59

このままここにいたら、間違いなく私は死ぬ。頭の中でガンガンと警鐘が鳴り響いていた。
這って移動して、何とか体を起こしカーテンの隙間から窓の外を覗く。…一階ではない。二階か、三階くらいの高さはある。窓から飛び降りてと思ったけどこの高さでは無理だ。窓の鍵もかけられているし、こんな状態では窓を叩き割ることも出来やしない。
どうしよう、どうやって逃げればいい。焦りばかりが先走って、考えが上手くまとまらない。

「っあ、」

無意識に立ち上がろうとして、足を上手く動かせずに転倒する。縛られた足を見て表情を歪めた。せめて足が自由だったらなんとかなるのに…!
腕も足も縛られていては、見苦しくのたうつことしか出来ない。縛られている足首と腕に縄が食い込んで、動く度に擦れて痛い。擦り切れているかもしれない。
ばくばくと心臓が胸を打つ。こんな絶望的な状況、私にどう覆せというのか。
東都水族館での一件の時も絶望を感じた。死を感じた。恐ろしかったし、恐怖がすぐそこに迫っているとわかっていた。
でも、あの時は傍にたくさんのヒーローがいたのだ。赤井さんやコナンくん、そして安室さん…彼らの存在は、私にとって本当に心強いものだった。あの時私が折れずにいられたのは彼らの存在があったからだ。
けれど今は…今は、どうだ。私一人だ。
あの男達は、メールをしたと言っていた。安室さんやコナンくん、沖矢さん、蘭ちゃん…恐らく皆に、私になりすました「心配しないで」のメッセージを送ったのだろう。そのメッセージが私が送ったものでは無い偽物だと、きっと彼らなら気付いてくれる。けれど気付いたところで、ここまで助けに来れるかどうかなんてわからない。
きゅう、と唇を噛んだその時だった。
ばちん、と音がして部屋の電気が消え、再び真っ暗な闇に閉ざされる。
ブレーカーが落ちた?このタイミングで?それとも彼らがブレーカーを落としたのか?
混乱する頭で考えて、そうじゃないことに気付く。
床とドアの僅かな隙間から、真っ赤な炎がちらりと見えた。黒煙が少しずつこの部屋に入り込んでくる。

「…燃えて、る」

燃えてる。このドアの先は炎に包まれているのだろう。
ブレーカーは落とされたり落ちたりしたわけじゃない。…炎に巻かれて、恐らく電気配線がやられたのだ。
さぁ、と血の気が引いていく。

…ああ、私はもうダメなんだ。こんな身動きが取れない状態で、窓を破ることも出来ず、ドアを開けることも出来ず、ここから逃げ出せるわけがない。
近付いてくる死の気配に、感じたのは恐怖を上回る絶望だった。生きようと足掻く意思が、あっという間に絶望に色塗られて行く。
私はもう生きられない。私のすぐ後ろで、死神が笑っているような錯覚さえ覚える。ひやりと首筋に鎌をあてがわれているような心地だった。

床に放られていたスマホのディスプレイが明るく光って、バイブレーションの音を立てる。
表示されているのは…安室さんの、名前。電話を、かけてきてくれている。

「ッ…あむろさん、」

ぼろ、と涙が零れた。
床を這って、何度か取り落としながらも何とか後ろ手でスマホを掴む。ダイヤルボタンの位置を思い出しながら、指でディスプレイをタップすれば…スマホのバイブレーションが止まる。繋がっている。
スピーカーボタンを押す余裕はない。スマホを床に置くと、私は体を転がしてスマホに顔を近付けた。

『ミナさん?ミナさん!』

ああ、安室さんの声だ。微かにスマホから聞こえてくる安室さんの声に、不思議と安堵している自分がいる。
こんな死の直前で安堵するなんて不思議だな。…一人ぼっちじゃないと、思えるからだろうか。死の間際に、大好きな人の声が聞けるというのは…存外、悪くないのかもしれない。

「…安室さん、」
『ミナさん?!無事ですか!声が遠い、どういう状況です?!』

心配してくれているんだなぁ。…それもそうか。帰るはずの時間から、もう何時間も過ぎてしまっている。だと言うのに私からの連絡は心配しないでなんてメッセージなんて…安室さんなら、何かあったと気付いてくれるに違いなかったのだ。

「…腕と、足を縛られていて…身動きが出来ないんです、」
『周りに人はいないんですね?』
「はい。…さっき、出ていきました」
『すぐに向かいます、待っていてください!』

