72

その日、嶺書房さんでの勤務を終えて帰る時のこと。
米花駅まで来て、スマホが震えたから見てみると安室さんからの連絡が入っていることに気付く。送られてきていたメールの内容は、「牛乳を切らしてしまっていたから申し訳ないけど買っておいて欲しい」とのこと。
今日安室さんはポアロのラスト番だったはず。帰りは私の方が早いだろう。お使いなんていくらでも、と思いながら私は了解のメールを返し、駅前のスーパーで牛乳を買ったのである。
そして、スーパーを出たところで…声をかけられた。

「ミナ!!」

え、と思って振り返るよりも前に、突然腕を掴まれてびくりと身を竦ませる。私の腕を掴んだ手を辿れば、見知らぬ男性が立っていた。
見たところ普通のサラリーマン、だろうか。スーツを来てネクタイを締め、黒いカバンを持っている。歳は私よりも大分歳上、だろうか。十かそれ以上は離れているかもしれない。

「え、えぇと、あの…?」
「今までどこにいたんだ、探したんだぞ?!心配した…!」

こ、声が大きい。そして繰り返すが見知らぬ男性である。記憶を遡ってみても、初対面だと思う。

「え、あ、あの、ど、どちら様ですか…?」
「お、俺がわからないのか?!記憶喪失?何があったんだ、ミナ…!」

待って待って見落としていたけどこの人私の名前を知ってる。どうして?名乗った記憶なんてないし、そもそも私はこの男性を知らないのである。
知らない人に急に腕を掴まれて、混乱の方が先立っていたけれどもじわじわと得体の知れない恐怖を感じ始める。だって、知らない人だ。知らない男性に突然腕を掴まれているし、その男性は何故か私の名前を知っている。怖くないはずがない。

「きっと怖い目に遭ったんだろう?さぁ、病院に行こう。ちゃんと診てもらおうな」
「っ?や、あの、待ってください、私何も知らな…」
「ミナ、わがままを言うんじゃない!!」

男性の怒鳴り声に体が竦む。本当に、誰。
助けを求めたくて周りを見るも、周りは何事かと好奇の目をこちらに向けているだけだ。
男性が私の知人のような素振りを見せているから、ただの男女関係のもつれだとでも思われているのかもしれない。
違うのに、こんな人知らないのに。抵抗しようとしても男性の力は強く、ずるずると引き摺られてしまう。
助けて、誰か。

「ミナさん?」

はっとして振り向いた。
そこには、少し驚いた様子でこちらを見つめる小さな名探偵の姿があった。彼はスーパーの入口を出たところのようで、袋を持って佇んでいる。

「こ、コナンくん…!」

私がコナンくんの方に駆け出そうとするも、ぐい、と腕を引かれて小さくバランスを崩す。たたらを踏む私を見て、コナンくんは眼鏡の奥の目を眇めて表情を変えた。それから、私の方に駆け寄るとそっともう片方の私の手を握る。

「ミナさん!連絡くれないから心配してたんだよ。今日、うちに泊まりに来てくれる約束だったよね?ボク、宿題のわからないところ残してあるんだぁ。帰ったら教えて欲しいな!」

にこりと笑いながら言うコナンくんに、詰まっていた息をゆっくりと吐き出した。
聡い子だ。今の一瞬で、私の状況を理解したのだろう。コナンくんが作ってくれた流れに乗らない手はない。私はコナンくんの手を握り返して、声を絞り出す。

「…ご、ごめんね、待たせちゃって…。今連絡しようと思ってたの」
「ミナ、この子は?」

私の声に被せるように、男性が尋ねる。変わらず腕は掴まれたままだ。力も強く、痛みすら感じるほど。
私はゆっくり男性の方に視線を向けると、小さく息を呑む。…何度見ても、やはり見覚えはない。今日が初対面のはずだ。

「……お友達、です。今日は彼の家にお呼ばれしているので…」
「呼ばれているのに牛乳を買ったのか?そんなものを持って行くとでも?」
「今日の晩御飯クリームシチューなんだよ!牛乳が足りないから買ってきてもらうようにお願いしてたんだ」

