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「…これはどういう意味だ?」
「見ての通りです。…今日の午前で引き継ぎのマニュアルをまとめます。午後から以降は全て有給消化をさせていただき、そのまま退職させてください。有給かなり溜まってたと思うので…それだけあれば、退職手続きも問題ないと思います」

月曜日。私は上司に辞表を提出した。
今までのこともあったし、昨日の元彼と後輩の件もある。昨日の一件は、どの道ここでこのまま働いていくのは無理だと思わせる後押しの一手だったと思う。
引き継ぎマニュアルも、後輩に指導する時のためにほとんどまとめてデータで取ってある。午前だけあれば全て事は済むだろう。

「今自分が持ってる案件はどうする?無責任すぎるだろう」
「…いえ、終わってます」
「は?」
「…いくらなんでも、自分の仕事さえ終わっていないのに他の人の案件まで請け負いませんよ。だから、自分の分はもう終わっています」

後退りしそうになる自分を奮い立たせて、はっきりと告げる。
私の残業や早出は他の人の仕事をしていたがためだ。自分の分は真っ先に終わらせていたから、今私が離れても問題は無いはずだ。上司の鋭い視線に怯みそうになる。
もうここにはいたくない。すぐに引き摺られそうになる自分に負けたくない。

「…これが、有給申請書です」
「周りの迷惑を考えろ」
「…何を言われても、退職致します」

これ以上話すことは無いと、上司のデスクに辞表と有給申請書を置いて頭を下げた。
自分の席に戻って、引き継ぎマニュアルの作成を始める。
先週までは特に何も思わなかったのに、今はここにいるのが嫌で仕方がなかった。息が苦しい。息が詰まる。
私が辞めたら会社にとって迷惑になる。それは、人手が足りなくなるからということなのだと思う。別に私が頼りにされている訳では無いのだ。私じゃなくたっていいはずだ。
ぐるぐると考えながら引き継ぎマニュアルをUSBに移し、ついでに書面にも印刷しておいた。私のやるべき事は済んだと思いながら時計を見れば、昼を回った頃だった。
私物をまとめて鞄に突っ込む。周りの目がこちらを向いていたのはわかっていたが、そんなのを気にしてなんていられなかった。

「…お世話になりました。失礼致します」

鞄を抱え、頭を下げる。そのまま誰とも目を合わせず、私はオフィスを出た。
早く、息がしたい。

「センパイ」

駆け出しそうにすらなっていた足が、背後からかけられた声にぴたりと止まる。
可愛らしい顔に似合った、可愛らしい声。けれど今その声は冷たく、言外に私を非難しているのがひしひしと伝わってくる。

「センパイがいなくなったら困るんです」
「……それは、どうして?」
「だって、センパイいなくなったら私定時で帰れなくなっちゃう。それってすごく困ることなんです」

肩にかけた鞄の持ち手を、ぎゅうと握りしめる。

「…私にはもう、関係の無いことだから」

小さく呟いて歩き出す。
辞表は出した。有給申請も出した。自分の仕事は終わってるし引き継ぎマニュアルも作り終わった。
迷惑と思われてもいい。無責任と思われてもいい。根気のない奴だと後ろ指差されたっていい。
私はこの職場で、責任を持って働くことは出来ない。



正直、自分がこんなに思い切れる人間だと思ったことは無かった。割と昔から人の意見に流されやすかったし、どちらかと言えば優柔不断。自分の意見はあまり言わず、人の話を聞いているようなタイプだったと思っている。
こんな思い切ったのは人生で初めてかもしれない。だからなのかはわからないが、全てを終えた(と思っている)今でも、なんだかしっくり来ない。もっとすっきりするものだと思っていたのに、まだモヤモヤと胸のあたりが重たいままだ。

「…なんだかんだ、罪悪感感じてるんだろうなぁ」

思い切ったは良いものの、なあなあなままここまで来てしまった私にも非はあるのだ。
そもそも私よりももっと辛い思いをして働いてる人は世の中にたくさんいるだろうし、そんな人達から見れば私はなんて甘えた人間なんだろうとか思われても仕方が無い。
…ああ、ダメだな。考え始めたら止まらなくなる。
私は軽く頭を振って会社のエントランスを抜ける。

朝は安室さんと決めた約束通り、安室さんと一緒に家を出た。適当に情報収集をしているから、仕事が終わり次第連絡をくれとのこと。
安室さんに仕事を辞める話はしていなかったから、彼は連絡が来るのは夕方頃と思っているだろう。
まだかなり時間かあるが、どうしようか。昨日ある程度の買い物はしてしまったからしばらくは必要も無い。

「…安室さん帰ってきたら、仕事辞めた話もしなきゃなぁ」

今日はもう帰ってのんびりしようか。
これからの転職のことは明日から考えればいい。
私はスマホを取り出して、今から家に帰るので好きな時間に戻ってきてくださいね、と安室さんにメールを打つ。
返事は直ぐに届いて、「お疲れ様です。わかりました。16時頃には戻ります」との文字に胸が温かくなる。
昼に帰ることに疑問も抱いただろうに、聞かないでいてくれる優しさを嬉しく思った。


***


「あぁ、やはりそうでしたか」

仕事を辞めたのだと伝えると、安室さんはあっさりとそう答えた。

「えっ、えっ?やはり、って…」
「ろくに食事も睡眠もとられていないようでしたので。その理由が仕事にあるというのはすぐわかりましたし…それに佐山さん、土曜日にご自身のスマホとは違う携帯を見ていたでしょう。あれ、会社の携帯じゃないですか?」
「へっ」

