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今日は嶺さんに用事があるとのことで、嶺書房も午後三時で閉店。個人経営だからかそういった突然の時間の変動もすごく自由だ。
ぽっかりと午後の時間が空いてしまって、どうしようかと思っていたのだが、そういえば最近ポアロに顔を出していないことに気付く。梓さんにも会ってないし、もしかしたらタイミングがよければ誰かお友達にも会えるかもしれないと思い、私は久し振りにポアロへと足を向けていた。
窓の外から中を覗いて見たら少年探偵団の子供達の姿が見えたので、迷いなくドアを開けて中へと入る。

「いらっしゃいませ…あ、ミナさん!」
「こんにちは」
「お久し振りです!なかなかいらっしゃらないから心配してたんですよ」
「あはは、すみません。しばらく来てなかったのでポアロの味が恋しくなっちゃいました」

出迎えてくれたのは梓さん。安室さんの姿もあるが、今は別のお客さんの接客中。お昼時の時間も過ぎて店内は落ち着いているが、ちらほらと若い女の子の姿が見える。…安室さん目当てかな。

「ミナお姉さん!」
「皆こんにちは、ちょっと久し振りだね」

私に気付いた子供達が振り向いてくれる。ソファー側に座っていた歩美ちゃんが少し詰めて私の座るスペースを作ってくれたので、それに甘えて隣に腰を下ろした。
哀ちゃんの姿はないが、哀ちゃんを除く四人の子供たちが揃っていた。

「ミナ姉ちゃん、東都水族館で会ったっきりだろ!」
「そうですよ!僕達大変だったんですから!」
「うん、哀ちゃんから話は聞いてる。でも皆軽傷だったんでしょ?運が強いというか…神様が守ってくれたのかな」

元太くんや光彦くんも元気そうだ。本当に軽傷だったようで、あれから数日経っているとはいえあの事件現場にいたとは思えない程にいつも通りだ。
子供の回復力ってすごい。あんな大惨事だったけど特にトラウマになっている様子もない。

「ミナさん、いらっしゃいませ。今日はお仕事は早上がりですか?」

安室さんがメニューとお冷を運んできてくれる。毎日家で顔を合わせているけれど、働いている安室さんとポアロで会うのは何度繰り返しても新鮮だ。

「はい。用事があるって、マスターが午後三時でお店を閉めたんです。時間空いたので来ちゃいました」
「そうだったんですか。どうぞゆっくりして行ってくださいね。ポアロにいらっしゃるの久し振りでしょう」
「ポアロのカフェラテが恋しくなったんです。そんなわけでホットのカフェラテをひとつお願いします」
「かしこまりました」

ふわりと柔らかく微笑まれてどきりと胸が弾む。
…照れて恥ずかしくなってしまうのは、家の中でも外でも変わらない。イケメンの破壊力は恐ろしい。
私と安室さんのやり取りを見ていたコナンくんがやや半目気味になる。そのままそっと私の耳元に口を寄せると小声で言った。

「…ミナさん、本当に安室さんと何も無いの?」
「くどい…!何も無いよ、私はただの居候」
「…本当かなぁ」

どうしてそんなに信じてもらえないのだろうか。
私が安室さんに好意を抱いていようとなかろうと、そもそもあんな完璧な人の隣に私が立てるはずがないのである。
…仕事も始められたことだし、お金を貯めて出ていかないとなとぼんやりと考える。
安室さんの隣にはどんな女性が似合うだろう。きっととても美人で、自信に満ち溢れていて、スタイルのいい素敵な女性。安室さんよりも少し年上でもいいかもしれない。彼と対等でいられる、強い人。

「カフェラテお待たせしました」
「あっ、はい。ありがとうございます」

ぼーっと考えていたら目の前にカフェラテが置かれた。もこもこ泡のミルクにコーヒーのいい香り。ポアロでカフェラテを飲んだら、他のお店に行ってまで飲む気にはならない。
砂糖を溶かしてスプーンで軽く掻き混ぜるとカップを口に運ぶ。…美味しい。一口飲んで、ほうと息を吐き出した。

「お味はどうですか?」
「とっても美味しいです。幸せ」
「それは良かった」

安室さんに尋ねられて笑顔で答えると、安室さんも優しく笑ってくれる。
こういう時間が好きだな。漠然と思いながら、私はカフェラテをゆっくりと味わった。


***


カフェラテを一杯だけ飲んで、子供達に挨拶をしてからレジに向かう。梓さんは奥で接客をしていて、安室さんが会計をしてくれた。
お財布を出してお金を支払おうとすると、彼の視線がじっと私の手元に注がれていることに気付く。なんだろう、と首を傾げたら、安室さんはくすりと笑って私の財布を指差した。

「付けてるんですね、イルカ」
「あっ」

そうなのだ。お財布のチャックに付けたピンクのイルカのストラップが揺れる。安室さんがお財布につけると言っていたから私もお財布につけてみたのだが…あからさますぎただろうか。気持ち悪いなんて思われていないかな、と思い安室さんの顔を窺うも、そんな様子はひとまず見られない。ほっと息を吐く。

「えっと、…はい」
「デザインが良いですよね。僕も気に入っちゃいました。選んでくれたミナさんのセンスがいいんですね」
「そ、そんなことないです…いやっ、ちゃんと考えて選びはしたんですけど!その、ありがとうございます…」

自分でも何を言っているのかだんだん分からなくなるからあまり追い詰めないで欲しいと思いながら、千円札を取り出して安室さんに支払う。安室さんは笑っていて、やはりなんというかからかわれているのではないか。こっちは毎度心臓が跳ね上がって仕方がないというのに。…でも、楽しそうに笑う安室さんの顔も好きだから結局何も言い返せない。仕方がない。

