61

好きになってもいいのかと、安室さんはそう言ったのか。安室さんは、息を飲んで言葉を失った私の体を少しだけ離すと、正面から目を合わせた。その瞳は静かな光を湛えていて、とても真剣…なように、見える。

「…赤くなってしまいましたね」

安室さんの指がそっと私の目元をなぞって、思わずハッとした。泣きすぎて腫れぼったくなった目元、酷い顔をしているに違いない。
そんな顔を真正面から安室さんに見られていると理解した瞬間、顔にかっと熱が上がった。
ものすごく、恥ずかしい。

「あっ、あの、あまり見ないでください…!目腫れてて絶対すごく不細工なので…!」

ここ数日の間忘れていたというか、抑えていたというか…そういう、安室さんに対する羞恥心みたいなものが一気に吹き上げてくる。
どうしよう。恥ずかしい。恥ずかしいのに、見て欲しくないのに、安室さんに触れてもらえることが嬉しい。どきどきと心臓が高鳴って、どうにかなってしまうんじゃないかと思う。
というか、安室さん…先程何と言った?
好きになってもいいですか、とそう言ったのだ。私の妄想で聞き間違いでなければ。

「不細工なんかじゃないですよ。…あなたは、本当に自分に対しての評価が人一倍低い」

顔を手で覆っていれば、安室さんの手が私の頭を撫でるのがわかった。
そんな、優しく触れないで欲しい。勘違いしてしまう。もっとと求めてしまう。そんな浅ましい自分は嫌なのに、自分の気持ちを自分でコントロール出来なくなってしまう。

「ミナさん、顔を見せてください」
「でも、」
「大丈夫ですから」

優しく言われて、そっと手を下ろす。顔を上げることまではできなかった。恥ずかしくて目を合わせることなんて出来そうにない。
けれどそんな私の顔を見て、安室さんは嬉しそうに笑ったのである。

「…良かった。あなたの、その顔が見たかったんです」
「……その顔って」
「頬を真っ赤にして照れている顔。少し前は目を合わせたりするとすぐにその顔をしてくれていたのに、どういう心境の変化なのか…境界線を決めてから、出会った当初の反応に戻ってしまっていましたから」

ぼぼぼ、と体温が上昇する気がする。
恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだから、これ以上からかうのはやめて欲しい。
自覚はもちろん、ある。態度が変わってから、安室さんに何かあったんですかって聞かれたのはこういうことだったのか。そりゃ、少し前まで顔を合わせるだけで赤くなったりしていたのが突然なくなったら…変に思うのは当然かもしれない。

「…私は恥ずかしさで死んでしまいそうなんですが」
「羞恥心で死んだ人はいませんよ」
「…なんでこんなみっともない顔が見たいんですか」
「みっともないなんて思ったことはありませんが…嬉しいですよ」
「……嬉しい…?」

確かに私が顔を赤くする度に安室さんは嬉しそうな顔をしていたけれど、そもそもそれがどうしてなのかも分からない。
私が顔を上げて小さく首を傾げると、安室さんは小さく笑って頷いた。

「ええ。…だって、それだけ意識されてるってことでしょう?」

男として。
にこりと笑いながらそんなことを言われる。
羞恥心で死んだ人はいないなんて言うけれど、私はもしかしたらその記念すべき第一号になるのではないだろうか、なんて馬鹿なことを思った。


***


そろそろ寝ましょうか、と安室さんに言われて時計を見れば、もう夜中の二時前だった。
うとうととし始めているのを自覚しているけれど、それでも暗がりに浮かぶ恐怖は未だ拭えそうにない。それはもうトラウマに近いものなんだと思う。この恐怖が消えるまでは、寝付きも良くはないだろう。仕方の無いことだ。
恥ずかしい気持ちは大分落ち着いたけど、それでもやっぱり安室さんを見ると胸が高鳴るのはどうしようもないな。こんな気持ちを捨てるためにここ数日間自分の気持ちに蓋をしていたというのに、あっさり安室さん自身に暴かれてしまって何だか無駄な時間を過ごしてしまった気分だ。…所詮、無駄な足掻きだったんだろうな。遅かれ早かれ、安室さんに対しての気持ちを抑えられなくなっていたに違いない。
私がベッドに横になったのを確認して、安室さんが部屋の電気を消してくれる。部屋が暗くなって体が竦むのを感じた。…蘇る恐怖に、ぎゅうと手を握りしめる。

