62

眩しい日差しで目が覚めた。夢を見ないほどにぐっすり眠った気がする。とても心地の良い眠りだったようだ。
小さく身動ぎすると、頭上からくすりと笑う声が聞こえた。
それと同時に私はかちんと体を強ばらせる。昨晩のことを、はっきりと思い出してしまったからだ。
顔が上げられない。目を開けられない。せめてもと自分の顔を両手で覆えば、今度こそはっきり安室さんの笑い声がして一気に顔が熱くなる。

「ふ、ふふ、おはようございます、ミナさん」
「…………おはようございます…あの、見ないでください……」
「とても気持ちよさそうに寝ていましたね」
「いつから見てたんですか…!」

私の寝顔なんて見ていたって楽しいものでは無いだろうにどうしてそんなに面白そうに笑うのか。指の隙間からそろりと安室さんの顔を窺えば、彼は私を見つめたまま柔らかく、優しく微笑んでいた。その表情にきゅんと胸が疼く。
…こんなまるで中学生の恋愛じゃあるまいし。ときめき耐性のない自分が不甲斐ない。

「よく寝られました?」
「…はい、お陰様で……」

私がゆっくり寝られたのは、間違いなく安室さんが一晩中傍にいてくれたからだろう。一人だったらきっと眠れなかった。…なんだか子供みたいだと思って尚更情けなくなってくる。
安室さんがいなくても大丈夫なようにならなくては。…なんておかしいのはわかっている。そもそものスタートラインがズレているというか。このままだと安室さん無しで生きられなくなりそうだと危惧しているのである。
揺らいではいけない。安室さんのことが好きだというのと、安室さんがいなければ生きていけないのとでは話がまるで違う。自活出来ないなんてそれ人としての問題だろう。
ぐるぐると考えていたら、安室さんに頭を撫でられる。その心地良さに安堵して、思わずうとうととしてしまうのは仕方が無いことだと思う。無意識に安室さんの胸元に頭を寄せれば、昨晩のようにぎゅうと抱きしめられた。

「…今何時ですか?」
「昼前くらいですよ。もう少し寝ます?休日の二度寝ってすごい誘惑ですよね」
「…起きます。せっかく安室さんお休みなのに…私の二度寝に付き合わせたくないですもん」
「おや、大歓迎なんですけど」
「…でも、嶺書房さんのお休みもいただいちゃってるし…寝る気分にはなれなくて」

嶺さんに無理を言ってお休みにさせてもらっている身分である。私が出勤出来ないせいでもしかしたら嶺書房さんは臨時閉店を余儀なくされたかもしれない。そんな状態で、二度寝をする気分にはなれなかった。
私が視線を落としていると、安室さんがとんとんと優しく私の背中を叩く。

「ミナさん」
「…はい… 」
「少し早いランチにしましょうか。それで、食べ終わったら出かけませんか。外もいい天気ですし」

安室さんの言葉に顔を上げて、窓の外に視線を向ける。カーテンの隙間から見える空は青い。きっと外はとても気持ちが良い気候だろう。

「…でも…」
「ミナさん。仕事を休ませたのは僕の独断です。そして、僕はそれが必要なことだと判断しました。あなたが後ろめたく思うことはありませんし、嶺さんからもゆっくり休むようにと言付かっています。…今日ゆっくり休んで、明日からまた頑張ればいいんですよ」

私もちょろいなぁ。
そんなことを言われたら、じゃあいいか、なんて思ってしまう。意思の弱さに情けなくなるけど、安室さんの手にかかると私なんてあっという間にふにゃふにゃになってしまうのだ。
こんな浮かれて舞い上がっていてはいけない。そう思うのに…胸の高鳴りが止まらない。

「そう…なんでしょうか」
「ええ、そうですよ。さぁ、ランチにしましょう。パンケーキなんていかがですか?」
「安室さんのパンケーキ大好きです」
「決まりですね」

安室さんに手を引かれて体を起こす。
…ああ、蕩けてしまいそう。私は本当にこの人のことが好きなんだなぁとしみじみ思いながら、私も安室さんに笑みを返した。



安室さんお手製のパンケーキ(瑞々しいフルーツと生クリームたっぷりで、ちょっとオシャレなお店で出てくるような出来のものだった)をいただいた後は、私が食器の片付けをした。
それから洗濯機を回して、洗い終わったものを安室さんと一緒にベランダに干す。干し終わった後に安室さんが栽培をしているプランターの様子を見ていたので、私もしゃがんで安室さんの手元を見つめる。育てているのはネギやセロリ、黒トマトなど様々。
家庭菜園ってなかなか難しいと思っていたんだが…安室さんみたいな人は本当になんでもこなしてしまうようだ。
そういえば、と思い聞いてみる。

