもあからさますぎる。酷い。

「僕、何かしましたか」

安室さんの声がほんの少しだけ小さくなった。
気を遣わせてしまっている。安室さんは今までと同じでいてくれているのに、私がこれじゃなんの意味もない。
慌てて顔を上げて首を横に振る。

「ち、違うんです」
「僕が何かあなたの気に障ることをしてしまったのなら謝ります。…その、先日東都水族館の一件以降あなたの態度が変わったように思えたので」

そんなところまでバレてしまっていただなんて思わなかった。思わず頭を抱える。

「違います…違うんです、大丈夫です。…だからどうか安室さんは今まで通りでお願いします…」

穴があったら入りたい。
どうしよう。安室さんの顔を見るのに目が見れず、安室さんと話をするのに緊張してしまったり、夜寝る時も心臓が口から飛び出しそうだったりと問題が起こってはいるが、安室さんを悲しませてしまうのは何よりもっとダメだ。
安室さんのことが嫌なんじゃない。そうじゃなくてむしろ、

「ミナさん、」
「っわぁあんこっち見ないでください!!」

ちらりと視線を向けたら変わらずこちらを真っ直ぐに見ているものだから思わず声を上げる。
落ち着いてご飯すら食べられない。考えれば考えるほどドツボにはまってしまっている気がするし、顔は熱くなって心臓はドキドキしてなんかもう落ち着いていられない。
今の私って、ものすごく、ものすごくみっともないんじゃないのか。
どうしよう。安室さんが好きだという気持ちが、溢れて止まらない。うっかり口にしてしまいそうな勢いで困惑する。口にしたところでフラれるのが目に見えているし、今後気まずくなるだけだから絶対に口には出来ないけど。

「ミナさん」

顔を両手で押さえて俯いていれば、安室さんの声がすぐ側から聞こえてきてびくりと肩を竦ませる。
そっと手首を掴まれて変な声が出た。

「だ、だ!ダメです!私今変な顔してるので見ないでください、ごめんなさい少ししたら落ち着くので!」
「この際きちんと話をしましょう、ろくにご飯も食べられないでしょう」

椅子に座ったままの私と、床にしゃがみこんで私の手を掴んでいる安室さん。どういう図だ、これは。
安室さんの力で顔を覆っていた手は剥がされて、私の手は安室さんの両手に包まれている。安室さんの手に触れられた部分が酷く熱い。

「ミナさん、僕に触れられるのは嫌ですか」
「えっ?」

思ってもみなかった問いにきょとんと目を瞬かせる。安室さんは真剣に私を見上げていて、いつもと違う目線がすごく新鮮だ。

「もし嫌なら…先日は、突然抱き締めてしまってすみませんでした」
「えっ?ちが、違います!別に嫌なんかじゃなくて…!」
「けれど、あの日からでしょう。あなたが僕の前でリラックスしてくれなくなったのは」

ああぁ、誤解させてしまう。そうじゃない。

「違うんです!リラックス出来ないというか、いや、そうなんですけど、でもそうじゃなくて…」
「あなたの警戒心が強くなったのはある意味喜ばしいことですが、あの日の軽率な僕の行動によってあなたに心苦しい思いをさせているというのなら、」
「安室さん待って、待ってください、違うので!」

このままではダメだ。ちゃんと、話をしなければならない。自分が安室さんのことを好きだということを言わずに、説明できるだけのことをちゃんと話さなければならない。
私はゆっくりと息を吐くと、おずおずと安室さんを見た。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳はすぐにでも逸らしてしまいたい程だったが、奥歯を噛み締めて耐える。

「…あの、…私が安室さんにされて嫌なことなんて、何一つないです。あなたは私の恩人で、救世主で、ヒーローです」
「…そんな手放しで褒められると照れますね」
「……あの、そういうこと言うのやめてください…私まで恥ずかしく…」

頬がまた熱くなるのを感じて俯いた。今のは私は悪くないと思う。

「…その、触れられるのも全然嫌じゃないですし、だ、…抱き締められたのも、全然嫌じゃないですし…ただ、」
「ただ?」
「………………は、…恥ずかしくて」

言った!言ってしまった!
安室さんの顔が見れない。呆れられてしまったらどうしよう。手汗とか気持ち悪いとか思われたらどうしよう。繋いだ手が熱い。
そんなことをぐちゃぐちゃと考えていたら、安室さんが小さく息を吐くのに気付いてそっと視線を上げる。

「…良かった。あなたに嫌われていたらどうしようかと思っていたんです」

安室さんが柔らかく微笑んでいた。その表情にまた胸が高鳴る。あぁ、好きだなぁ。気持ちが溢れて止まらない。

「安室さんのことを嫌うなんて万が一にも有り得ません…!」
「僕にはあなたに話せないことが多いので。それがあなたの中でしこりになっていたんじゃないかと心配だったんです」
「…そんなことを、考えていたんですか…?」

私が変な態度をとってしまったから、安室さんにも心配をかけてしまったんだろう。申し訳ないことをしてしまったなと思う。恥ずかしいし緊張もしてしまうけど、安室さんと一緒に過ごすのが嫌なわけでは決してないのだ。

「…ごめんなさい」
「どうして謝るんです?僕は嬉しいですよ」
「え、こんな態度をとってしまっているのにですか」
「むしろいいことを聞きました」

にこり、と笑う安室さんにぱちぱちと目を瞬かせる。
いいこと、とは。

「ミナさん、もう僕のことをお母さんみたいだなんて言わなそうですし」
「へっ」
「お母さん相手に、そんなに恥ずかしくなったりは普通しませんよね」

その言葉に、ぶわわと顔に熱が上がる。耳まで赤くなってしまった気がする。
そんな私を見て安室さんはくすくすと楽しげに笑うと、立ち上がって私の手を離した。それから私の頭を撫でる。

「あなたが望むのならもう少しお母さんでも良いかなと思っていましたが…考えが変わりました」
「え」

ぽかんとしている私をよそに安室さんは自分の席に戻ると、何事も無かったかのように再び残っていた夕食を食べ始める。私だけ置いていかれてる感じがある。一体今私は何を言われたのだろう。

「ほら、ミナさんもご飯食べちゃってください。…それとも温め直します?」
「だ、大丈夫ですっ!いただきます!」

安室さんに問われて慌てて箸を持ち直してハンバーグを口に運ぶ。少し冷めてしまっていたけど、安室さんの料理は冷めたくらいで味が落ちたりはしないのだ。
まだ心臓もドキドキしてるし顔も熱いままだったが、先程のどうしようもない緊張感からは解放されていた。…一気に沸騰してそのまま落ち着いてきたような感覚だ。恥ずかしいけど安室さんの顔を見ることも出来る。

考えが変わったって…どういうことなのだろう。

安室さんの考えていることがよくわからず、私は内心首を傾げていた。

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