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安室さんはまず、うちに居候するに当たっていくつかの決まり事を作った。
家事全般は安室さんが引き受けるということ。もちろん洗濯や掃除の時に私が触れてほしくないものには触らない。例えばまぁ、私の下着だったりとか、貴重品の入った引き出しなどだ。
安室さんはリビングで寝泊まりするということ。これは少し押し問答があったのだが、結果家主がベッドを使うのは大前提だと押し切られてしまった。さすがにあの硬いラグでは不便だから、近いうちに敷き布団くらいは用意しようと考えている。
安室さんは留守番はしないということ。私が外出するなら、その時は一緒に外に出てどこかで時間を潰すのだそう。自由に外に出たりすれば良いと伝えたし、家にいてくれても構わないとも伝えたし、私に合わせる必要はないとも言ったのだが…見知らぬ男性を家に留守番させるなんて警戒心が云々。もし安室さんに留守番をどうしても頼まなければならない状況になったら(そんな状況あるのだろうか)、その時はその時に考えると言う。よって、合鍵を渡そうとしたのだが丁重にお断りされた。その他、自分に出来ることなら可能な限りやるから使ってくれ、とのこと。
その代わりにお願いされたのが、調べ物をしたいから引き続き必要な時はパソコンを貸して欲しいということ。自分の住んでいた日本との齟齬がある為、今いる日本のことを教えて欲しいということ。それから、帰る為の方法を探す上でもし私の力が必要になった時は貸して欲しいということ。
そんなのお願いのうちに入らないですよと笑ったのだが、安室さんにとっては大事なことらしい。

「それから…帰る方法の想像すらつかない状態なので今お伝えするのも変な話かもしれませんが、予め伝えておきたいことがあります。僕は突然この世界に来ました。なので、もしかしたら帰る時も突然なのかもしれません。あなたから受けた恩を返すことは、多分出来ない」

その言葉にも、私は頷いた。
突然いなくなってしまったら寂しいし、悲しくなると思うけど。それでも、安室さんがちゃんと元の世界に帰れるのなら良いと思っている。
元の世界に帰れず、他でもない安室さんが悲しい思いをするくらいなら、突然でも帰れた方が私も嬉しい。

安室さんの決まり事とお話を聞いた後、今度は私から一つだけお願いをした。
それは、携帯電話を持つこと。

「スマートフォン、ですか」
「はい。やっぱり連絡手段がないのは厳しいですし、持っていていただけると私も安心できます」

連絡手段がなくて不便なのは安室さんだって同じだろう。安室さんが元々使っていたスマホは使えないから、私が一台スマートフォンを用意することを提案した。

「いえ、スマートフォンはさすがに…。通話とメールの機能があれば問題ありません。インターネットはパソコンをお借りすれば良いですし、僕自身いついなくなるかもわからないのですから」
「…なるほど。それじゃあ、ガラケーとかでしょうか」
「そうですね。連絡手段をいただけるのは僕としてもありがたいです」

そうと決まれば明日にでも買いに行こうと決める。
そうして安室さんと少しだけ話をした後、お互いにそろそろ休もうという話になった。

「おやすみなさい」
「はい。…おやすみなさい、佐山さん」

私は寝室へ、安室さんはリビングで。私は、部屋には鍵をかけて。
壁を一枚隔てて、それでも家の中に人の気配があるのは私にとって大きな安心となった。人の気配というか、安室さんだから、という部分が大きいんだろうけど。
部屋の電気を消して、ベッドに潜り込む。
サイドボードに置いた会社の携帯がチカチカと通知で光っていたけれど、それを確認する気は少しも起こらなかった。
私は自分でも気付かぬうちに疲れていたのか、そう経たないうちに眠ってしまっていた。


***


翌日の日曜日、私と安室さんは早速携帯ショップに足を運んでガラケーを契約した。もちろん安室さん名義で契約することは出来ないから、表面上は私の二台持ちということになる。
色は黒で、本当に通話とメールの機能のみのシンプルな契約プランだ。
携帯ショップを出て、すぐに安室さんの番号とメールアドレスを私のスマホに、私の番号とメールアドレスを安室さんのガラケーに登録した。これでいつでも連絡が取れる。

