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「ひーまーだー」
「いつお客さん来るかわからないよ黒羽くん」

カウンターにぐでっと体を伏せて唸っている黒羽くんを横目に、私は本の在庫確認をしていた。
今日は土曜日。黒羽くんと一緒のシフトの日である。まだシフトに入り始めて数回だと言うのに、黒羽くんはあっさりと仕事を覚えてサクサクと事を済ませてしまうのだからなんというかとても器用だ。だからこそ、やることがなくなってしまったというのもあるのだけど。
いつもならちらほら来るお客さんも、今日はさっぱりなのだ。まぁたまにはこんな日もあるだろう、と思いながら私は顔を上げる。

「そんなに暇なら在庫確認する?」
「しない」
「どうして」
「気分じゃない」
「青子ちゃんが言ってた不真面目の意味がちょっとわかる気がするなぁ」
「俺のどこが不真面目だよ!」

がば、と体を起こす黒羽くんを見て小さく笑う。そんな彼の前に、どさりとファイルの束を置いてやった。うげ、と呻く声がする。

「はい、それの整理よろしくね」
「アナログすぎじゃねぇ?パソコンもあるんだしなんでデータ化しねぇんだよ」
「嶺さんパソコン苦手なんだって。パソコン買ったはいいけど使い方もわからないからずっと置きっぱなしだったって」

ちらり、とカウンターの奥にあるパソコンを見つめる。結構新しい型でスペックも悪くない。買って一度は使おうと努力したらしいが、さっぱりわからず結局それ以来使っていないのだという。
私も一度電源を入れてみたが中は空っぽだった。

「宝の持ち腐れじゃねぇか」
「だから、これからデータ化をしていくの。少しずつ」
「…この量全部?」
「この量全部」
「まじで?」

誰かがやらねばならないのだ。そして今私がこの書店を任されている以上、私がやるのが筋というものだろう。出来ないことなら困るけれど、幸い前職のスキルで資料のデータ化には慣れている。さすがに一日二日では終わる量ではないが、時間はあるのだし何とかなるだろう。

「黒羽くんは整理してくれるだけで大丈夫。後は私がやるから」
「…ミナさんすげーなぁ、たくましー…」

黒羽くんは間の抜けた声を出しながらファイルに手をかける。バラバラに詰め込まれたそれを見てげんなりしていたようだったけど、腹を決めたのかあいうえお順に並び替える作業に入った。よしよし、と思いながら私も自分の手元に視線を戻す。

「ミナさんさぁ」
「んー?」

黒羽くんに声をかけられて、視線は作業に向けたまま返事だけを返す。黒羽くんもそれは同じで、互いに視線が向くことは無い。

「ちょっとだけ元気になった?」
「…そう見える?」
「ちょっとだけね。なんかあった?」
「そういえば、こないだびっくりすることがあったかな」
「びっくりすることって?」
「怪盗キッドに会ったの」

あの夜のことを思い出す。突然ベランダに現れて…少しだけ話をした。うさぎのぬいぐるみを貰った。
暗闇が怖いのはまだ引き摺っている。けれど、キッドがくれたうさぎのぬいぐるみ…れーくんがあれば寝れることもわかった。もう大丈夫だと伝えてはいるのだが、未だに安室さんが添い寝をしてくれる夜が続いている。…安室さんと寝る時ほど安眠出来ることはないから、有難いことには変わりないのだが。…恥ずかしいけど嬉しさの方が上回ってしまうのは仕方ないと思う。

「うさぎのぬいぐるみを貰ったの。れーくんって名前付けたんだ」
「へぇ。どうだった?怪盗キッドは」

あれ、思ってたのと反応が違うな。
黒羽くんはキッドのファンみたいだったから、私がキッドに会ったなんて聞いたらもっとすごく羨ましがると思ったんだけど。

「…怪盗相手にこんなことを言うのも変かもしれないけど」
「うん」
「素敵な人だな、って思ったよ。想像してたよりも若かったし…所作も、言葉遣いも丁寧だった。世の中に彼のファンがたくさんいるのも理解できるなぁって」

