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あの不思議な女性のことが頭から離れない。
以前のようにぶつかって少し話をしただけ、ではなかった。彼女が何者なのかはわからないままだが、あの女性は私に会いに来て、私を見定め、帰って行った…のだと思う。
あなたが彼のAngelなのね。彼の好みがこんな子だとは思わなかった。彼が約束を守ってくれる限り、私もあなたに手出しはしない。…あの女性はそんなことを口にしていた。
彼女の言う“彼”というのが誰のことなのか私にはわからない。あの場では突然のことに頭も上手く回っていなかったし、彼女の言葉の意味を考える間もなかった。けれど、今落ち着いて考えてみれば…なんとなく、もしかしてという推測くらいは出来るようになる。
彼女の言う“彼”は、彼女の口振りからして恐らく私に近しい男性のこと。私が個人的に近しいと感じている男性は何人かいるが、その中でも“好み”という単語について考えてみると…自ずと答えもなんとなく見えてくる。
…好みという点においてとても自惚れているようであまり考えたくはないのだが、総合的に考えると彼女の言う“彼”とは、恐らく安室さんのことだ。…恐らく、である。確証はない。
安室さんから好きになっても良いかと言われただけで、実際は私も安室さんも未だにはっきりとした言葉を口にしてはいない。そんな言い訳ばかりが浮かぶ。
では、彼女と安室さんの関係は?…正直とてもお似合いではあるが…あの女性の言い方や雰囲気からして、安室さんがお付き合いしている女性、という感じではなかった…と思う。希望的観測に過ぎないが。私がそうであって欲しいと願っているだけではあるのだが。
結果、ぐるりと一周しては「彼女は何者であり、誰なのか 」という問いに戻ってきてしまうのである。

「ミナさん」

そもそも、私と安室さんの関係も曖昧なままだ。家主と居候?添い寝までして頂いて頭が上がらないし安室さんに足を向けては寝られない。
私と安室さんの関係を曖昧にさせているのは私という自覚もある。けど一歩踏み出す勇気なんて今の私には持てそうにない。「好きになってもいいですか?」と言われたものの、それってどういう意味なんだろう。今の時点で好きだと言ってくれるのか、それともまだ好きじゃないけどこれから好きになるかも的ななんかそういう意味合いなのだろうか。考えれば考えるほど恥ずかしいし馬鹿馬鹿しいような気がするし、でも私は安室さんのことが好きだし。
フラれたらきっと立ち直れない…。

「ミナさん」

つぶらな瞳のれーくんの耳を両手で軽く引っ張り、ふわふわの体を手のひらで撫でる。肌触りが良い。
今更のことだ。重々よく理解してはいるけれど…やはりあの美人の女性みたいな人こそ、安室さんの隣にはふさわしいんだろうなぁなんて考えてしまう。私みたいなちんちくりんじゃなくて。
深く息を吸って溜息を吐こうとして、不意に突然目の前に安室さんの顔がにゅっと現れて呼吸を止めた。

「っ…!!」
「ミナさん。聞いてます?」
「……ひゃい、」

溜め込んだ息をそのままに返事をしたら変な声が出た。
思わずうさぎのれーくんをぎゅうと抱きしめる。安室さんはちらりとれーくんを見つめてほんの少しだけ眉を寄せたが、すぐにいつもの表情に戻って私に視線を戻す。

「すみません。何度か声をかけたんですけど気付いてないようでしたので」
「………すみません、ちょっと考え事を…」

びっ、くりした。
私はベッドに腰掛けて、膝の上にれーくんを乗せて考え事をしていた。
安室さんは確か夕食後に、明日の朝の支度をしてしまうからと台所に立っていたはずだ。いつの間にこんな近くにいたのだろう。あまりにぼうっとし過ぎている。
ばくばくと高鳴る胸を押さえていれば、安室さんが私の隣に腰を下ろす。ぎしりとベッドが鳴いた。

「熱心に何かを考えていたようですが…何かありましたか?」

何か、と言われれば何かはあった。けれどそれを誰かに言うことは、あの不思議な女性に止められている。安室さんだろうとどうしても話す気にはなれない。

「何も…ないんですけども」
「あなたは嘘を吐くのが苦手ですね」
「…そう言われましてもぉ…」

知っている。自分が嘘が苦手なこともわかっているし、そもそも安室さんに隠し事などできないこともよくわかっている。
だとしてもだ。あの女性に逆らうことの方が私は何故だか怖い。そんなわけで私はれーくんを抱きしめたまま口を閉ざすのである。

「そのうさぎ」
「へっ?」
「随分お気に入りのようですが」
「…えっと、まぁ…。可愛いですし、肌触りもいいので」

安室さんが手のひらを上にしてこちらに差し出してくるので、れーくんを安室さんの手の上に乗せる。
安室さんはれーくんを受け取ると、それの耳を触ったり体を撫でてみたりして肌触りを確認している、ように見えた。…何故だか眉間に皺が寄っているのが気になるけれど。

「れーくん、ですか」
「…やっぱり名前変えます?」
「もうその名前で親しみも湧いているんでしょう?構いませんよ」

どことなく親しみが湧いていなかったら反対のような言い方だなぁと思いつつ苦笑する。安室さんがうさぎのぬいぐるみを持っている姿はどことなく可愛いし、なかなか見れない光景じゃないかと思う。
そんな安室さんをじっと見ていたら、安室さんは私の方をちらりと見つめ…それから何を思ったか、れーくんを私の方に向けながら自分の顔の前まで持ち上げる。