「何から何までありがとうございます。何かがあればいつでも連絡してください」
「はい。安室さんもどんどん活用してくださいね」

スマホに登録した「安室透」の文字に柄にもなく浮かれているのを自覚する。この番号に電話すれば安室さんと通話できるのだ。アドレスだって同じ。安室さんと繋がるツールに胸が温かくなる。

「さて、これからどうしましょうか」
「あの、良かったら東京タワーに行ってみませんか?その…安室さんが言う東都タワーと見た目は同じだと思うんですけど。帰る方法を探すにもその方法すらわからないし、まずはこの日本を知ってみるのはどうかな、って。中まで入らなくても、近くで見るだけでもいいと思いますし」
「いいですね。行きましょうか」

安室さんが快諾してくれたので、二人して東京タワーへと向かった。


東京タワーに着いたのは、もう少しでお昼になるという時間帯。日曜日だから家族連れやカップルの姿が多く見受けられる。
安室さんと一緒に東京タワーを見上げ、近くで見ると尚更大きく見えるそれに小さく息を吐く。

「…なるほど。確かに、東都タワーと同じですね」

目を細めた安室さんが言う。それから辺りを見回して、恐らくは自分の世界との齟齬を探していたのだと思う。安室さんの世界の東都タワーとやらを私は知らないから、どの程度同じでどんな齟齬があるのかは想像も出来ないけど。

「その東都タワーもデートスポットなんでしょうか。安室さんも彼女さんとかと来たりしたんですか?」
「え?」
「えっ?」

何とはなしに問いかけたが、安室さんがぽかんとして振り向いたので私も目を瞬かせた。
え、なんでそんな顔してるんだろう。何も変なことは言っていないはずなのだが。

「…あぁ、すみません。いえ、僕に恋人はいませんよ。東都タワーへも何度か行ったことがありますが、デートというわけではないですね」
「えっ。えっ?!あ、安室さん彼女いないんですか…?!」
「はい。そんな意外ですか?」
「…恋人はいないけどご結婚はしてるとかそういうオチじゃ」
「僕独身ですよ」

意外すぎます。
だってこんなにかっこよくてなんでも出来る人なのだ。素敵な彼女さんがいらっしゃるんだろうと真っ先に思うのが普通ではないのか。結婚してるかもしれないとまで思っていたのに。

「安室さんが独り身…?お、おかしいですよ、だって絶対に世の女性は放っておかないでしょう…?かっこよくてなんでも出来てこんなにスマートで素敵な方なのに」
「そんなに手放しで褒められると照れますね。ありがとうございます」

これっぽっちも照れた表情じゃない。いつもの爽やかな笑みを浮かべる安室さんを見て、私は小さく溜息を吐いた。

「っくしゅ、」

じっと佇んでいて体が冷えたのだろうか。ずび、と軽く鼻をすすって顔を上げる。少し心配そうな顔をした安室さんがこちらを見つめていた。

「冷えたんでしょうか。何か温かい飲み物を買ってきますよ。それを飲んだら移動しましょう。ここで待っていてください」

あ、と思って声をかけようと思ったら既に安室さんは近くの自販機へと足を向けているところだった。
…とても紳士だ。こんな扱い、今までに受けたことがあっただろうか。ないな、多分。

ふぅ、と息を吐いて再び東京タワーを見上げる。
きっと私は見ることがないだろうが、安室さんの日本にあるという東都タワーにも興味がある。
見た目は同じかもしれないが、中に入ってるお店も同じなのかな。飲食店とか少し違ったりするのかもしれない。
途方もない話と思っていたのに、なんだかあっさりと信じてしまっている自分に苦笑する。

