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「全然、守れてなんかいません」

安室さんの声ははっきりとしていた。辛そうな表情は、以前私が刺されて入院した時に…初めて病室で対面した時にも見たけど、あの時とはまた違う表情に見える。
安室さんがどうしてそんな顔をするのかがわからなくて、私はゆるりと首を傾げた。

「…安室さん、私を…助けてくれました。守っていただきました」
「いいえ、違います。…あと五分遅かったら、あなたを永遠に失っていたかもしれない」

また繰り返すところだった、そう安室さんが呟いたのが聞こえた。
繰り返すって…どういう意味なんだろう。安室さんはもしかして、過去に誰か身近な人を亡くしているのかもしれない。…今尚悔やむほど。悔やむような、亡くし方を。
安室さんはしばらくの間床を睨むようにじっと考え込んでいたようだったが、小さく息を吐いて顔を上げた。

「…そのままではあなたも気持ちが悪いでしょう。お風呂どうぞ。そしたらあなたの手当をして…一緒に、夕飯を食べませんか。僕もまだなんです」

ほんの少しだけ微笑んでくれる安室さんにほっとする。まだどこかぎこちないようだったけど、さっきの辛そうな表情よりはずっといい。
私はこくりと頷いて、着替えを手に浴室へと向かった。
汚れてしまった衣類は洗濯すれば大丈夫だろうと考えて、洗濯物のカゴに入れる。
熱いシャワーを頭から被ると、手足の擦り傷がピリピリと痛んで眉を寄せた。…でも、痛みは生きてる証。…誰かが言っていたような気がする。死んだらこの痛みも感じることは出来ないのだ。
そっと腕の擦り傷を指でなぞる。

「…生きてる、」

私はまだ、この世界に生きている。


***


お風呂から上がると、安室さんが今日の夕食を温め直してくれていた。安室さんも着替えたようで、Tシャツとトレーナー生地のズボンを穿いている。席に着こうとしたら手当が先だと言われたので、腕と足首の擦り傷を丁寧に手当してもらい、その後は安室さんと一緒にご飯を食べた。
先程あったことなんて忘れたかのように、私と安室さんはいつものように何気ない会話をした。安室さんの話に相槌を打って、時々笑って。私は青子ちゃんと出会った話をして、安室さんも頷きながら聞いてくれた。
どこか何かがヒビ割れているはずなのに、私と安室さんはそのヒビに視線を向けずに話し続ける。互いに、話したいことはそんなことじゃないとわかっているはずなのに。
けれどもその時間は、とても幸せだった。いつもの穏やかな時間を変わらず過ごせることが…とても、嬉しかった。
安室さんの淹れてくれたホットミルクを飲みながら会話を続けて、そうして気付けば日付を超えてしまっていた。そういえば、と私はコナンくんや沖矢さん、蘭ちゃんに連絡を返せていないことに気付く。…きっとまだ心配してる。

「…コナンくんと沖矢さん、蘭ちゃんからも電話がきていたんです。連絡を返さないと…」
「それなら心配はいりませんよ。コナンくんには連絡しておきましたから、そこから話は行っていると思います」

さすが安室さん。既に手は打ってくれていたのか、と思いながら小さく頷く。

…なんだろう、ぼんやりしているのに眠いわけじゃない。むしろ、眠くない。…目を閉じると、あの部屋の暗闇と埃っぽさ、それから黒煙の匂いを思い出す気がする。もう息苦しさや頭痛はないのに、喉がきゅうと絞まる心地だった。思い出したくない。
でも、もう日付を超えてるし…私も安室さんも明日があるから、そろそろ寝ないといけない。…少なくとも私の不眠に安室さんを付き合わせるわけにはいかない。

「…あの、そろそろ、」
「ミナさん」

顔を上げて安室さんを見ると、安室さんはテーブルに頬杖をついてこちらを見つめていた。
ぱちぱちと目を瞬かせていたらほんの少しだけ微笑まれる。

「明日僕はオフですし…嶺書房さんにも連絡しておきましたからミナさんも明日はオフです」
「え、」
「勝手なことをしてすみません。…でも、必要なことだと思いましたので」

