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その日、安室さんはメールに書いてあった通り日付が変わる少し前に帰ってきた。ポアロでは私服だったけど、今はグレーのスーツを着ている。探偵のお仕事も大変だなぁと思いながら、私はぬるくなったホットミルクを飲み干した。…ミルクにはちみつを溶かして温めただけで、安室さんが作ってくれるホットミルクと大差はないはずなのだが…安室さんが作ってくれる方が美味しいのは何故だろう。隠し味でもあるのだろうか。「すみません…明日の夜は帰って来られなさそうです」
「え、お仕事そんなにお忙しいんですか?大丈夫ですか」
安室さんが夜帰って来られないくらい忙しいのは度々あったけど、今は落ち着いているものだと思っていた。安室さん、ゆっくり休める日はちゃんとあるのだろうかと心配になる。昨日は丸一日オフだったみたいだけど、それも私との外出に使わせてしまったし…ちゃんと寝れていればいいのだが、と思いかけて、安室さんの安眠妨害の理由が自分であることに頭を抱えそうになった。
「大丈夫ですよ。ちょっと立て込んでいて…明日一日あればなんとかなりそうなので。…ただ、夜にあなたを一人にしてしまうのが心配です」
「平気です!一晩くらいなんとかなります」
「しかし…」
安室さんがいなくても大丈夫だというところを見せなければと思って笑ってみせたが、安室さんは変わらず心配そうな顔をしている。
目を閉じて横になっているだけでも体力回復にはなると言うし、もしかしたら目を閉じているうちに寝てしまうかもしれないし、そうでなくても一日寝ないくらい大したことない。忙しい安室さんに心配をかけてしまうということの方が私にとっては問題である。
明日は日曜日で仕事もお休みだし、出掛けないで家のことをしながらのんびり過ごそうと考えた。
「本当に大丈夫ですから。私のことは気にしないでください」
「…ちゃんと寝てください、と言うのは…寝れないかもしれないあなたに言うべき言葉では無いかもしれませんが。せめて、体はきちんと休めてくださいね」
「ありがとうございます。明日は一日お休みだし、家でのんびりしてます」
そう言うと、安室さんは少しだけだが安堵したように見えた。本当に心配をかけてしまっているのだと実感して、早くこのトラウマもなんとかしなければと思う。安室さんにいつまでも迷惑はかけられない。…と言うと、彼は「迷惑だなんて思ってない」と言うのかもしれないけれど。
安室さんがスーツのジャケットを脱ぐのを見て、ハンガーを持って歩み寄る。
「そういえば、ミナさんは怪盗キッドにはあまり興味がないんですね」
安室さんがジャケットを手渡してくれるので、それをハンガーにかけながら私は首を傾げた。
「怪盗キッドですか?」
「ええ。今日、園子さんや蘭さんが話しているのを見ても自分から話を振ったりしていなかったので」
そういえば今日の彼女達は怪盗キッドの話題で持ち切りだったなと思う。怪盗キッドにファンがいるのはなんとなく知っていたけど、園子ちゃんがあそこまで熱烈なファンだとは知らなかった。
「興味がないわけじゃないですよ。ただ、なんというか…アイドルというか、架空の人みたいな…そこまで現実味がないというか。あまり悪い人にも見えないし…あ、もちろん盗みは良くないと思いますけど」
いつか黒羽くんにも話した通りだ。
盗みはよくないと思うしお騒がせな怪盗だと思うが、だからと言って悪い人だとは思えない。
新聞やニュースでしか見たことがないから彼がどんな人物なのかはほとんど不透明でわからないが、映像や写真を見る限り若いみたいだし…怪盗であることに、なにか意味があるのかもしれないと思ってしまう。
「怪盗キッドだって普段からあんな格好で飛び回ってるわけじゃないだろうし。一般人として過ごす日常が、あると思うんですよね」
誰しもが日常を持ち生活しているように、彼にも。
「…なるほど。あなたらしい」
「えっ」
壁にハンガーをかけて、安室さんの笑みを含んだ声にハッとして振り向く。私はまた何か変なことを言ったのだろうかと少し慌てるものの、安室さんは柔らかい笑みを浮かべている。…変なことを言ったわけではないらしい。