その安室さんの言葉に、何故だか笑みが浮かんだ。
私のいる場所がわかっているのか。どんな方法を使ったのかはわからないけど、すごいな。さすが探偵さんだ。
大好きな私のヒーロー。けれどもう手遅れである。
外から感じる熱と、部屋に満ち始める黒煙。焦げ付く匂い。私はここで、焼け死ぬだろう。

「…ごめんなさい、安室さん…」
『ミナさん?なんです?聞こえない…』
「私、この世界で生きるって言ったのに」

人は簡単に、突然に死ぬ。
涙が止まらない。
安室さん、安室さん。あなたが好きです。あなたが好きでした。この想いを伝えることはしません。死ぬ人間から想いを告げられても、あなたを困らせるだけとわかっているから。
強く唇を噛んで、震える吐息に声を乗せる。

「…ごめん、なさい。…ごめんなさい、」

何に謝っているんだろう。
生きると言ったのに死んでしまうことに対して?たくさん心配をかけてしまったことに対して?手間や迷惑をかけてしまったことに対して?
どれも正しく、どれも違うような気がした。今の私には…謝る言葉しか、持ち得なかったのかもしれない。

「ッ、げほ、っ…ごほ、ごほっ」
『ミナさんっ?…ッ、なんだあれは…火事…?』

黒煙が喉に詰まって咳き込む。息苦しい。
焼死って、結構苦しい死に方かもしれないな、なんてぼんやりと思った。苦しくて、熱くて、苦しいだろう。気を失えたら楽なのかな。

『ミナさん!まさかこの炎の中に?!』
「…あむ、ろさ…」

どうか、この一言だけ届いて欲しい。
ゆっくりと小さく息を吸い込んで、電話口に向かって呟く。

「…ありがとう、」

それが、私が安室さんに伝えられる全て。
私が呟いたと同時に、通話が切れる。ディスプレイはしばらく光っていたけれど、やがて真っ暗になった。

ドア越しに、燃え盛る炎の音がはっきりと聞こえてくる。
この世界で死んでも、おじいちゃんとおばあちゃんに会えるかな。世界が違っても、天国は同じだといいな。
少しずつ、熱や感覚や音が遠ざかっていくような気がした。…違うな、私の意識が遠ざかっているんだ。
安室さん、コナンくん、少年探偵団の皆や阿笠博士、沖矢さん、蘭ちゃんと毛利さん、園子ちゃん、赤井さん。それから、嶺さん、黒羽くん、青子ちゃん。
この世界で生きた時間は短いものだったけど…でも、たくさんの人と知り合って、とても幸せだったと思う。
さよなら、小さく呟いて目を閉じる。

バン、と大きな音…ドアを開けるような音がして、そのすぐ後に抱き起こされる。なんだろう。目を開けたい気持ちはあるのに、体に上手く力が入らない。

「そんな感謝の言葉、聞きたくないんですよ」

耳元で聞こえた声に、瞼が震えた。
鼻を掠める安室さんの匂いと…少しの汗の匂い。体が宙に浮くのがわかった。…抱き上げられている。
そのまま、がしゃん、と再び大きな音。それから重力を感じた後、軽い衝撃があった。

「ミナさん、」

安室さんの、声だ。
ゆっくりと目を開けると、安室さんが私の顔を覗き込んでいた。
あの炎の中、私のいた部屋まで駆け付けてくれたのか。そして…あの部屋の窓を割って、飛び降りたのか。
死ぬとばかり思っていたのに、私はまだ生きている。

「…あむろ、さん」
「ありがとうなんて聞きたくないです。…あんな場面で、あなたからの感謝なんて…聞きたくない」

その声は、酷く怒っているようだった。
地面に降ろされて、腕と足の縄を安室さんが切ってくれる。自由になった手足を見ると、やはり擦り傷になってしまっていた。血が滲んでいる。
ぼんやりとしていたら、消防車のサイレンの音が近付いてくるのに気付く。人の声もするから、野次馬が集まってきているのかもしれない。

「意識はありますね?」
「…はい、」
「煙は大量に吸いましたか?」
「…いえ、…床に転がっていたので…多分、そんなには」
「呼吸がしづらい等の症状は?」
「…ちょっと喉が痛い程度です…後は、軽い頭痛…でしょうか…」

ひとつひとつ答えると、安室さんはほっと息を吐いて頷いた。
それから再度私を抱き上げて、目立たないように建物の裏手側に回る。そこには見慣れたスポーツカーが停まっていて、そのまま助手席に座らさせられる。安室さんは椅子を深めに倒して、シートベルトまで締めてくれた。
それから車のトランクを開け、何かを手に戻ってくる。手渡されたそれを見て、私は目を瞬かせた。

