57
「安室さんって細身ですけど、筋肉しっかりついてますよね」

そんな私の何気ない一言からその話は始まった。
いつものように夕食後交代でお風呂に入った後、互いに思い思いのことをして過ごしていた夜。すっかり見慣れた安室さんのTシャツ姿をぼんやりと見つめ、袖から伸びる腕に綺麗な筋肉がついているなぁと思った。
そういえば東都水族館での一件の時も、私を抱えて飛び降りたんだっけ。腕だけじゃなく恐らく足にもしっかりと筋肉がついているんだろう。服を着ているとあまりよくわからないが。と、思ったから、そんな一言を口にしたのだけど。
安室さんはそんな私の言葉にきょとんとして目を瞬かせ、その後小さく苦笑する。

「突然どうしました?」

やばい。思ったことを口にしただけだったが、よくよく考えなくても変な一言だったかもしれない。慌てて首を振る。

「あ、いえ、なんとなく…。以前ボクシングが趣味とおっしゃってたから、やっぱりその成果なのかなぁと思いまして」
「まぁ、鍛えてますからね。ここからしばらく歩いていくと河川敷があるんですよ。ジョギングにも良いし、よくそこでトレーニングしてるんです」
「えっ初耳」

安室さんと一緒に生活するようになって結構時間が経つと思うが、そんな様子は今まで見たこともなかった。いつの間にそんなトレーニングを。
普段から忙しそうにしているからいつ鍛えているのかと思っていたが、密かにトレーニングをしていたのか。…密かにって、私に隠すつもりはもちろんなかったんだろうけど。

「まぁ、夜帰ってくる前にちょっと寄って…とか。車にジャージは置いてあるので、中で着替えて走りに行ったりとかはしてたんですよ」
「え、そんな。家でゆっくり着替えてから行かれたら良いじゃないですか。大変でしょう?」
「そうですか?じゃあこれからはそうさせてもらいますね」

もしかして私がいるから気を遣わせてしまったんだろうか。申し訳ないなと思いながら眉尻を下げる。私には気にせず好きな時にトレーニングに行って欲しい。
本当にただの居候なのだし、そんなに私に気を遣わなくていいのにな。そんなことを考えていたら、安室さんがじっとこちらを見つめていることに気がついた。
…まじまじと見つめられるとなんだか気まずいというか、どうしたんだろうと思ってしまう。

「な、なんでしょう?」
「…ミナさん、何かありました?」

問われて目を瞬かせる。
何か、とはなんだろう。どういう意味なのか分かりかねて首を傾げるが、安室さんは少し難しそうな顔をしている。だが、それからすぐに頭を振った。

「…いえ、何も無いならいいんです。すみません、変なことを聞いて」

にこりと微笑んで、安室さんはまた自分の作業に戻る。安室さんはいつもパソコンと向き合ってなにやら忙しそうにしている。探偵の方の仕事の作業だろうと考えている。
…それから少し考えて、少し前までのように照れたり目を見て話せなかったりといったことが無くなったことを言っているのだろうか、と思い至った。

あの日、あの素敵な女性とぶつかった日。私は帰ってシャワーを浴びて、そのまますぐに眠ってしまった。一晩で自分の思いや期待を打ち消すように。
私が一方的に安室さんのことが好きなだけ。何も見返りは要らないし、貰えるとも思わない。身の程を知り、期待しない。期待なんかしなくても、安室さんのことを好きだと思っていられるだけで幸せだ。烏滸がましいことはやめる。
そう考えたら、今までの苦しかった気持ちや安室さんに対して恥ずかしく思ったりする気持ちがなくなった。今では目を見て話すことも出来るし、微笑まれても幸せな気持ちになるだけで照れたりはしない。今までの私に戻ったのである。
照れて見苦しい姿を安室さんの前に晒すことも無い。気持ち的にはとても穏やかだ。少し前の自分だったら、もし安室さんにお似合いの女性が現れた時…私は、笑顔でいられなかったかもしれない。情けなく恥ずかしく嫉妬して、苦しんでいただろう。
でも今はそんな心配もない。今ならきっと祝福することが出来る。見た目的には良き友人として。私の胸の内では、大切な人として。
期待しなければ苦しいことなど何も無いのだと知った。とても簡単な、たったひとつの方法。
…けれど、私は楽になったけど、安室さんはたまに先程のような難しい顔をする。私のことをじっと見て、それから少し考えるように。何かあったのかと聞かれたのはさっきのが初めてだったけど。
何か安室さんの頭を悩ませてしまっているだろうかと少し心配になるものの、どう聞いたら良いかわからないし私に出来ることなんてないような気がするから何も言えない。…きっと必要なことだったら安室さんから話をしてくれるだろう、そう考えることにした。

「安室さん」
「なんですか?」
「その河川敷って、ここからどうやって行くんですか?」

あまり暗くなってからは危ないかもしれないけど、まだ明るい時間なら散歩したら気持ちいいだろうなと思って聞いてみる。私が地図を取り出して安室さんの前に広げると、安室さんはそれを覗き込んで指差した。

