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「………え、」

僕は恐らく、この世界の人間じゃない。
安室さんの言葉の意味がよくわからなかった。
この世界の人間じゃない、とはどういう意味だ。外国から来たとか?いや、安室さんは日本育ちで日本で生活していたと言った。安室さんの顔を見返すけれどその表情は真剣そのもので、冗談なんかには思えない。
世界って、なんだ。

「これを見ていただけますか」

安室さんは財布を取り出すと、その中から銀行のキャッシュカードやクレジットカードを抜いてローテーブルに広げた。
どこにでもあるキャッシュカードやクレジットカード。一見するとそう見えた。

「…え?これ…どこの銀行ですか?」

聞いたこともない銀行名と、見たことの無いロゴ。クレジットカードも同様だ。聞いたことの無い会社名が記載されている。
普通に考えれば偽造。それもかなり精巧な。しかし、カードの使い込まれ具合から見て偽造されたものとは考えにくかった。

「僕が普段から使っている銀行のキャッシュカードとクレジットカードです。昨日パソコンをお借りした時に調べてみましたが、こんな銀行もクレジットカード会社も存在しなかった」

言葉が出なかった。
唖然とする私をよそに、安室さんは話を続ける。

「昨晩パソコンで米花町についても調べました。けれどヒットする地名はなく、そんな場所は日本にはおろかこの地球上にさえ存在していない。僕が住んでいた東京との齟齬も見つけました。ここでは東京タワーと呼ばれる総合電波塔がありますが、僕が知っているのは東都タワー…見た目は同じなのに名前が少し違っているんです」
「東都タワー……?えっと、ごめんなさい、ちょっと混乱しかけてるので…少し整理してもいいですか?」

大した情報量を聞かされた訳では無いのに頭がパンクしそうだ。上手く回らない頭を押さえながら、安室さんが話した内容をゆっくりと噛み砕く。

まず第一に、安室さんは日本で育ち日本で生活していた。そして、米花町≠ニいうところから来たらしい。
その米花町への帰り方を探したが…米花町という街は日本どころか地球上に存在しなかった。
持っているキャッシュカードの銀行や、クレジットカードの会社も調べた限りでは見つからない。有名な総合電波塔の名前も、東都タワーと記憶しているという。

「…途方もない話、ですよね」
「僕が何らかの記憶障害だったと言われた方がよっぽど信憑性があります。ですが…自分が今まで生きてきた証拠が、あまりに多すぎました」

安室さんはスマートフォンを取り出して画面を眺める。ちらりと見えたディスプレイに、「江戸川コナン」と表示されているのが見えた。

「警視庁が霞ヶ関にあるとお聞きして、そこは僕の住んでいたところと変わらないんだとほっとしました。けれど知り合いの番号にかけても繋がらず、結局警視庁で知り合いの名を告げてもそんな人物は在籍していないと言われてしまいましてね」

安室さんは苦笑を浮かべた。
きっと、今まで自分が使ってきたスマートフォンの電話帳にある知り合いの名前と番号が、現状の非現実さを現実だと突き付けたのだろう。
自分が記憶障害なんかだったら、スマートフォンの中に入っていた連絡先、キャッシュカードやクレジットカードの説明もつかない。

その結果導き出した安室さんの答えというのが…自分はこの世界の人間ではない、ということ。

「限りなく近い、けれども何かが違う世界。僕はそう認識しています」
「限りなく近い、何かが違う世界……」
「キャッシュカードが使えないと言ったのはこういった理由からです。クレジットカードも同様に使えないでしょう。その金融機関は存在していないのですから」

SFやファンタジーじゃあるまいし。でも私には、安室さんの話を笑い飛ばすなんて出来なかった。
警戒心がないと怒られてもいい。だって私には、安室さんが嘘を吐いたりしてるようには思えないし、かといって私を騙そうとしているとも思えないのだ。そもそも嘘を吐いたり私なんかを騙したところでメリットなんてない。

「…信じられない話の後で申し訳ないのですが、このまま話を進めさせていただきますね。そういうわけで、今僕はこの世界の異分子です。この世界に関わる術を持っていない。日本円は共通で、僕が所持していた現金を使えたのは幸運でしたが…正直、現金はもうあまり残っていません。かといって先程言った通り僕はキャッシュカードもクレジットカードも使えません。つまり…生活力が、ゼロなんです」

安室さんの言葉にぱちりと目を瞬かせる。
なんでも出来るこの人が、たかが世界を少しだけ跨いでしまっただけで生活力がゼロだなんて、そんな馬鹿な話はない。けれど、私が反論しようとする前に安室さんが軽く手で制す。顔に出てしまっていたらしい。

「この世界には僕の戸籍がない。つまり、家を借りたり仕事をすることも出来ないんです。しかし、僕は…僕の日本に帰らなければなりません。その為には自分が何故ここに来たのかを調べ、帰る方法を探す必要があります」

そうか。安室さんは今、無戸籍という状況にある。
住民票が作れない。家を借りることも、銀行口座を作ることも出来ず、携帯電話の契約も出来ない。健康保険証がなく、医療費は全て自己負担。
そんな状況では身動きが取れない。帰る方法を探すどころか、ここで生活をしていくのにも相当な苦労が付きまとうことになるだろう。

「…佐山さんにお願いがあります。帰る方法が見つかるまで、僕をここに住まわせてはいただけませんか。お金が支払えない身ですから、お返しにできることと言えば家事くらいなものですが…僕は、どうしても帰らなくてはならないんです。あちらには、残してきたものが多すぎる」