「ミナさん」

暗闇で、安室さんの声がする。無意識のうちに詰めてた息を吐き出しながら、ほんの少し顔を上げた。
窓から差し込む月明かりが、安室さんの横顔を照らしている。
…あれ、こんなこと、前にも。

「触れても?」

その問いに、ゆっくりと瞬きをする。
そうだ。私が刺されて、退院したばかりの時だ。夜中に鎮痛剤の効果が切れて痛みに眠れなくなった日。あの日も、安室さんは私にそう尋ねたのである。触れても良いかと。
安室さんの手が私の頭を撫でる。ゆっくりと一度頷けば、安室さんが小さく笑う気配がした。
ぎしりとベッドが小さく軋んで、安室さんがベッドに乗り上がってくる。安室さんの寝れるスペースを作ろうと壁際に寄ろうとしたら、そっと肩を掴まれて制された。

「どうか、そのままで」

小さく囁かれて、横になった安室さんに優しく抱き寄せられる。
胸が高鳴る。恥ずかしさに顔が熱くなって、体が緊張に強ばった。そんな私に気付いたのか、安室さんは私の頭上でくすりと笑う。

「…嫌ですか?」
「……安室さん、わかってて聞いてませんか」
「いいえ、ちっとも」
「…………嫌じゃ、ないです」
「それは良かった」

嫌なわけがない。好きな人にこうして抱き締められるなんて、幸せじゃなかったらなんなのだろう。
ほんの少しだけ安室さんの胸元に頬を寄せると、安室さんが私の背中を抱き直して優しく撫でてくれる。…あぁ、なんて幸せで贅沢なんだろう。

「眠れそうですか?」
「……実は、あまり。眠気はあるんですけど、その…」
「それじゃあ、このままもう少し話をしましょうか」

暗闇が怖くて、と言う前に、優しい声に遮られた。
きっとこの人は、全てわかっているんだろうな。私が暗闇の恐怖に苛まれてしまっていることも、恐らくは私の気持ちさえも。…というか、安室さんを前にして真っ赤になっておいて、聡いこの人が気付かないわけがない。少し考えればわかることだと思いながら内心頭を抱えた。私の気持ちなんてきっと、最初からバレバレだったんだろう。

「…あの、安室さん」
「なんですか?」
「……その、…さっきの…なんですけど」
「好きになっても、という?」
「…その、はい。…それ、どういう…」

好きになってもいいですか、なんて。…とても困る。嫌じゃないから…嬉しいから、困る。
ライクかラブかなんてさすがの私でもわかるけど…でも、万が一億が一これでライクの方だったら笑い話にもならない。

「どういうって、そのままの意味ですよ。…あなたを女性として好きになってもいいですか、という意味です」
「……随分はっきり言うんですね」
「はっきり言わないと上手く伝わらないとわかりましたから」

安室さんへの気持ちを抑えられなくなっても、私が彼に釣り合わないという考えは変わらない。いつか安室さんの隣に相応しい素敵な女性が現れた時に、きっと私はこの気持ちを捨てることを考えてしまう。でもそれは、とても辛いことだ。苦しいことだ。
その時のことを考えると、どうしても思い切って一歩踏み出すことが出来ない。安室さんのことが好きなのに、安室さんの思いに私では応えることが出来ない気がする。