「黒トマトって珍しいですよね。普通の赤いトマトは栽培しないんですか?」
「リコピンって聞いたことありませんか?」
「えぇと、トマトに含まれる身体にいい…なんか、そういうイメージが」
「そう。リコピンは強い抗酸化作用を持つので生活習慣病の予防や血液の流れを良くします。美肌効果もあるんですが、黒トマトには普通のトマトよりもリコピンが多く含まれているんです」

おお、勉強になる。
安室さんは話し上手だから聞いていてもわかりやすいしもっと聴きたくなる。

「更に、黒トマトにはポリフェノールの一種であるアントシアニンが含まれます。アントシアニンはブルーベリーに含まれることで有名でしょうか」
「…ということは、目にいいんですか」
「ええ。目の疲れを取り、働きを良くする効果があります。更には内臓脂肪を減らしたり、花粉症の症状を和らげる効果もあります」
「えっ、すごい。赤いトマトよりも優秀なんですね」

恐るべし黒トマト。
黒トマトの様子を見ると、まだ少し小さいように見える。収穫まではもう少しかかりそうだ。

「酸味も少なくて、トマトが苦手な人にも食べやすい味なんですよ」
「へぇ…栄養豊富で食べやすいなんてすごい」
「収穫したら一緒に食べましょうね」

不意打ちに頬が赤く染まる。な、なんというか…なんというかすごく恥ずかしい。収穫したら一緒に食べようと言われただけなのに、その日が楽しみで仕方がない。俯いてこくりと頷くことしか出来なかったが、安室さんは小さく笑っているようだ。

「あと、」
「…はい?」

話にはまだ続きがあったのかと思いながらそっと顔を上げる。

「純粋に僕、赤い色が嫌いなんです」

にこり。
微笑まれて、ひくりと頬が引き攣った。
…安室さん、なんて綺麗に笑うのでしょうか。綺麗すぎてやや寒気すら覚える笑みに、私はぽかんとしたまま目を瞬かせた。
赤い色が嫌い。絶対に忘れないように覚えておこうと胸に刻み込む。安室さんに何かを渡す時は赤い色を避けようと心に決めた。…東都水族館のイルカのストラップのお土産、赤を選ばなくて良かったと胸を撫で下ろす。
…赤、と聞いて思わず赤井さんのことを連想してしまったけど…無関係、だよね?
ちらりと安室さんを見るも、もう赤色の話をするつもりは無いようだ。私もこれ以上は何も言うまいと口を噤んだ。


***


のんびりと支度をして、私と安室さんは家を出た。
安室さんはサマーニットにジャケットを羽織ってジーパンを穿き、私は安室さんにもらったシャツワンピースを着た。

「退院の日に見た時も思いましたが、よくお似合いですよ」
「あ、ありがとうございます…。着やすいし可愛いし、すごくお気に入りです」
「似合うと思って選んだので、そう言ってもらえて嬉しいです」

さりげなく褒められてどきまぎしてしまう。一緒に並んで駐車場へと歩きながら、なんかこれデートみたいだな、とうっかり考えてしまい自爆した。思わず立ち止まって両手で顔を押さえていたら、数歩先から安室さんが不思議そうに振り向いていた。恥ずかしさで死ねる。

「…それで、あの、どこに行くんですか?」

車の助手席に乗り込みながら尋ねた。
出かけるとは言っていたものの、どこに行くかまでは聞いていない。私も家にいるよりは外に出たかったから連れ出してもらえたのはありがたいのだが、安室さんはどこに向かうつもりなんだろうと首を傾げる。

「どこがいいですか?」
「えっ」

くす、と笑いながら問いかけられて目を瞬かせる。
質問に質問を返されるとは思ってなかった…。どうしよう、今自分はどこに行きたいだろうと眉を寄せて考え込んでいれば、運転席の安室さんが吹き出した。

「えっ?」
「ふ、…ふは、すみません。そこまで真面目に考えると思ってなかったので」
「えっ、あれっ、もしかしてからかわれただけですか私」
「さぁ、行きましょうか」
「えっ、えっ?」