「ここから歩いて十分くらい、でしょうか。行き方は…」

道順を教えてもらい、なるほどと頷く。
明日は日曜日で、安室さんは朝からポアロ。せっかくオフの一日だし、早速明日にでも行って散歩してみようと考えた。

「ありがとうございます。行ってみますね」

笑顔で言いながら地図を畳んでいると、やはり安室さんがじっとこちらを見つめていることに気づいて目を瞬かせる。
…なんだろう、やはり私どこか変なのだろうか。安室さんの視線は私を見据え、何かを考えている様子ではあるけどその瞳を見つめ返しても何かわかる訳では無い。
疑問には思うものの私から聞くことも出来ず、安室さんも…結局何も言わなかった。


***


日曜日。天気は快晴。少し汗ばむくらいの陽気だ。
ポアロ出勤の為朝早めに出ていく安室さんを見送り、安室さんの作ってくれた朝食を有難く一人でいただいて、少しのんびりしてから家を出た。
地図を片手に、安室さんに教えてもらった道を進む。住宅街を歩いてしばらく歩くと、道の先に河川敷の土手が見えてくる。土手の階段を上がる頃には私も少し汗をかいていて、額を腕で軽く拭った。ふう、と息を吐いて顔を上げる。

「本当に結構近かったんだ」

土手から見下ろす川はそこそこ大きい。雨の日なんかは絶対に近付けないなと思いながら、私は再びのんびりと歩き始めた。
土手の上にはジョギングをする人やサイクリングを楽しむ人、犬の散歩をしている人など、結構人の通りはある。土手の下の川縁ではキャッチボールや野球をしている子供の姿も見受けられた。今日日曜日だしな。学校もお休みなんだろう。
この世界で生きてる人達の姿だなぁ、なんて思いながら、川縁に降りる階段を見つける。川にかかる大きな橋のすぐ側だ。
何とはなしにその階段を降りて…ふと、私は草むらにいる小さな白い毛玉を見つけた。
そう、毛玉だ。もふもふとした尻尾が揺れている。

「…犬?」

首を傾げていると、私に気付いた犬が顔を上げる。思ってたよりも愛らしい顔をしていて目を瞬かせた。野良犬…というよりは迷い犬、だろうか。もしかした放し飼いにしていて近くに飼い主さんがいるのかも、と思って辺りを見回すも、それらしき人影はない。

「君、一人?」

警戒されている様子はないので、しゃがんで声をかけてみると可愛い鳴き声と共に尻尾を振りながらこちらに近付いてくる。
大きさと雰囲気から言って、恐らくまだ子犬。産まれたてというわけではないが、かといって成犬ではないだろう。
私がそっと手を出すと、その子犬は私の手に甘えるようにじゃれついてきた。…汚れてるけど毛並みは良い気がする。迷い犬か…もしかして、捨て犬、だろうか。

「お腹空いてるのかな…ごめんね、何も持っていないの」

私の手をしきりに舐めているけど、生憎犬に与えられるような物は持っていない。かと言って何かを買ってきて与えると変に懐かれてしまって、逆に可哀想な思いをさせてしまうかもしれない。
私が一人暮らしだったら連れて帰ることも考えるけど、今私は安室さんの家に居候になっている身だ。勝手なことをする訳にはいかない。安室さんが犬好きかどうかもわからないし。
子犬はふと私の鞄の匂いをクンクンと嗅いで、それから何かに気付いたように耳を立てると嬉しそうに鳴きながら跳ね回っている。え、なんだろうこの反応。何か匂いがしたのだろうか。

「え、え?なあに?わからないよ」

困惑はするけど、素直に子犬は可愛い。
そっと子犬の頭を撫でると、ころんとその場に転がってお腹を見せてくる。
…随分人懐こいな。この辺りに来る人に可愛がられているのかもしれない。こんな愛らしいんだから、きっと皆放ってはおけないよなぁ。
連れて帰ってあげたいけど…どうしてあげることも出来ない。この河川敷で暮らしているのだろうか…だとしたら、数日置きに様子を見に来てあげることくらいは出来るかもしれないが、所詮私に出来るのはその程度だ。根本的な解決にはならないだろう。

「ごめんね、うちに呼んであげることは出来ないんだ」

懐いてくれるのは嬉しいけど、情が湧いたら湧いただけ可哀想だ。よしよしとお腹を撫でてあげてから立ち上がる。
…つぶらな瞳で見つめられると決意が揺らぐけど、これ以上は私の為にもならないしこの子犬の為にもならない。
…この子は、ひとりぼっちなのだろうか。どんな経緯でこの河川敷にいるのかはわからない。野良犬が産み落としたのか、迷い犬なのか、捨て犬なのか…どれにせよ、私にこの子を救うことは出来ない。

「いい飼い主さんが見つかるといいね」

ばいばい、と手を振ってから私は再び歩き出す。少しの間ついて来ていたみたいで後ろ髪を引かれたけど、途中で諦めたみたいでしばらくした後に振り返ると子犬の姿はなかった。その事に少しだけ胸が痛む。
…良い飼い主さんが現れるといいな。優しくて素敵な人。そんなことを考えながら時計を見つめ、昼近くになっていることに気付いて私はアパートへの帰り道を歩き始めたのだった。

Back Next

戻る