65

気付けば、眠っていたようだった。
軽く揺さぶられる感触と、静かに呼びかけられるような声にゆっくりと意識が浮上していく。
ほんの少しだけ瞼に力を入れて目を開けると、スーツ姿の安室さんが私の顔を覗き込んでいる。…徹夜だったんだろうな。彼の顔はいつもと同じように見えたけど、ほんの少しだけ疲れたような色が見える。

「…あむろさん?」
「おはようございます、ミナさん」
「…お帰りなさい…」
「ええ、ただいま。すみません、起こしてしまって。でもミナさん、昨日玄関のドアの鍵開けたまま寝たでしょう」
「えっ…すみません、開いてました…?」
「何も無かったなら良いのですが、無用心ですよ。次からはちゃんと気を付けてくださいね」
「ごめんなさい…締めたと思ってました。ちゃんと寝る前に確認します」

うとうととしながら軽く目をこする。
鍵を開けたまま寝てしまったとか私だらしなさ過ぎないだろうか。安室さんの心配も当然だ。もっとちゃんとしっかりしなきゃ、と思いながら時計を見れば朝五時を過ぎたところだった。外はまだ薄暗い。安室さん、こんな時間まで働いていたのか。
体を起こそうとして、私の胸元から小さなぬいぐるみが転がり落ちる。あ、と思いながら手を伸ばして拾い上げた。キッドからもらった白いうさぎのぬいぐるみだ。…もしかして私が眠れたのはこれのおかげか、と思いながら目を瞬かせる。さすがに安室さんと一緒に眠る時ほど安眠とまではいかなかったが、それでも眠れたことに変わりはない。ぬいぐるみセラピー…とでも言うのだろうか。

「それ、どうしたんです?」

ベッドの傍に立っていた安室さんが、ぬいぐるみを指差して首を傾げた。私は再度うさぎのぬいぐるみと目を合わせると、それを安室さんの方に向ける。

「怪盗キッドにもらったんです」
「は?」

さらり、と言ったら急に安室さんの眉が寄った。
あれ、もしかして私は今言ってはいけないことを口にしたのだろうか。笑みのまま表情を引き攣らせていれば、安室さんがにこりと笑ってその場にしゃがみこんで私と視線を合わせる。

「ミナさん」
「は、…はい」
「手段が何であれ、あなたが眠れたことは喜ぶべきことです。見慣れないものを抱いて眠っていたみたいだったので、どうしたのかと思ったのですが…それを、どうしたと?」

にこにこと笑っている安室さんに、ひやりと背中を冷たい汗が流れた。
笑っているのに、怖い。ひぇ、と変な声が漏れそうになるのを堪えながら、私はうさぎのぬいぐるみを抱きしめてへらりと笑う。

「か、……怪盗キッド、から」
「怪盗キッドから?」
「………もらいました」
「いつ」
「…夜です…」
「昨日の?」
「は、はい…」
「どこで」
「…えっと…」
「ミナさん」
「…………ベランダに…突然現れて……」

一つ問い返される毎に少しずつ視線は下がり、気付けば私は身を竦ませながら俯いていた。
俯いているのに安室さんの視線を感じる。びしびし感じる。視線が痛い。安室さん絶対眉を寄せてこっちを見てる。質問を重ねる度に少しずつ声のトーンが下がっていくのは正直怖かった。

「怪盗キッドが現れたんですか?ここに?」
「…はい…。…眠れなかったのでベランダで外の空気を吸ってたんですけど…そしたら突然」
「何を話したんですか」
「えっ?いえ、大したことは何も…昨日が予告状の日だったので、どうでしたかーみたいな話と、眠れなくて外にいたんです…みたいな話をしたら、これをくれて」

そっとうさぎのぬいぐるみを持ち上げる。
安室さんはしばし沈黙してうさぎのぬいぐるみを見ていたようだったが、やがて深い溜息を吐いた。それから、ぐい、と私の額を人差し指で押す。必然的に安室さんと目を合わせることになって、私は更に身を竦ませた。

「ミナさん、いいですか」
「ひゃい」
「あなたは一昨日怪盗キッドがあまり悪い人には見えないとおっしゃいましたが」
「…はい…」
「彼はれっきとした犯罪者です。…彼は確かに破天荒ですが人に危害を加えることは少ない。あなたに何か害を与えるような可能性はほとんどないと言えるでしょう。ですが、犯罪者であることに変わりはありません。ミナさん、僕が何を言いたいかわかりますか」

じ、と見つめられて、怒られているのに端正な顔立ちを間近で見て照れる。思わず視線を逸らそうとしたらむにっと頬をつままれた。

「ミナさん」
「ひゃい…」

痛くはないけどもこんな間抜けな顔晒していたくはない。
多分安室さんが言いたいことは…今まで私も散々言われてきたことだと思う。

「……警戒心を持て、ですか…」
「…一応、わかってはいるんですね」

やれやれ、と安室さんは私の頬から手を離した。それから、ちらりと私の手元のぬいぐるみを見て眉を寄せる。
…う、やっぱりキッドからもらったぬいぐるみなんてあんまり良くなかったかな…。とは思うものの、この愛くるしいぬいぐるみのおかげで私が少しだけ寝れたのもまた事実なのである。