声もまともに出せない私に代わって、コナンくんが答えてくれる。
男性はじろりと私の顔とコナンくんの顔を見比べると、そっと私の腕を離した。それから、男性はしゃがみこむとコナンくんに視線を合わせてにこりと笑う。

「そうかぁ。それじゃあ、うちのミナをよろしく頼むな、ボウヤ」
「うん!」

男性はコナンくんの頭を撫でると立ち上がり、再度私に視線を合わせてゆるりと笑う。優しい笑みのはずなのに、背中が凍り付くようだった。

「それじゃあミナ、帰る時は連絡しなさい」

それだけを言うと、踵を返してゆっくりと去っていく。
コナンくんの手を握りしめたままその背中を見送って…やがて完全に見えなくなると、私は無意識に止めていた息を深く吐き出した。
体が震える。もしコナンくんがいなかったら、私は今頃どうなっていたのだろう。…あの男性に連れ去られていただろうか。もう連れ去りだとか誘拐だとか勘弁して欲しい。
帰る時は連絡しなさいって…私はあの人の連絡先どころか名前さえ知らないというのに。

「ミナさん、大丈夫?」

コナンくんに声をかけられて視線を向ける。コナンくんは真剣な瞳で私を見つめていた。
コナンくんの青い瞳を見ていると、少しずつ落ち着いてくる気がする。

「…ごめん…ありがとう、コナンくん。…大丈夫、とりあえず」
「知り合い?あの人、随分とミナさんと距離が近かったみたいだけど。呼び捨てにしていたし」
「まさか。今日初めて会った人だよ、知らない人」
「知らない人?!」

コナンくんの驚きも無理はない。むしろ私がびっくりしている。知らない人からいきなりあんな風に声をかけられるなんて考えたこともなかった。

「でも、あの人はミナさんの名前を知っていたよね」
「うん…それも、どうしてかはわからない。突然声をかけられて…でも私名乗ってないし、私はあの人の名前も知らないし」

コナンくんはしばらく考え込むと、私の手を握り直して顔を上げた。小さな手なのに、とても心強くてほっとする。

「とりあえず…一緒にポアロに行こう。ボク、蘭姉ちゃんに頼まれてお使いに来たんだ。蘭姉ちゃんも小五郎のおじさんもポアロで待ってるから、そこで一度落ち着こう?安室さんもいるし」

コナンくんの言葉に、一瞬迷いが生まれる。ここでコナンくんについて行けば、きっと全てを話さざるを得ない状況になる。まだ事が起こったわけじゃないし、もしかしたらあの男性の勘違いだったのかもしれない、なんて思いも無いわけじゃない。
私が迷っているのを察したのだろう。コナンくんは少しだけ眉を寄せると、ぎゅ、と私の手を握った。

「ミナさん。何かが起きてからじゃ遅いんだよ。何か出来ることがあるなら、今のうちから対処しておかないと」

こないだも、安室さんに言われたばかりだった。
本当に困った時はちゃんと相談してくださいね、と。
正直、今すぐ帰るのは怖かった。もしかしたら駅前で待ち構えているかもしれない。そしてもし後を尾けられてしまったら、アパートの場所がバレて安室さんにも迷惑がかかってしまう。それだけは絶対に避けなくてはならないことだ。
蘭ちゃんや毛利さんも一緒なら…これはいい機会なのかもしれない。コナンくんも合わせて探偵が三人もいる。一緒に考えてくれるだろうか。

「…わかった。力になってくれる?」
「もちろんだよ」

力強く頷くコナンくんを見て、本当に私は恵まれていると実感した。


***


場所を変えてポアロである。

「ただいま!」
「コナンくん、遅かったじゃない…あれ、ミナさん?」
「こ、こんばんは…」

コナンくんに連れられ現れた私を見て、蘭ちゃんは少し驚いたように目を瞬かせた。毛利さんはお寛ぎの様子だったのだが、私が店内に入るとぴしりと背筋を伸ばす。なんだか申し訳ないことをしてしまった。