フォークに刺していたトマトがぽとりと皿の中に落ちる。
今日の夕食は安室さんお手製のサラダとトマトソースのパスタだ。食事を始めてサラダを食べ終えた辺りで仕事を辞めたことを切り出したのだが、安室さんの反応は私の予想とは違っていて言葉を失った。

「携帯を見たあなたは溜息を吐いて、少し考えた後に何やら文字を打ち始めた。メールだったんでしょうね。あなたの疲労具合は傍から見ていてわかるほどでしたし、そこまでお疲れの様子だと休日出勤等もしていたのだろうと予想出来ます。つまり、休日出勤を断る連絡を返していたのではないか」
「え…えぇ……さすが、探偵さん…」
「このくらいは、少し観察すればわかることですよ」

なんてことはないと安室さんは言う。
いや…私は少し観察したって絶対わからないと思う。探偵さんの観察眼ってやっぱりすごいんだと感嘆する。
変な溜息を零す私を見た安室さんは小さく笑って、軽く肩を竦めた。

「あなたは少しゆっくりした方がいい。自覚はないようですが、顔色もあまりよくありませんし。のんびりするのは大事ですよ」
「…でも、世の中には私よりももっと辛い状況で働いてる人もたくさんいると思うんです。…私は、甘えた人間なんじゃないかって…少しだけ、情けなく思う気持ちが無いわけじゃないんです」

仕事を続けられないと思った。ずるずるしてはいけないと思ったから、気持ちが揺らぐ前に辞表も有給申請も押し付ける形にしてしまった。
何を言われ、何を思われてもいいと思った。だが、少し時間が経ってみれば冷静さを欠いていたのではないかと思えてしまうのだ。

「佐山さんは、何の為にお仕事をなさってるんです?」
「…なんの、ため?」
「そう。生活の為…というのはまぁ誰しもがそうでしょうが、純粋に自分の為だったり、家族の為だったり。仕事をする上でやり甲斐と喜びを感じるのが好きだからだったり。そういう、何かの為…。仕事を続けていく為の理由って、ありますか?」

考えたこともなかった。
人に頼まれて残業早出を繰り返して仕事していたけれど、それを誰かの為だとか自分の為だとか考えたことは無い。そうすることに何の疑問も抱かなかったというか…そうするのが一番いいと、漠然と思っていたんだと思う。

「欲のない人ですねぇ」

答えを見つけられない私を見て安室さんが苦笑する。

「誰かの為。自分の為。好きだから、楽しいから。理由なんていくつあったっていいんですよ。…あなたは優しい人だから、きっと欲を持つことを忘れてしまっていたんでしょうね」

欲。

「食欲も、睡眠欲も、薄かったんじゃないですか?体が欲しているから食べたり、寝たり。自分から何かを食べたいとか、例えば二度寝がしたいとか、そういうの考えることって少なかったんじゃないですか?自分を蔑ろにした結果ですよ」
「…私、自分を蔑ろにしていたんでしょうか」
「少なくとも、僕にはそう見えました。…あなたと出会って間もないのに偉そうにすみません」

考えても、自分を蔑ろにしていたかなんてわからない。でも、自分を大切にしていたかと聞かれたら、それもわからなかった。

「人それぞれ限界のラインは違います。確かに佐山さんよりも過酷な状況で働く人間もいるでしょう。ですが逆に、佐山さんほど働く前に壊れてしまう人もたくさんいます。…佐山さんの限界は、ここなんですよ。正直、限界を超えてしまっていたと感じます。あなたは、頑張りすぎたんです」
「……まるで、今までの私を見てたみたいに言うんですね。出会って間もないのに」
「ええ。あなたはとてもわかりやすい」

拗ねたように口を尖らせた私を見て、安室さんは悪戯が成功したような顔で笑った。少しだけ子供っぽいその笑みに私も表情を緩める。

「…安室さんも、何かの為に…って思いながら働いてるんですか?」
「はい。欲深いもので、理由はたくさんあるんですよ」
「そっかぁ、」

ふふ、と小さく笑った。
胸を覆っていたモヤモヤが晴れたような気分だった。
罪悪感はやっぱり拭えないし、自分が甘えてるんじゃないかという気持ちも消しきれないが、それでも肩が軽くなったような気がした。

「今までよく頑張りましたね」

安室さんの言葉に小さく息を呑む。
驚いて目を瞬かせる私を見つめながら、安室さんは柔らかく目を細める。
頑張ったね、なんて。今まで、誰かに言われたことがあっただろうか。

「まずはゆっくり休んで、自分を労わってあげてください。美味しいものを食べたり、本を読んだりテレビを見たり。何でもいいんです、時間を気にせずにのんびり過ごしてください」

安室さんの優しい声が胸に染み渡っていく。
そっか。私、頑張ってたんだ。
鼻の奥がつんと痛くなる。泣きたいのに、でも変に頑なな私の体は涙を拒んでいた。吐息は震えるのに涙は浮かばない。小さく唇を噛んで、誤魔化すように俯く。

「息抜きしましょう。…目の前に異世界人なんてものがいるんですし、多分しばらく暇潰しには事欠かないと思いますよ」

だから、協力してくださいね。飽きさせませんから。
そう言って笑う安室さんを見て、なんて強い人なんだろうと思った。
安室さん自身不安なはずで、どうやって帰ればいいのかと手探りの状態なのに。こうやって笑って、私を励ましてくれる。
私もこんなままじゃダメだ。地に足つけて、しっかり立って歩かなきゃいけない。

「…もちろんです。時間もたくさん出来たので、いくらでも協力します。協力させてください」
「あまり意気込まずに。あなたは抱え込みすぎですよ」

安室さんを、絶対に元の世界へ帰してあげたい。
私の世界に色をくれた人だ。

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