「そういう考えを持つあなただから、僕は惹かれるんでしょうね」
まるで自然と口から零れたかのような口調だった。優しく、穏やかな声と表情。
心臓が一気にうるさくなって、次いでぶわわと頬に熱が上がった。ついでに言えば、ネクタイを外す安室さんの仕草がものすごくセクシーで見ていられない。
この人は自分の仕草が破壊力を持つことに気付いていないのだろうか。
「そ、っそういうのいいので…!!」
「ふふ、はい。シャワー浴びてきますね」
そのまま安室さんは浴室の方へと足を向けた。
ちゃんとドアが閉まったのを確認してから…私はベッドに俯せで倒れ込む。恥ずかしい。かっこいい。安室さんがかっこいい。
慣れたいのに…慣れることなんて出来ない。これからもきっとずっと、私は安室さんにときめいては恥ずかしくなって顔を赤くするんだろう。想像して、溜息を吐いた。
その後シャワーを浴びた安室さんと一緒にベッドに潜り込む頃には、夜中の一時を過ぎていた。
今日も私は安室さんの腕の中で目を閉じる。羞恥とそれを上回る幸福感、それと安心感に抱かれながら。
***
翌日目を覚ますと、安室さんは既に仕事に出てしまった後だった。
ダイニングキッチンのテーブルの上には安室さんお手製のサンドイッチ。私の分も作ってくれたんだろう、頭が上がらない。
昨晩もぐっすり眠っていたようで体の疲れなどは特に感じない。時間は朝九時過ぎ。天気もいいし、ご飯を食べたらまずは洗濯からしようかな、と考えて体を伸ばした。
ベッドのシーツを剥がして洗濯機を回す。今後しばらく使うかどうかわからないけど、安室さん用のお布団も干しておいた。
部屋に掃除機をかけて、食器も全部洗ってしまう。そうしている間に洗濯が終わるので、それをベランダに干した。
「気持ちいいなぁ」
ベランダでしばし住宅街を眺めながらぼんやりと過ごした。太陽の日差しも強いし、洗濯物がよく乾きそうだ。
そういえば、と思う。
怪盗キッドが予告状を出したのは今日だったっけ。どんなものを盗むのかとか、どこに盗みに入るのかとか調べていないし分からないが、きっと今頃園子ちゃんはそわそわしっぱなしなんだろうなぁ。コナンくんも行くみたいだったから(キッドキラーと期待されてるんだから当然といえば当然かもしれないが)、彼も今頃今晩のことを考えているのかもしれない。
「…怪盗キッド、か」
前いた世界では怪盗なんて考えられなかったな。手品のような鮮やかな手際で盗んで警察をも欺くなんて。そんなのは物語の中の話だと思っていた。そんなことが、この世界では多い気がする。
不思議な世界だけど、今では私の生きる現実だ。今は少しだけ感じている違和感も、いずれ感じなくなる日が来るのだろうか。
その夜のことだった。
買ってある食材を勝手に使うのも忍びなかったので、自分が食べる分だけ材料を買ってきて夜は簡単に済ませた。ずばり、目玉焼き乗せご飯である。ちぎったレタスと焼いたベーコンも一緒に乗せてロコモコみたいにして食べた。不味くはないが美味しくもない。自分の料理の下手さに凹む。
シャワーを浴びて、私は早々にベッドに潜り込んだ。明るすぎても寝れない質なので、豆電球を点けたのだが…やはり、眠れない。
ぼんやりと薄闇の中目を開けて横になっている分には問題ないのだが、目を閉じると駄目だった。じわじわと手先足先から冷えていくような、そんな恐怖を感じてしまってすぐに目を開けてしまう。
情けないな。体を起こして溜息を吐いた。
眠気はあるのにやたらと頭が冴えてしまっている。これは眠れないな、と思いながら私はベッドから立ち上がるとベランダのガラス戸を開けた。昼より少し気温も下がって涼しい風が頬を撫でる。
ベランダの柵に腕をついて、住宅街に視線を向けた。そうして住宅街の明かりを見つめていると、安室さんの言葉が蘇る。
光の一つ一つに人が住んでいて、生活している。数え切れない数、人が生きている。それだけの数の人生や物語がある。
独りじゃないんだな、と思う。
「こんばんは、お嬢さん」