必要なこと。
…確かに、そうかもしれない。ただでさえこんなにぼんやりしていて眠れそうにないのに、こんな状態で明日仕事に出ても…逆に迷惑になってしまう気がする。でも、シフトに穴を空けてしまうことに胸が痛んだ。…嶺さんに悪いことをしてしまったな。

「だから、もう少しお話しませんか。あっちの部屋で」
「…あっちの部屋で?」
「そう、あっちの部屋で」

安室さんが指差すのは寝室でもある畳の部屋だ。私がそちらを見つめていると、安室さんは椅子から立ち上がり私の隣に来て手を差し出す。

「ね、」

おずおずと安室さんの手を握り立ち上がると、そのまま手を引かれて二人で寝室へと入り、安室さんと並んでベッドを背もたれにして座り込んだ。
…こうして隣同士で座るのは初めてかもしれない。いつも向かい合わせに座っていた気がする。ほんの少しだけ空いた距離をちらりと見つめ、私は立てた自分の膝に視線を落とした。

「…ミナさん」
「はい、」

声をかけられて視線を上げる。

「あなたを悩ませている原因を、知りたいんです」

安室さんの言葉に、私はぱちりと目を瞬かせた。
悩ませている原因。安室さんの言っている意味がわからなくて、少しだけ視線を下げる。

「悩ませている原因なんて…」
「ありますよね。少し前から、あなたは僕に対して一線引くようになった」

僕が何かしたんでしょうか? そう問われて、私はゆるゆると首を振る。
一線を引くようになったなんて、安室さんからはっきりと言われるなんて思わなかった。でも、安室さんの言うことも私はちゃんとわかっているのだ。
あの素敵な女性にあった日から。安室さんに釣り合わないと考えて、想い続けられるだけでいいなんて自分に言い聞かせて、見返りなんていらないと…期待なんてしてはいけないと自分を律して、心穏やかでいられるなんてそんなわけ、なかった。それは安室さんの言う通り、私が一線を引いただけだ。彼に近付き過ぎないよう境界を作った。
でも、だって、仕方ないじゃないか。私では安室さんの隣に立てない。彼の隣に並べるような女性になる努力なんて、したって無駄で終わるのが目に見える。卑屈になっているわけじゃない、そもそもの根本が違うのだ。
だから勘違いをしないために、見返りを求めないために…浅ましく期待を持たないために、一線を引くしかなかった。

「…安室さんが何かをしたわけじゃ、ないです」
「じゃあ、その原因はどこにあるんです」
「私個人の、問題なので」
「違いますよね」

安室さんの声は優しいけれど、問い詰めるような雰囲気があった。
この件に関しては、あまり踏み込んで欲しくなかった。これ以上苦しい思いをしたくなかった。だから、言ってしまった。

「でも、最初に一線を引いたのは安室さんじゃないですか」

確かに、怪しかったと思う。出会ってすぐの見知らぬ男性を家に上げて、何を企んでいるんだと思われても仕方なかったと思う。けれど私は、あの時の一線が…私の出そうとする紅茶やコーヒーを口にしようとしない安室さんの行動が、ずっと引っ掛かっていたのだ。
これだけ安室さんにたくさんの恩があるというのに、そんな小さな一線がずっと忘れられなかった。そんな一線もう感じられないくらい安室さんには良くしてもらったのに、その境界を意識していたのは私の勝手だ。
こんな、八つ当たりみたいなこと言うつもりなんてなかった。ぐっと胸が痛んで、小さく頭を振る。
…謝らなくちゃ。そう思うのに、喉に空気の塊が詰まったように声が出ない。

「ええ。あなたに対して一線引いたのは僕が先です。そして、あなたがそれに気付いていることも知っていました」

ゆるりと顔を上げて、安室さんに視線を向ける。
安室さんは変わらず私を見つめていた。

「あなたにお世話になりながら、そしてこちらの世界であなたと生活しながらも、僕には守らなくてはならない境界がありました。その境界が何なのか、あなたにお話しすることは出来ません。僕には隠し事がたくさんありますが、ひとつとして今あなたに話せることはないんです。それはあなたを騙しているのと同じことだ」
「…そんな、騙すなんて」