「詳しい話は後にしましょう。今はとりあえずこの場を早く離れたい。それを口に当てて吸っていてください」

手渡されたのは携帯酸素の缶だった。…マラソンとかで選手が使っているのをよく見る、あれ。
安室さんは私が酸素缶を受け取ったのを確認すると、助手席のドアを閉めて運転席に乗り込んだ。それからアクセルを踏んで走り出す。

酸素缶を口に当てて吸いながら、私は安室さんに迷惑をかけてしまったという罪悪感に押し潰されそうだった。その気持ちでいっぱいだった。
たくさん心配も気苦労もかけてしまっただろうし、私がこんなことにならなければ安室さんが炎の中に飛び込むなんて危険な真似をしなくても済んだ。
安室さんだけじゃない、連絡をくれていたたくさんの人にも心配をかけてしまったことだろう。
誘拐されてしまったのも、元はと言えば私の不注意が原因だ。声をかけられて、正直に信じて道案内なんて申し出てしまったから。少しでも怪しいと警戒していたら結果は違っていたかもしれないのに。
安室さんの足を、引っ張ってばかりだ。私。
情けなさに視界が歪む。さっき泣いて、涙腺が緩んでいるのかもしれない。
どうして私はこうなんだ。悲しさが胸を満たす。情けなくて恥ずかしくて、私はゆっくりと目を閉じた。


***


アパートに着いて、安室さんに横抱きにされて部屋まで連れて行ってもらった。安心したのか腰が抜けて、立つことが出来なかったのである。
部屋に上がり、畳の上にそっと降ろされる。明かりの下で見ると、私の格好は酷いものだった。床を這いずり回ったからか、服は埃で汚れてしまっている。
安室さんはローテーブルに私のスマホと鞄を置いた。…私と一緒に回収してくれたのか。

「…何があったんです。…話せますか?」

目の前に座った安室さんに見つめられて、私はこくりと小さく頷いた。
嶺書房さんでの仕事帰りに男性に声をかけれれて道を聞かれ、案内しようとしたら拉致られたこと。彼らの目的は身代金で、両親や身内のいない私に価値はなく早々に切り捨てられたこと。証拠を消すために火を放たれたことも。
安室さんは私の話をじっと聞いて、話終わった後はなるほどと小さく呟いた。

「…いつも帰ってくる時間になっても帰ってこない。あなたに電話をかけても電源が切られていたみたいで繋がらないし、メールにも返事はない。コナンくんや蘭さんにも聞いてみましたが、二人とも知らないと言う。嶺書房さんにも電話しましたよ。既にあなたは退勤したと言われて、何かあったんだと思ったんです」

しまいには、どう見ても偽物のメールがあなたから届いて肝が冷えましたよ。安室さんはそう言って溜息を吐いた。
やっぱり、偽物のメールだと気付いてくれていた。その事が嬉しくて、じんわりと胸が温かくなる。

「…どうして、私のいる場所が…わかったんですか…?」

問うと、安室さんは小さく息を吐いて目を細めた。

「あなたに渡したスマホの、GPSを辿ったんです。犯行に及んだ男達がスマートフォンの電源を切っていたんでしょう。そして、身代金を要求する為に電源を入れた。…電源が切られていては反応しないので、初動が遅くなりました」
「…え?…でも、あのスマホのGPS機能は壊れてるって…」
「嘘です。…以前話した通り、あなたにこのアパートの場所をわからせるわけにはいかなかった。だから、ちょっとスマートフォンに細工をさせてもらっていたんです。GPS探知の方は問題なく使えるようにしてあったのですが…あなたに黙っていたのは申し訳なく思います。…こんな形で功を成すとは思っていませんでしたが」

そう、だったのか。
私はローテーブルの上のスマホに視線を向ける。

「…私、知らないうちに…安室さんに守ってもらっていたんですね、」

だから、あんなにすぐに来てくれたんだ。汗をかくほどに急いで、炎の中に飛び込んでまで。
私が小さく笑って言うと、安室さんはとても驚いたように息を飲んだ。それから、きゅうと眉を寄せて表情を歪める。
…安室さんのこんな顔、初めて見た。どうしてそんなに、辛そうな顔をするのだろう。

「…守れて、ないですよ」

ぽつりと呟かれた言葉に、私はゆっくりと瞬きをした。

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