混乱する私を乗せて、白いスポーツカーはゆっくりと走り出す。

そうして安室さんの安全運転で揺られること二時間弱。 高速に乗り、一度だけサービスエリアで休憩をして向かった先は。

「わぁ…、」
「丁度良い時間に来られましたね」

七里ヶ浜。
私と安室さんは、神奈川県鎌倉市の七里ヶ浜にやって来ていたのである。
日が傾いて、空が朱く染まっている。海の水面はキラキラと輝いて、あまりの眩さに目を細めた。
車を降りて安室さんと一緒に浜辺へとのんびりと歩き出す。まだ海開きは当分先だからか、浜辺には人の姿も少なかった。何人か学生の姿もあるが、近くの高校の生徒だろうか。

「あっ、すごい。富士山も見える」
「ええ。…あそこが江ノ島で、あれが三浦半島。一望出来るのはすごいですよね」

海なんて来たのはいつぶりだろう。小学校や中学校の頃は学校の行事で行ったりもしたが、高校や大学に入ってからは海の記憶が無い。祖父母はアウトドア派ではなかったし、下手したら十年以上来ていないのではないだろうか。

「…すごい、綺麗…」
「気に入りました?」
「とっても!」

夕日が海の向こう、地平線へと沈んでいく。はっとしてスマホを取り出した。太陽が沈む前に一番綺麗な今の状態を写真で撮っておかないとと思いながら、カメラアプリを起動して海へと向ける。
かしゃりと音がして画像が保存され、確認して我ながら綺麗に撮れたと頷いた。うん、すごく綺麗。スマホの待ち受けにしようかな、と思いながら夕日の画像を映したディスプレイを安室さんに向ける。

「見てください、よく撮れてると思いませんか?」
「本当だ。ミナさん、写真撮るの上手いですね」
「普段写真とかあまり撮らないんですけど、なんかこれは上手く撮れちゃいました。安室さんにも送りますね」

メール画面を起動して安室さん宛てに画像を送る。送ってから、はっとした。
安室さん赤い色は嫌いと言っていたけど…夕日も嫌いだったらどうしよう。真っ赤な夕日とかNGなのではないか。

「あっ、あのっ、夕焼けとか夕日とかお嫌いだったら削除してください…!」

慌てて言ったら、安室さんは丁度スマホで私のメールを確認していたところだったらしい。スマホを手にしたままキョトンと顔を上げて、私を見つめながら目を瞬かせている。

「嫌い?どうして?」
「いやあの、…赤い色が…嫌いとおっしゃってたから…」

もごもごと口篭りながら告げると、安室さんはぱちりと瞬きをしてから思わずと言ったように吹き出した。
それから、くすくすと肩を揺らしながら笑っている。…え、こんなに笑う安室さん初めて見たかもしれない。珍しい光景にまじまじと視線を向けてしまう。

「は、っ、はは、そんなこと、気にしてたんですか?」
「うっ、だって…!」
「さすがに嫌いな景色を見せにこんなところまでは来ませんよ」
「そ、そうですよねっ…!」

多分今私ものすごく間抜けな話をした。安室さんがまだ笑いを引きずってるところを見ると間違いなく間抜けな話をした。恥ずかしくなって頬が熱くなるけど、夕焼けの時間帯で良かったと思う。私の顔も安室さんの顔も赤く染まっている。私の頬の赤みなんてきっとわからない。

しばらく、安室さんと一緒に沈んでいく夕日を見つめていた。やがて夕日が沈み、辺りは薄紫色の闇に包まれ始める。先程まで近くにいた学生達も帰ったようで、気付けば大分人影も少なくなっていた。

「冷えてきましたし、そろそろ行きましょうか」

ぼんやりと海を見つめていたら、ふと肩にジャケットを羽織らされて振り向いた。温かくて大きなジャケットは、安室さんが着てきたものだ。確かに少し肌寒いと思っていたが、私が安室さんのジャケットを借りてしまうと安室さんが寒い思いをしてしまう。

「だ、大丈夫ですよ!安室さんが風邪引いちゃう、」
「この程度で風邪なんか引きませんよ。ミナさんはそれを着ていてください」

ジャケットを返そうとするも、さらりと安室さんに拒否されてしまった。それどころか、安室さんは私の手を引いて歩き出す。繋いだ手の温もりに、羞恥心よりも安堵が上回る。そっと握り返せば、安室さんの手にも少しだけ力がこもった。
…本当に、私はあとどれだけこの人の事を好きになるんだろう。何度この人に恋をしていくんだろう。

「近くに美味しいレストランがあるので、そこで夕飯を食べて帰りましょう」
「安室さんオススメのお店ですか?」
「ええ、僕オススメのお店です」
「じゃあ味は間違いなしですね!」

安室さんと顔を合わせてクスクスと笑う。
繋いだこの手を、離したくないと思う。

Back Next

戻る