「…まぁ、ぬいぐるみに罪はありませんからね」
「っ、持ってても良いですか?」
「…念の為少し調べさせてください」

安室さんが手を出してくるので、うさぎのぬいぐるみを手渡す。…まさか盗聴器とか盗撮カメラの心配をしてるのかな。安室さんはぬいぐるみを隅々までしっかり調べているようである。万一盗聴器みたいなのが仕掛けられてたらとても困るのだが、そんな考えに至らなかった辺り私は確かに警戒心が足りないと思う。

「…大丈夫そうですね。ごく普通のぬいぐるみのようだ」
「じゃあ、持ってても良いですか?」
「…あなたも気に入っているみたいですしね。構いませんよ」
「ありがとうございます!それじゃあ、この子に名前をつけないと」

いつまでもうさぎのぬいぐるみ、なんて言うのもあれだし。とは言っても、どんな名前をつけようかなぁと眉を寄せる。
そんな私を横目に、安室さんは一度寝室から出ていくとスーツからTシャツとジャージに着替えて戻ってきた。安室さんはそのままベッドに腰を下ろす。どこかでシャワーでも浴びてきたのだろうか、涼やかな石鹸の匂いがするなと思い、なんてことを考えているのかと頭を抱えた。恥ずかしい。

「どうしました?」
「いえ…なんでも…」
「その子の名前決まりました?」
「うーん…悩んでるところです」

ぬいぐるみは私の手の上で、私に名付けられるのを待っている。
真っ白なうさぎ。透き通るような白だな、と思いながら、ふと安室さんの顔を見た。安室さんは目を瞬かせている。
…いやいや、ないない。透き通るような白だからって、透、なんてそんな、ないない。安室さんの名前じゃんなんて思いながら思わず安室さんの方を見てしまったけどそんな、好きな人の名前をぬいぐるみに付けるなんて恥ずかしい真似はさすがに出来ない。
…でも、透、って素敵な名前だよな、と思って小さな笑みが浮かんだ。

「うーん…」

真っ白なうさぎ。白は全てのゼロの色。でもこの子はゼロなんてかっこいい顔はしてないし…と考えて、閃いた。

「れいくん!」
「ッ、え?」
「れい、にします。ね、ぴったりだと思いませんか?白は全てのゼロの色で、でもこの子はゼロなんて名前が似合うかっこいい顔してないし。だから、れいくんです」

笑みを浮かべて安室さんの方にれいくんを向けるも、安室さんの顔はどこか強ばっているというか、驚いて目を丸くしている…ように見える。
…あれ、おかしいな。すぐに何か返事が返ってくると思ったのに…安室さんは言葉を失っているようだった。

「えっと…あの、変、でしょうか…?」
「…あ…いや、いえ。…れいくん、ですか」
「はい。…ダメですか?」
「…そのぬいぐるみはあなたのものです。あなたが自由に名前を決めればいい」

安室さんはそう言うけど…やっぱりれいくん、なんてダメだったかなと心配になる。
でもぬいぐるみをそっと目の高さまで上げて見つめると、もうれいくんとしか思えなくなってしまった。れいくんカッコ仮。でもれいくんって顔してるんだもの。

「…れいくん」
「…………」
「…れいくんにします」
「…れい、が名前なんですよね?」
「はい」

安室さんはれいくんカッコ仮をじっと見つめると、やがて深い深い溜息を吐いた。私は安室さんが何を考えているのかはわからないけれど、今の溜息で命名れいくんを許されたような気がして小さく笑う。
れいくんを枕元に置いて、そっとその頭を撫でた。本当に肌触りが良いな。キッドからもらったものだけど、この子のおかげで私が眠れたのも事実なのだ。この子は本当に私の夢へのお供になってくれるのかもしれない。

無意識に笑みが浮かんでいた。れいくんを見つめていたら、ぐいっと体を引っ張られてそのままベッドに倒れ込む。

「わぁっ」
「さぁ、寝ますよ」

安室さんが私の体を抱きしめながらベッドに横になったのである。やっぱりいい匂いがする、と思いながら羞恥に頬が赤く染まる。
寝るって、もう朝だ。安室さんは寝ずに仕事していたのだろうからもちろん寝て欲しいけれど、私は起きるべきなのでは。けれど安室さんは、私を抱きしめたままもう目を閉じている。

「安室さん、今日はオフですか…?」
「いえ、昼からポアロです。なので、二時間くらいしたら起きますよ」

安室さんの体が心配になる。徹夜で仕事をして、二時間仮眠したらまた仕事に向かうのだから。体を壊さないようにせめて注意を払っていたいなと思いながら、やはり少し疲れの見える安室さんの顔を見つめる。
…二時間だけでも、ゆっくり寝かせてあげたいなと思った。

「ミナさんも、二時間くらいならまだ寝れるでしょう?」
「え?…はい、まぁ」
「大丈夫ですよ。ちゃんと起こしてあげますから」

普通は逆なんじゃないのか、と思いながらも、私自身二度寝して起きれる自信はないので安室さんの言葉はありがたい。
安室さんは目を閉じたまま答えて、そのまま小さく笑った。安室さんの腕に少しだけ力が入る。

「…おやすみなさい、ミナさん」
「…おやすみなさい、安室さん」

せめて少しだけでもゆっくり体を休めて欲しい。私も少し眠れたとは言っても、まだ体に疲れが残っているのが自分でもわかる。安室さんがいてくれたらきっとぐっすり眠れるだろう。
そっと安室さんの胸元に頬を寄せて、目を閉じた。
…多分ここが…この場所が、私が一番心からゆっくりと過ごせる場所なのかもしれない。
もう二時間のゆるやかな幸せへと、私は身を委ねた。

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