「…安室さん?」

なんだろう、と思いながら首を傾げると、安室さんはれーくんを少しだけ下に下げて私と視線を絡ませる。

「返して欲しければ、呼んでみてください」
「呼ぶ?安室さんを?」
「違います。このうさぎをです」

安室さん、そういえば頑なにうさぎのれーくんのことを名前で呼ばないな。…ぬいぐるみの名前を呼ぶなんて少し恥ずかしいだろうか。彼も成人男性だもんな。私は成人女性だけども。
えぇと。返して欲しければれーくんを呼べばいいらしい。それに何の意味があるのだろうと疑問は尽きないけれど、私は首を傾げながら口を開いた。

「…れーくん?」
「………………」

呼んでみたものの、安室さんの返事はない。あれ。

「安室さん?」
「…いえ、何でも」

安室さんはゆっくりれーくんを下ろすと、それを私に差し出した。受け取りながら、そっとれーくんの頭を撫でる。
つぶらな瞳をしたれーくん。柔らかな耳を撫でて、私はれーくんを枕元の定位置へと戻した。

「ミナさん」

安室さんの声に振り返る。すると、ぽん、と頭を撫でられる。安室さんの大きな手のひらが私の頭をゆるりと撫でて、軽くくしゃりと髪を乱した。

「…何に悩んでいるのかはわかりませんが…本当に困った時は、ちゃんと相談してくださいね」

無理に聞き出そうとしたりしないその優しさが嬉しい。
いろいろと考えてしまっていたのは事実だが、困ったりはしていない。安室さんに相談するまでもないことだ。

「大丈夫です。…なんかすみません、」
「あなたの“大丈夫”は信じないことにしているので。…何せ五感を失いかけても何も言ってくれなかったあなたですから」
「う、」

無理に聞き出すつもりは無いみたいだが、そっとしておこうという感じでもないようだ。思わず苦笑する。
…それだけ、かつて安室さんにはたくさん心配をかけてしまったということだろう。その点においては反省している。

「…困ったことがあったら…ちゃんと相談します」
「約束ですよ」

安室さんの手のひらが私の頭から離れるのをほんの少しだけ名残惜しく思う。
安室さんはそのまま部屋の電気を消すと、私の体を抱き寄せてベッドに横になった。こういうことをさりげなくさらりとやってしまうから本当になんというか。顔が赤くなるのも致し方ないのである。

「…あの、安室さん」
「なんでしょう」
「…確かに熟睡はまだ難しいかもしれませんけど、私もう一人でも大丈夫ですよ?ちゃんと寝られます」

何度目かの進言である。今までにも何度か言っているのだが、結局未だに私は安室さんの添い寝で眠る日々だ。それが嫌かと言われたら全くそんなことは無く、…むしろ嬉しいことだとは思うのだが。自分でもチョロいと思う。
安室さんは私の言葉にほんの少しだけ笑うと、更にぎゅうと抱きしめてきた。胸が高鳴って、胸の奥の方がきゅうと甘い痛みに疼く。

「うさぎの力は必要でしょう?」
「えっ?」
「あなたが眠りにつくのに、ですよ」

…確かに、安室さんが傍にいない時はれーくんを抱きしめていたりするけども。私が小さく唇を尖らせると、暗闇の中でもその気配を感じ取ったのか安室さんがくすりと笑った。

「なら、あなたの傍にいられる日は僕が傍にいたいんです」
「……そんなさらりと言う言葉ですか、それ…」

まるで口説き文句だ。恥ずかしくなって顔を伏せると、楽しそうに笑った安室さんに頭を撫でられる。そういうのは余計に恥ずかしくなるからいいと言うのに。

「うさぎと寝るよりも快眠出来るんでしょう?なら、これでいいじゃないですか」
「…そう…ですけども…。…でも安室さんももっとゆっくり寝たいのでは…」
「僕のことはいいんです。…僕がしたくてやっていることですから」

だから、お休みなさい。
そう囁かれて、胸の高鳴りと同時に安堵感が広がっていく。安室さんの体温と、匂いに包まれて私はゆっくりと息を吐いた。
あぁ、私はどこまでこの人に溺れていくんだろう。
安室さんと私のこの関係に、きっと名前をつけることは出来ないような気がする。だって私は、下心でいっぱいなのだ。恋は下心とはよく言ったものである。
安室さんの手が私の背中を撫でて、ゆるりゆるりと眠気がやってくる。瞼が少しずつ重くなって、目を閉じながら夢現のまま小さく呟く。

「…私と、安室さんって…どんな、関係なんでしょう」

意識がはっきりとしていたらきっと問うことなんて出来なかった。うとうとと曖昧な狭間で揺れながら、私は安室さんの優しい声を聞いた。

「そうですね。…僕の片想い…いえ、」

額に温かいものが触れてすぐに離れていく。

「両片想い、ですかね」

くすりと笑う安室さんの声に、重たい瞼を押し上げる。暗闇の中では何も見えず、安室さんの表情もわからなかった。眠気が強くなり、目を開けていることすら出来なくなる。
ほら、私の気持ちなんてとっくにこの人には伝わっている。私が安室さんに恋焦がれていることくらい、この人にはきっとお見通しなのだ。
だからこそ、今はまだ一歩踏み出したくない。安室さんに向き合えるだけの強さを持ちたいと思う。安室さんの隣に胸を張って立てるような女性に…安室さんに好きになってもらえるような女性になりたいと思うから。
その思いを声に出したのかどうかは私にはわからなかった。半分眠っていたんだと思う。口を動かしたような気もするし、夢だったような気もする。

「…あなたはもう充分です。…僕の大事な人」

なんて甘くて幸せな言葉なんだろう。
その安室さんの声が現実だったのか私の妄想だったのかまでは、判断出来なかった。

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