「今日、夜遅くなるので…先にお休みになってください」

釣り銭を私の手の上に乗せながら、安室さんが小さな声で囁いた。この声の大きさなら私にしか聞こえていないだろう。

「夕飯は申し訳ないのですが…」
「そんな、全然大丈夫です。…お仕事ですよね、無理なさらないでくださいね」
「ありがとうございます。ミナさんも気を付けて帰ってくださいね」

釣り銭を財布にしまうと、ポアロを出て歩き出す。
そうか、安室さんは今日は夜遅くなるのか。夕飯をどうしようかな、なんて考えながらとりあえず米花駅の方へ向かった。
時計を見ればまだ夕方四時過ぎだ。安室さん、ポアロのバイトの後に探偵のお仕事だろうか。本当に忙しい人だなぁと思う。そのうち体調を崩さなければ良いのだが。

今日の私はどこかぼんやりしてしまっていたらしい。考え事が多かったせいかもしれないけど、視界も狭くなっていたんだろう。

「…あっ、」
「っ…」

人通りの多い駅前で、人にぶつかってしまった。しかも結構強めに。私も相手の人もバランスを崩してよろめいている。相手の人が持っていたスマホが落ちて地面を滑った。

「す、すみません!」

慌てて落ちたスマホを拾う。だ、大丈夫だろうか壊れていないだろうか。見たところ幸いに傷もないようだし問題はなさそうだけど、万が一のことがある。
なんでちゃんと前を見て歩いていなかったんだろう…。
申し訳なさでいっぱいになりながら相手の人にスマホを差し出した。

「ごめんなさい、ぼーっとしてて…スマホ、大丈夫でしょうか。傷はないみたいなんですけど、念の為確認していただいた方が…」

顔を上げて息を呑む。
つば広の帽子を被り、サングラスをかけた女性。髪は緩く波打つブロンドで、身長は高くすらりとしたスタイルはモデルさんのようだ。そして香水のいい匂いがする。
え、スーパーモデルの方だろうか。目を瞬かせていたら、女性が私の手からスマホを受け取り操作確認をしてくれる。
え、もしかして外国の方だろうか。日本語通じる?思い切り日本語で話しかけてしまったけど。

「…ええ、問題ないわ。ごめんなさい、私も少し余所見をしていたから」

なんてことだ。声までいい。そして日本語が堪能である。
深みのあるセクシーな声は同性である私でさえもちょっと恥ずかしくなってしまうほど。

「と、とんでもないです!本当にごめんなさい、もし何か後からスマホに不調とか出てきたりしたら、連絡していただけたら弁償を…」

今すぐに弁償って言われてもお金が無いけれど、壊してしまったものをそのままにするなんて出来ない。その時は分割でも払わせてもらわないとと思っていたら、その女性はおかしそうにクスクスと笑った。

「そんなに気にしなくて大丈夫よ。ぼんやりしていてぶつかったのは私も同じ。お互い様じゃないかしら。たまたま私がスマートフォンを落としただけよ」

サングラスに隠れて目は見えないけど、すっと通った鼻筋と形の良い唇を見ればわかる。この人、めちゃくちゃな美人さんだ。
漂うのは大人の余裕、というやつだろうか。どこかのお金持ち?もしかしてセレブ?とんでもない人とぶつかってしまったのではないかと思いながら、優しい女性に感謝する。

「あ、ありがとうございます…。…本当にすみませんでした」
「いいえ、こちらこそ。それじゃあね」

Bye、なんて言いながら軽く手を振って颯爽と歩いていく女性を見送る。風に、美しいブロンドが揺れていた。

やがて雑踏の中に消えていった女性を見つめながら、私は何故だかすごく…寂しいような、不思議な気持ちになっていた。気分が、どんどんと下降していく。気付けば私は俯いていて、自分の足元をじっと見つめていた。
とても美人で、自信に満ち溢れていて、スタイルのいい素敵な女性。声も素敵で優しくて、それでいて余裕がある。
まさしく、あんな女性なんだと思った。安室さんの隣に立てる人。彼と歩みを共に出来る人。
彼と対等でいられる、強い人。

「…足元にも及ばないなぁ、」

自分が安室さんの隣にいれるような素敵な女性になれると思っていたわけじゃない。でも、安室さんの友人として恥じない女性にならなければと思っていた。
雲泥の差すぎる。生まれ持ったものが違いすぎる。
いや、そもそも。私と安室さん自体差が激しすぎるのだ。
わかっていたことだ。今、再認識しただけの話だ。
けれども、どうして胸が痛いんだろう。期待してはいけないと、彼から何かを望んではいけないと、自分に言い聞かせていたはずなのに。
私が胸を痛めるなんてお門違いである。私は何を、勘違いしていたのだろう。
あんな女性になれたら、なんて考えるだけ無駄なのに、どうしてそんなことを考えてしまうのだろう。

ゆっくりと踵を返して歩き出す。
すっかり夕飯のことを考える気分ではなくなってしまっていた。
早く帰って、今日はもうお風呂に入ったらすぐに寝てしまおう。安室さんは鋭いから、私の様子がおかしかったらまた変に心配をかけてしまうかもしれない。
大丈夫、一晩寝たらいつも通りの私になれる。明日はまたいつも通り、安室さんと顔を合わせよう。

身の程を思い知れと胸の内で叫ぶ。私は、私にしかなれないのだから。

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