例えば、家族。友人。安室さんみたいに素敵な人なら、恋人や奥さんだっているかもしれない。それから、はっきりとはわからないけれどきっと、何か使命のような…信念のようなもの。
安室さんが口にした残してきたもの≠ニは、きっとそういうものなのだろう。

「…安室さんは、こことは違う日本から何らかの理由で…えぇと、この場合異世界トリップって言うんでしょうか。とにかく、ここに飛ばされてしまって…でも、どうしても帰らなければならないから、その方法が見つかるまでうちに居候したい、ってことですよね」
「えぇ、その通りです。…一人暮らしの女性の家にお世話になるなんて、決して許されることではないとわかってはいますが…なりふり構っていられる状況ではありません」

まだぼんやりとしている感は否めないが、まとまらない頭で整理したことを口にすれば安室さんは頷いた。
安室さんの話は突拍子もないし普通に考えれば到底信じられるものでは無い。

「安室さんが今してくださったお話に、嘘はないんですよね?」
「はい。…僕自身信じられない話なので、信じてくださいとは言えません。ですが、誓って嘘は言っていません。…これが、僕の出した答えです」

安室さんがそう言うなら、私の答えもただ一つだ。

「わかりました。安室さんの言う帰る方法がいつ見つかるかわからないですけど…うちで良ければ使ってください。あなたの言うことを、信じます」

安室さんはその言葉を聞いて、驚いたように目を見張った。何か変なことを言っただろうか。

「…こちらからお願いしておいて何ですが、佐山さん、少し疑うくらいしたらどうです?」

その声は少し呆れが含まれていて、安室さんの表情も少し怪訝そうだ。
そんな顔をされても困る。

「だって私、確認しました。嘘はないんですよねって。安室さんが言ったんですよ、誓って嘘は言ってないって。確かに簡単に信じられるようなお話ではなかったけど…でも、私も安室さんが嘘を吐いてるとは思えません」
「……今の話が全部嘘で、僕があなたを騙そうとしてるんだとしたらどうするんです。安室透という名前さえ嘘かもしれない。あなたが居ない間に窃盗を働いて逃げることだって可能なんですよ」
「安室さん、うちで窃盗を働くつもりなんですか?」
「しませんよ。そういう可能性もあるということを少しは考えてくださいと言っているんです」

安室さんは小さく溜息を吐いた。
これは本格的に呆れられてる。ちょっとお説教っぽくなってきたし。
でも、それも全部きっと私を心配してくれているんだと思う。なんて、自惚れすぎだろうか。

「そんな可能性、考えたって無駄です。だって安室さんはそういう人じゃないと思うし…それに、安室さんを信じてもし裏切られても、その時はその時かなって。裏切る理由や、本名を言えないような理由があるんだと思います。だから私はきっと、何があっても後悔しません」

仕事に明け暮れていた私の世界はモノクロだった。
毎日同じ日々の繰り返し。最初は心配してくれていた友達も、遊びの誘いを断る度に少しずつ連絡の頻度が減って、気付けば数年連絡を取っていない。
呼吸の仕方を忘れていた。心はきっと錆び付いていた。
ネジが飛んで、何かが緩んで外れていた。
磨り減った壊れかけの私が安室さんと出会えたのは幸運だったと思う。
安室さんがこの世界の人であろうとなかろうと、私にとって安室さんは安室さんでしかない。

「安室さんが作ってくれたご飯、とっても美味しかったです。一緒にお買い物したのもなんだかすごく新鮮でしたし、霞ヶ関への行き帰りもいろんなお話出来て楽しかった。私、すごく安室さんに感謝しています。こんなに楽しかったのは本当に久しぶりでした。だから、安室さんが帰る為の協力、私にさせてください」

心からの言葉だった。
何故か安室さんはぽかんと口を開けてこちらを見つめていて、それからバツが悪そうに視線を逸らすと小さな舌打ちをした。何かを呟いたようだったが聞こえなかった。

「…何故あなたが僕に感謝するんです?僕はあなたの家に転がり込んでいるんですよ」
「私が安室さんを家に呼んだんですよ。怪我をしていて心配だったっていうのが大きいですけど…でも、あの時の自分の行動は正しかったって思ってます」
「……本当に、あなたという人は」

今度こそ安室さんは深い溜息を吐いて頭を抱えながら俯いた。何故。安室さんが真剣に話してくれるから、私も真剣に返しただけなのにそんな反応をされると少し傷つく。
安室さんはしばし考えていたみたいだったが、やがてゆっくりと顔を上げた。

「…言ったでしょう。僕はあなたに感謝しているんです。マンションの前で倒れていたなんて、通報されたっておかしくない。あなたが僕を助けてくれたから、僕は落ち着いて自分の状況を考えることが出来ました。あなたと出会えたことは、この世界に来てしまったという不運の中で…最上の幸運だったんですよ」

安室さんは少しだけ困ったように笑う。それから少しだけ目を細めた。

「…ありがとうございます、佐山さん。あなたに出会えてよかった」

柔らかく笑う安室さんの表情に、とくりと胸が高鳴った。
私のモノクロの世界は、いつしか色が着いていたみたいだ。忘れてた色を思い出した、と言う方が正しいのかもしれない。

知っているはずなのにどこか違う日本。そんな場所に来て、安室さんは気味悪く思ったことだろう。帰るべき場所が見つからず、不安を感じたことだろう。
何が原因でこんなことになったのかはわからない。帰る方法だって見つかるかさえわからない。何が出来るかわからないけど、私に出来ることならなんでもしたかった。

「改めて、これからよろしくお願いします」
「はい。…よろしくお願いします、安室さん」

かくして、私と安室さんの秘密のルームシェアが始まったのである。

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