突然聞こえた声にはっと顔を上げる。いや、私はもうお嬢さんなんて年齢じゃないけど。あまりに近くから聞こえたから思わず反応してしまった。
一体どこから、と視線を走らせて、
「すみません、驚かせてしまいましたか」
月の光に輝きはためく、白いマントを見た。息を呑む。白いシルクハットに…白いタキシード。月の光が逆光になっていて顔ははっきりと見えないが、モノクルをしているようだ。ベランダの柵に足をかけ、私を見下ろしている。
こんな格好の人物、少なくとも私は一人しか知らない。
「……怪盗、キッド」
私が呟くと、キッドはひらりとベランダに飛び降りた。現実味がないと思っていた人物が突然目の前に登場して私はかなり混乱していた。どうしたら良いのかわからずただぽかんと彼を見上げることしか出来ない。
「失礼、突然の無礼をお詫び致します。月の光に照らされたあなたが、どこか物憂げに見えましたので」
「…そ、…そうでしょうか」
「ええ。何か気掛かりなことでも?」
「いえ、その…少し、眠れないというか…」
「…それは大変だ。ほんの少しの時間ですが、良ければ話し相手にでも」
え、ど、どうしたら良いんだろう。私の動揺がキッドにも伝わっているのか、おろおろする私を見て彼は小さくクスリと笑っている。
「よ、…予告状の日って、今日でしたよね」
「おや、ご存知でしたか」
「…上手くいきました?」
怪盗を前にして私は何を言っているんだろう。そもそも怪盗キッドを悪い人だとは思っていないけれど、こんな呑気に話をして良い人物なのだろうか。
「いいえ。…小さな探偵に一杯食わされましたよ。しかし、宝石は私が求めていた宝石ではなく、私も逃げ仰せたので、引き分けですね」
…すごいなコナンくん。さすがキッドキラーと言われるだけある、と思いながら、私ははぁと気の抜けた返事しか返せなかった。
「…それじゃあ、私がここで警察を呼んじゃうとかは…考えたりしませんか?」
「しませんよ。あなたはそんなことをしない。何故ならあなたは私が悪人ではないと考えているから」
「…どうして知っているんでしょうかそんなこと。…通報はするつもりないですけども」
思わず苦笑が浮かんだ。するとキッドは、優しく笑った。…ように見えた。月光に照らされた彼の横顔が、穏やかに微笑んでいるように見えたのである。
なんだろう。その笑みが誰かに似ているような気がした。
「眠れそうですか?」
「え?うぅん、どうだろう…難しいかもしれないけど、でもあなたと会えたので良い夜だったかも」
「それは良かった。…美しいお嬢さんの顔色が悪くてはいけない。どうかあまり無理はなさらず」
「ふふ、怪盗さんが心配してくれるんですね」
私がくすりと笑うと、キッドは私の顔面でひらひらと手を振る。それから、私の手首の傷を覆うように手を乗せた。
「さぁ、あなたもカウントして」
「えっ?」
上質なサテンの手袋の感触。軽く手を揺らされながら、私はキッドの声に合わせて口を動かす。
「Three、Two、One…」
あれ、これって、と思いかけた時に、キッドの手元からポンっという音と共に何かが飛び出した。
上向きの私の手のひらに乗せられた、小さなうさぎのぬいぐるみ。真っ白で肌触りのいいぬいぐるみが、つぶらな瞳で私を見つめていた。
「わぁ!すごい、可愛い!!」
「喜んでいただけて何より。あなたの夢へのお供に、どうぞお連れください」
キッドはそう言うと、ひらりとベランダの柵へと飛び乗った。あ、と思っているうちに彼との距離が遠ざかる。
「またお会いしましょう。月下の淡い光の下で」
彼の声とともに、私の視界を靡くマントが遮っていく。そうしてはっと顔を上げた時には…彼の姿は、もうどこにもなかった。
辺りは静まり返り、穏やかな風が吹いている。夢でも見ていたのではないかと思うほどに、一瞬の出来事だった。
「…怪盗キッド、」
私の手の上に残されたぬいぐるみを見つめる。
真っ白なうさぎのぬいぐるみ。愛くるしい顔をしているなと思いながら、そっと指先でその頬をつついた。
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