「別に、あなたからの見返りはいりません」
「えっ」
「僕が勝手に、あなたのことを好きになるだけです。…想うだけなら、僕の自由でしょう?」

それは、まるで。まるで、安室さんのことを好きでいたいと思っていた私のようで。
一方的でいいと思っていた。見返りなんていらないと、期待なんてしないと思っていた。諦めてさえいれば、想うだけで幸せでいられた。でもそれも最初のうちだけだ。少しずつ安室さんに私を見て欲しいと願うようになってしまった。触れる度に期待してしまうようになった。それは、底の知れない苦しさを伴っていた。

「だめ、です」

私はゆるゆると首を振った。
逃げては駄目だと目を細める。

「私にも…考えさせてください。これからのこと。安室さんのこと。…あの、私…自分に自信が無いんです。安室さんみたいに完璧な人の隣に、胸を張って立てる自信がないんです」

ぼんやりとした記憶に引っかかっている、誰かの言葉。

“あいつはいい男だぞ。…それに見合うくらい、お前もいい女になれ”

誰に言われたのかはまるで覚えていない。でもその言葉は、私の中に不思議としっかり残っていた。
安室さんに見合うような、いい女になりたい。今のままの私では駄目だ。

「そんなことは、」
「ない、なんて言わないでくださいね。…駄目なんです、今のままの私じゃ。…何をどうしたらいいかなんてまだわからないけど…でも、ちゃんと考えさせてください」

立ち止まっていてはいけないと思うから。自分とも安室さんとも向き合って生きていきたいと思うから。

「ちゃんと…あなたに好きになってもらえるようなそんな女性になれるように…頑張るから」

なりたい自分を想像して、それを目指す。それだけで真っ直ぐに前を向くことが出来る。そう教えてくれたのは安室さんだ。
理想の自分になるなんてきっと一生無理だと思う。きっと理想ばかりが浮かんで、それを全て叶えることは出来やしない。それでも、前に進む力になるのなら。

「…本当に、あなたという人は」
「っ、わ、」

ぎゅう、と安室さんに抱き締められて変な声が出た。
必然的に安室さんの肩口に顔を埋めることになって、一気に上がる体温に私は目を白黒させた。
大好きな安室さんの匂い。胸がいっぱいになって、ほんの少し切なくなる。

「…本当に、あなたには敵いませんよ」
「…それは、こちらのセリフなんですけども」

好きになったら、それが全て。
そっと安室さんの背中に腕を回したら、更にぎゅうと抱き締められる。安室さんに触れたところから想いが溢れてしまうような気がする。

「…ミナさん、」

ほんの少し身体を離した安室さんを見上げれば、安室さんの指が私のうなじから首筋、頬…そうして唇をなぞっていく。とくりと心臓が跳ねた。
暗闇の中でじっと安室さんと見つめ合い、じっと視線を絡めているとくらりとした。
衣擦れの音とともに、安室さんが顔をそっと近付けてくる。あ、と思ったけれど、こんなにも安室さんへの想いで溺れてしまいそうなのに拒むことなんて出来やしない。ゆるりと目を閉じた。

ふわりと触れる唇。触れた瞬間きゅんと胸が痛んで、幸福感で満たされる。
優しいキスは一度だけ。安室さんはキスをしたまま私の頭を優しく撫でると、そっと唇を離した。そうして、再び抱き締められる。

「…続きは、ちゃんとあなたの気持ちが定まるまで取っておきます。…突然すみませんでした」

ふるふると首を振る。曖昧なまま、それでも安室さんを受け入れたのは私だ。
安室さんの胸元に頬を寄せて目を閉じる。安室さんの心臓の音も、ほんの少し速いように感じられて小さく笑った。
私の心臓もまだ少し速めに音を立てていたけれど、それさえも心地よく感じる。

「…おやすみなさい、安室さん」
「…ええ、おやすみなさい。…ミナさん」

暗闇は怖いけど、きっと悪夢は見ないだろう。

私は、こんなに幸せでいいのだろうか。

Back Next

戻る