「……あ、」

ふと小さな声とともに視線を感じて、東京タワーを見上げていた首を戻して振り向いた。それから、小さく息を呑む。

「………あ、」

どうしてここに。
そう思ったけれどここはデートスポットで今日は休日。いても何らおかしなことはない。だから、多分私のタイミングが悪かったのだ。

「…ミナ、」

元彼がそこに立っていた。彼の陰で見えないけど、連れているのは恐らく彼女だろう。
そうか。デート中か。

「…なんでお前ここに。休日出勤してるんじゃねーのかよ」
「……今日は、お休み。…そっちは、今日はデート?」

見ればわかることを聞いてどうする。
嫌だな、気まずいな。私に絡まないでもうどこかに行って欲しい。彼を見てると、息が詰まる。

「…会社にでも行けよ、どうせ社畜なんだから。くそ、鬱陶しい」
「………うん、ごめんなさい」

色々言いたいことはあるのに、言い返したいのに、息が詰まって言葉が出てこない。いつしか視線は地に落ちて、私は自分のコートをぎゅっと握り締めていた。苦しい。

「ねぇ…もう、行こ?」
「…そうだな、」

彼女さんの声に顔を上げる。それから、私は小さく息を飲んだ。
元彼の陰から顔を出した、可愛らしい女の子。茶色の髪は緩くパーマされていて、ふわふわのコートに身を包んでいる。少し低めの身長は可愛らしい顔立ちも相まって守りたくなるような印象を与える。
とても可愛い子だ。だがそれと同時に、とても見覚えがあった。

「…じゃ、またね。センパイ」

くすり、と笑う彼女は。私の会社の、後輩だった。
どんくさいところがあって、仕事も決して早い方ではなかったが、愛嬌があって憎めないタイプ。私のことを慕ってくれて、わからないところは真っ先に聞きに来るような子だった。彼女に仕事を頼まれることも多かったが、「用事があるからどうしても帰らないといけなくて、ごめんなさい」と申し訳なさそうに頭を下げるような子だった。
でも、私を見て笑う彼女は…私のことを、嘲っていた。

「…あー、」

そっか。
元から私はよく仕事を頼まれて残業気味だったが、彼女が私に仕事を頼むようになったのは私が元彼と別れる少し前だったと思う。
これは、多分二股されていたなと思い至って小さく笑う。
私は、元彼と後輩に、多分都合よく使われたんだろう。彼女は定時で帰れるように私に仕事を頼み、元彼はそれによって都合がつきにくくなった私を振った。めでたく二人は結ばれたと、そういうことだ。
彼女の薬指には指輪が光っていた。私は、指輪なんてもらったことはなかったけれど。
休みの日に彼をデートに誘って、了承されたことは数える程しかない。彼から告白されて始まった付き合いだったが、彼は最初から私のことなど好きではなかったのだろうか。
なんだかそれは、とても寂しくて虚しくて、とても悲しいことだと思った。



「佐山さん、お待たせしました。…佐山さん?」

ぽんと肩を叩かれてびくりと身を竦ませた。慌てて振り返ると、ココアの缶を持った安室さんが目を瞬かせて立っていた。

「すみません、驚かせてしまいましたか。声をかけても反応がなかったので…」
「と、とんでもないです…!ありがとうございます、わざわざ買ってきて頂いちゃって…」

差し出されたココアを受け取って無理矢理笑みを浮かべる。ぼーっとしてはいけない。私は今安室さんと一緒なのだ。
安室さんは私の顔を見ると少しだけ目を細める。

「…何かありましたか?顔色が悪いですよ」
「いいえ、大丈夫です。東京タワーの上の方ばかり見てたら、ちょっと目が回っちゃいました」

小さく笑って答えると、ココアの缶を開けてそっと口に運ぶ。
冷えた体に甘いココアが沁みる。なんだか鼻の奥がつんとして、泣きそうになって俯いた。
聡い安室さんに気付かれては駄目だ。安室さんには鬱陶しいだなんて思われたくない。ぎゅっと唇を噛んで耐えて、もうこの話は終わりにしてくれと願う。

「…そうですか。貧血かもしれませんね。今日はもう帰りましょう。携帯も購入出来ましたし、東京タワーも見れましたから。遅めになってしまいますが、ランチは僕の手作りパンケーキなんてどうです?」

優しい安室さんの声に、ゆっくりと息を吐き出す。もう一口ココアを飲んでから一度ぎゅっと目を閉じると、顔を上げて笑って見せる。

「…安室さんの作るパンケーキ、食べたいです」
「任せてください。それじゃあ、買い物をして帰りましょう」

強ばっていた体から力が抜けるのを感じる。
お腹の中に重たい石が入ったような息苦しさも和らいで、私はゆっくりと息を吐く。
時間は正午を回ったところ。
安室さんは私の様子を見て、何か言いたげな表情を浮かべたものの、何も言わずに微笑んでくれた。

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