彼が犯罪者であることに変わりはないとわかってはいも、やはり私にはどうしても怪盗キッドが悪人だとは思えないのだ。…キッド本人も、そう言っていたけれど。
怪盗をすることに、きっと何か理由や意味がある。彼も何かと戦っているのかもしれないとぼんやりと思った。

「…へへ、そっか」
「うん。…あ、少しだけ黒羽くんに似てたかな」
「えっ」

顔はよく見えなかったし、言葉遣いなんかも全然違ったから似てたというのも変な話かもしれないが。

「黒羽くんと、キッド。…誰かを喜ばせるために、マジックをするんだなって」

Three、Two、One。
それはきっと魔法の言葉なのだろう。黒羽くんからは薔薇を、キッドからはうさぎのぬいぐるみを、その魔法の言葉とともに受け取った。

「…キッドから、うさぎのぬいぐるみを貰って嬉しかった?」
「うん、嬉しかったよ。…キッドに言われた通り、うさぎのれーくんは役目を果たしてくれてるしね」

あなたの夢へのお供に、どうぞお連れください。キッドはそう言ったのだ。うさぎのれーくんは、確かに私を夢へと誘ってくれる心強い味方だと思う。
私がそう言って顔を上げると、黒羽くんはほんの少しだけ照れたように微笑んでいた。

「そりゃ良かった。…へへ、さー仕事仕事!」

黒羽くんは意気込んで体を伸ばすと、ファイル整理の手を早める。
…どうして黒羽くんが照れたような顔をしたのかわからないけど、なんだか嬉しそうだからまぁいいか。


***


ファイルの整理をしっかりやってもらったので、その日の締め作業は私がやることにした。黒羽くんは一緒にやると言ってくれたのだけど、これから資料をデータ化していくに当たって少しパソコンも触りたかったし、いつまでかかるかわからなかったから断ったのである。
とはいっても結局データ化のためのエクセルやワードソフトのインストールくらいだったから十分十五分で終わったのだけど。
嶺さんに閉店した胸を連絡し、店内の電気を消して戸締りをする。さて帰ろうと歩きだそうとして、路地の先に誰かが佇んでいるのが見えて思わず足を止めた。ここで男性に声かけられて連れ去られた日のことが脳裏を過り、背中が震える。血の気が引くのがわかった。
怖い。

「…そんなに怯えなくても大丈夫よ、お嬢さん」

かつ、かつ、と靴音と共にその人影が近付いてくる。…日陰にいてよく見えなかったからわからなかったが、声とヒールの音からして女性のようだ。緩くウェーブした長いブロンドの髪がゆるりゆるりと揺れている。

「…初めまして」

女性は私の目の前まで来ると、余裕のある笑みを浮かべて小首を傾げた。

「…いえ、正しくは初めましてではないわね。以前ぶつかったわ、あなたと」

サングラスをしている。そしてこのブロンドの髪と、整った目鼻立ち。そして圧倒的なオーラ。こんな人、一度会ったらきっと忘れない。私は以前この人と会っている。
街中でぶつかった。彼女が携帯を取り落として、ぶつかったことを謝った。…安室さんに似合う、素敵な女性だと思った、あの人だ。

「あら、忘れちゃったかしら?」
「っ、いえ、その、覚えてます」
「そう。良かった」

女性はくすりと笑うと、ゆっくりとした動きでサングラスを外した。開かれた瞳の色は少し灰色がかったグリーン。思っていた通り、息を呑むほどの超絶な美人。美人だとはわかっていたけれど、想像以上の美女の登場に頭が混乱する。どう考えても日本の道端を歩き回っているような人ではないと思う。
なのに、この女性は米花町の…この路地にいた。嶺書房から少し離れたところに佇み、私が店から出たところで私に声をかけてきた。…ということは、私を待っていたということだろうか?一体何の為に。
何か御用ですか、と問おうとしてはっとした。まさか。