そんなつもりで言ったんじゃない。
わかっていた。安室さんは意味もなくそんなことをする人じゃない。境界線にも絶対に何か理由があるのだと。私が聞かなくても良いことは問い詰めたりしない、聞くつもりもない、そう決めたのは私自身だ。
慌てて安室さんの方に向き直って首を振るが、安室さんはそれを制すように小さく笑った。

「申し訳なく思っています。けれど僕は、そのことを理解しながらも…何も聞かないでいてくれるあなたの存在を、心地よく感じていました。守らなくてはならない境界線がある。しかしその上で、僕はあなたの存在を必要としているんだと思います。自分勝手だと笑われても仕方ありませんね」

苦笑する安室さんを見て、とくりと胸が小さく音を立てた。
きゅうと胸が切なく痛んで、けれどもぽかぽかと温かくて、安室さんへの想いが溢れ出しそうになる。

「…あなたが誘拐されて、僕はあなたを守ることが出来なかった。でも、心から間に合って良かったと思っています。…怪我をさせてしまいすみませんでした。…本当に、生きてくれていて…良かった」

限界だった。
鼻の奥がつんとして、目の奥が熱くなって視界が歪んで…頬を、溢れる涙が伝い落ちていく。
私はそれを拭いながら、必死に首を横に振る。
違う。安室さんが謝ることなんて何も無い。

「守って、いただきました。私、安室さんがいなかったら、し、死んでました。怪我だって私が、勝手に…!違うんです、違います、安室さん何も悪くない、私が、私があんな、誘拐なんてされなかったら、安室さんに迷惑かけることもなかったのに!」

涙が邪魔をして上手く言うことも出来ない。
安室さんが私の頬に手を伸ばして、涙をそっと拭ってくれる。その手の温かさに安心して、何故だか更に涙が溢れた。

「迷惑なんて思ってません。あなたはただ事件に巻き込まれただけだ。あなただって、何も悪くない」

知らない男性に声をかけられた。駅までの道のりを教えるだけのつもりだった。駅だってすぐ近くだったからと油断していた。けれど…油断していなくても防げるようなことでは、なかったのかもしれない。

「怖かったでしょう」

ひく、と喉が震えた。

「……こわ、かった」

あの真っ暗な部屋で身動きが取れず、恐怖に震えた瞬間を思い出す。歯の根が合わずにかちかちと音を立てていた。生きてきた中で、初めての大きな恐怖と絶望だった。

「怖かった、」
「はい」
「怖かった…っ!」

ぐ、と安室さんに抱き寄せられる。
背中をぎゅうと抱きしめられて、片方の手で頭を優しく撫でられる。胸が震えた。涙腺が壊れてしまったかのように、涙は後から後から溢れてくる。
安室さんの胸元に顔を埋めながら、あの時感じた大きな恐怖を打ち消すほどの大きな安堵感に…私は、安室さんに縋り付いていた。

「ミナさん、…もう、大丈夫ですよ」

みっともなく声を上げながら泣いた。私の頭を繰り返し撫でる安室さんの手に胸が温かくなった。


沢山泣いて、涙も枯れた。ひくりひくりとまだ呼吸は忙しないけれど、沢山泣いたせいか気持ち的にはとてもすっきりしている。瞼が重いから、きっと赤く腫れ上がっているだろうな。不細工に違いないから、今は安室さんに顔を見られたくない。
…なんて、そんなのは言い訳に過ぎない。安室さんと離れたくないだけだ。
優しく背中を撫でる手が、彼の体温が、匂いが心地よくて、私は安室さんにほんの少し力を抜いて凭れかかったままでいた。…もう少しだけ、こうしていたいと思った。

安室さん、安室さん。あなたが好きです。
死ぬかもしれないと思った時にも同じことを胸の内で叫んだが、あの時よりも想いが強まっているような気がした。まだ、たった数時間しか経っていないのに。
日々過ぎる毎に安室さんのことが好きになる。
毎日あなたに、恋をしている。

「ミナさん、…あなたのことを、」

ふと、安室さんがそっと呟く。
私の背中を撫でる手が動きを止める。

「好きになっても、いいですか?」

とくり。
私の心臓が、一際強く胸を叩いた。

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