「ミナさん、こんばんは。もうそろそろ閉店の時間ですが、何か召し上がりますか?」

安室さんはそう言ってメニューを持ってこようとしてくれたけど、長居をするつもりは無いというか、ポアロでのんびりする為に来た訳では無いし、多分食器や何やら閉店の片付けに入っていただろうから断った。

今日のラスト番は安室さんということで、さほど忙しくもなかったらしく梓さんは早上がりだそうだ。
その為ポアロには私とコナンくん、それから蘭ちゃんと毛利さん、そして安室さんの五人が集まっていた。
私は毛利さんと蘭ちゃんの隣のテーブルに着き、その向かいにはコナンくんが座り、安室さんはそのすぐ後ろに佇んでいる。
ちなみに牛乳は安室さんが冷蔵庫にしまってくれた。後で持ち帰るのを忘れないようにしないと。

「…何かあったんですか?」

心配そうに切り出す蘭ちゃんに視線を向け、それから私は小さく唸る。
…相談しに来たはいいけど、何をどう伝えればいいのか…まだ少し混乱しているのか頭の中が上手くまとまらない。

「コナンくん、ミナさんとはどこで会ったんだい?」
「米花駅前のスーパーだよ。蘭姉ちゃんからのお使いを済ませてスーパーを出たところで会ったんだ」

だよね、とコナンくんに見つめられて頷く。
コナンくんに説明させていてはいけない。私もちゃんと、自分の口で話さないと。

「…スーパーに牛乳を買いに行ったんです。そのまま帰ろうとしたんですけど…その時、知らない男性に声をかけられて」
「知らない男性?」
「はい。ミナ、って大声で呼ばれて振り向いたら、その、突然腕を掴まれて」

私がそう言うと、皆の表情に鋭さが宿ったのがわかる。…やっぱり知らない人にいきなり名前を呼ばれて腕を掴まれるなんておかしいよね。

「その男性とは初対面だったんですか?」
「はい。見覚えもなくて…」
「そりゃあ、いくつくらいの男性だったんで?」
「歳上だと思います。十歳くらい…か、…それ以上は離れているかも」

どう見ても同年代、には見えなかった。少しくたびれたスーツとネクタイ。顔に刻まれた皺の具合から見ても、恐らくは四十代以上。それぐらい、ということしか分からないからあまりはっきりしたことは言えない。

「ボク少しだけお話ししたけど、ミナさんの言った通りそれくらいの年齢だと思う。四十代くらいじゃないかな。スーツとネクタイだったから、サラリーマンかも。黒い鞄も持ってたよ」

コナンくんが補足してくれるのが有難い。
私は小さく息を吐くと、腕を掴まれてからのことを思い出した。

「今までどこにいたんだ、探したんだぞって言われて…知らない方だったので、どちら様ですかって聞いたんですけど。そしたら記憶喪失を疑われてしまって…」
「…昔の知り合いだったとか、そういうのだったんじゃないんですかね?何年も会っていなかったら顔も曖昧になるでしょうし」
「それは、ないでしょうね」

毛利さんの言葉に安室さんが答える。
私がこの世界での生活が浅いことを知っているからこそはっきり言ってくれるんだろう。そのことに安堵する。

「…それで、その後病院で診てもらおうって連れていかれそうになって…その人がさも知り合いかのように話しかけてきていて、それも大声だったからだと思うんですけど…周りの人達も助けてくれなくて。そんな時、コナンくんが声をかけてくれたんです」
「どう見てもおかしかったから、今日泊まりに来てくれる約束だったよねって声をかけたんだ。そしたらそのおじさん、うちのミナをよろしく頼むなって言って行っちゃったよ」
「うちのミナ?」

安室さんの低い呟きが聞こえた気がする。

「それからミナさんに、帰る時は連絡しなさい、って」
「えっ?ミナさん、その人の連絡先…知らない、ですよね、当然」
「う、うん。…そもそも名前も知らないし、初めて見た顔だったし、でも向こうは私の名前を知ってたし…き、気持ち悪くて」

得体の知れない恐怖。不気味さに胸の奥が重たくなる気がする。
しばらく沈黙が続いて、溜息を吐いた毛利さんが口を開いた。

「そりゃあ、ストーカーじゃねぇか」

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