「あっ、あの…もしかしてスマホ、あの時落としたスマホ、不調出てきちゃったとか…ですか…」

不調が出たら連絡して貰えたら弁償を。私自分でそう言った、覚えてる。もしやこの女性がここまで来て私を待っていたのは、やはりスマホが壊れてそれの請求に来た為ではないのか。
働き始めて自分で使えるお金も増えた。全額一度にというわけにはいかないけど少しずつなら弁償も出来る。痛手には変わりないけど自分がぶつかったのが原因なのだから弁償くらいは当たり前だ。
そう考えながら思わず身構えたのだが、女性は私の言葉を聞くと一瞬ぱちぱちと目を瞬かせてから声を上げて笑った。
え。

「ッ…ふふ、ごめんなさいね、まさかそんなことを言われるとは思わなかったから」
「え、いえ、あの、弁償を…」
「必要ないわ。私は今日ただあなたに会いに来ただけ。…あなたの顔を見に来たの」

女性は口角を上げて笑むと、私の頬に手を伸ばす。ものすごくいい匂いがする。

「……そう。あなたが、彼のAngelなのね」
「…彼…?」

するりと頬を撫でられて身を竦ませた。
女性は私の顎を掴むと、そっと顔を上げさせる。強い力ではないが逆らえない。私は女性と向き合ったまま、こくりと息を飲んだ。

「彼の好みがこんな子だとは思ってなかったけど…何故かしらね?あなた、どんな手を使ったのかしら」
「こ、好み?どんな手…?」

この女性が言っている意味がさっぱりわからずに眉を寄せる。彼って…エンジェルって?わからない。突然何を言い出すのだろう。
困惑していると、女性はやがて私の顔から手を離した。それから小さく息を吐く。

「…まぁいいわ。彼が私との約束を守ってくれる限り、私もあなたに手出しはしない」

あぁそれから、と女性は続ける。

「今日ここで私と会ったこと…話した内容。口外しないこと。いいわね?」

これは私とあなたの秘密よ。そう言われながら女性の指先に唇を軽く押さえられて、意味わからなかったけれど私は小さく息を飲んで頷いた。…逆らえるとは到底思わないけれど、逆らってはいけないと強く感じた。

「…あの、あなたは…誰なんですか?」

誰もが羨むであろう美を纏ったその女性。私は彼女のことを何も知らない。名前も、どういう人なのかも。彼女の言う彼というのが誰のことなのかさえ私には想像もつかない。
せめて女性の名前だけでもわかれば、と思ったのだが…彼女は笑みを深めるとそっと私の顎を指先でなぞり、私の耳元へと唇を寄せた。

「A secret makes a woman woman.」

セクシーな声色が、私の耳を撫でる。びくりと震えれば、女性はくすりと笑って体を離した。

「女は秘密を着飾って美しくなるものよ。…あなたはどうかしら」

ほんの少しだけ、からかうような言い方だった。
私が呆気に取られている間に、女性は踵を返して歩き去っていく。…結局彼女が何者なのかもわからなかった。名前さえ。
…美人すぎるが故に、少し不気味な人だった。妙な気配を纏う…不思議な女性だった。

「……何者、なんだろう」

彼女が口にしていた彼とは、一体誰のことなのか。…安室さんに聞いてみたら一緒に考えてくれるかもしれないが…口外しないこと、と言われてしまった。口外して、その後のことを考えると怖くなる。口外したらどうなる、どうするなんて話はしていなかったけれど、あのただならぬ様子からして呑気ではいられなかった。
…安室さんはもちろん、他の誰であろうとも話すことは出来ない。

「…女は秘密を着飾って美しくなる、か」

この秘密は、私を飾り美しくするに値するもの、なのだろうか。


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