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「そりゃあ、ストーカーじゃねぇか」

毛利さんの言葉に、背筋が凍りつくような思いだった。
ストーカー。そういった被害の話はよく耳にするしニュースでも見たりしていたけれど、まさか自分がそんな目に遭うだなんて思ってもみなかった。
それに、まだあの男性がストーカーと決まったわけじゃない。もしかしたら名前が同じ他人の空似だったかもしれない。ただ勘違いされてしまっていただけかも。

「ストーカーかどうかは、わからないですし」
「あのおじさんと接触したのは、今日が初めてなんだよね?」
「う、うん」

私が頷くと、コナンくんと毛利さん、それから安室さんは揃って顎に手を当てて考え込む。…探偵って皆考える時はこのポーズを取るのかな、なんて思うと少しだけ気分も軽くなる気がした。

「被害としては見知らぬ男性に声をかけられ、腕を掴まれた。これだけなら不審者として警察に相談を薦めるところだが…」
「その男性はミナさんの名前を知っていた。ミナさんを狙っていたとしたら、無差別にやってるわけじゃないよね」

コナンくんの言葉に、声を詰まらせる。
…確かに、無差別…という訳では無いかもしれない。わざわざ私の名前を呼んだということは…私を狙っていた、ということになるのだろうか。
でも、あの男性はどこで私の名前を知ったのか。嶺書房さんはわりと常連さんが多いから、もし来ていたとしたら覚えていると思う。少なくとも店で顔を合わせたことは無いような気がする。

「とりあえず、警察に相談に行きましょう。現状すぐには動いてはくれないでしょうが、不審者情報として警戒くらいはしてくれるはずです」

安室さんの言葉に顔を上げる。
警察に相談なんてそんな大事にするわけには、と思いながら私が首を振ろうとするも、コナンくんの声に遮られる。

「うん、ボクもそれがいいと思うな。ね、ミナさん」
「えっ、ええ…?」
「ミナさん、私も警察に相談した方がいいと思います。何かあってからじゃ遅いですよ」

コナンくんと蘭ちゃんに押され、私は結局口を閉ざした。
皆心配してくれるのは嬉しいけど、どことなく気は進まない。…怖かったのは事実だけど、このまま何も無い可能性だってあるのに。そう思いかけて、私は小さく頭を振った。
ここは米花町、犯罪率の高い街。甘い考えは、事件の引き金になりかねない。先日思い知ったばかりだ。
コナンくんや蘭ちゃんの言う通り、事が起こってからじゃ遅い。その前に出来る対策はしておいた方がいい。

「…そう、だね。…うん、そうします」
「そうと決まれば、交番まで行きましょう。お店閉めちゃうので、少し待っててくださいね」

安室さんはそういうと、テーブルに残っていた食器類を片付け始める。多分、もう食器類を残して他の締め作業は終わっているんだろう。
安室さんが来てくれるなら心強いな、とその背中を見送る。

「ボクも一緒に行くよ!少しでも説明出来る人は多い方がいいでしょ?」
「じゃあ私も。お父さん、コナンくんと一緒に交番行ってくるから、先に帰っててね」

コナンくんと蘭ちゃんの声に振り向く。そこまでしてもらうのも申し訳ないが、上手く説明できるか不安な分コナンくんが一緒なら私も安心出来る。
毛利さんはコナンくんと蘭ちゃんの言葉に頷くと、私に向き直って言った。

「安室くんがいるなら心配はいらないと思いますが…何かあればいつでも力になりますので。何ならコナンの言った通り、うちに泊まっても構いませんし」
「毛利さん…ありがとうございます。何かの時には是非頼りにさせてください」

毛利さんの優しい言葉に胸が熱くなった。皆本当に優しい人達だ。
エプロンを外した安室さんが歩み寄ってくるのに気づいて立ち上がると、コナンくんや蘭ちゃんも席を立った。

「お待たせしました。行きましょうか」

安室さんに促されてポアロを出る。
安室さんの手には私が買ってきた牛乳の入った袋があり、忘れるところだったなと小さく苦笑する。
電気を消して戸締まりをする安室さんを見つめながら、私の周りには頼りになる人ばかりだと、本当に人に恵まれていると実感して、心から感謝した。



その後、安室さんとコナンくん、蘭ちゃんと一緒に駅前の交番に向かい、そこで一連の出来事を相談した。
無差別の可能性も少しだけ疑ってはいたものの、お巡りさんの話ではそういった被害は今のところ上がってきていないそうだ。
声をかけられて腕を掴まれたと話をしたら、コナンくんが「そのまま連れ去られそうになってたんだよ」と補足してくれたのが助かった。
犯人を探すところまではいかないが、近隣のパトロールを強化してくれるそうだ。

「しかし、初対面にも関わらずあなたの名前を知っていたという点で、ストーカーという線も充分に考えられます。自衛と警戒をしっかりお願いしますね。何かあれば署まで連絡を」
「わかりました。ありがとうございました」

お巡りさんにお礼を告げてから交番を出る。
事態が何か変わったわけではないが、相談したことで気が楽になった気がする。小さく息を吐くと、蘭ちゃんにそっと背中を撫でられた。

「ミナさん、大丈夫ですか?」
「ごめんね、心配かけて。大丈夫、私も気を付けるようにするし」
「…ミナさん、一人暮らしですか?あの、本当にうちに泊まっていただいても大丈夫ですし」

心配してくれてるんだなぁ。ありがたく思いながら、私は小さく笑って首を振った。

「大丈夫だよ、ありがとう」
「でも…」
「蘭姉ちゃん、大丈夫だよ」

心配そうな蘭ちゃんに声をかけたのはコナンくんだった。
視線を下に下げてコナンくんを見つめれば、コナンくんは両手を頭の後ろで組んだまま小さく肩を竦めて安室さんを見上げる。

「安室さんもいるし」
「んっ?」

予想外の言葉に思わず変な声が出た。
安室さんはコナンくんの言葉を受けて目を瞬かせるものの、すぐに小さく笑う。

「ええ、もちろん。ミナさんのことは、僕に任せてください」

意味深なその笑みと言葉に、蘭ちゃんがほんのりと赤くなって口元を押さえるのが横目に見えた。これ絶対勘違いされてる。

「そっ…うですよね!安室さんがいるなら大丈夫…!」
「蘭ちゃんあの違」
「ミナさん、何かあれば私も協力しますから!」

ぐ、と親指を立てる蘭ちゃんに頭を抱えたくなった。やっぱりこれ勘違いされてるやつだ。…きっと後でメールでいろいろ聞かれるんだろうな、と思って空笑いした。
ちらりと見れば、少し離れたところで安室さんとコナンくんが何やら話をしている。何を話しているのかは聞こえないけど…安室さんは笑ってるみたいだし、暗い話ではなさそう。…何を話してるのかな。
話はすぐ終わったみたいで、安室さんとコナンくんがこちらに歩み寄ってくる。

「それじゃ、帰りましょうか。蘭さんとコナンくんも、探偵事務所までお送りしますよ」

安室さんに促されて、私達は毛利探偵事務所へと歩き出した。


***


蘭ちゃんとコナンくんを送り届け、私と安室さんはのんびりと歩き出した。今日は安室さんは車ではなく徒歩で来ているらしい。駅前からバスに乗るのかと思いきや、徒歩で帰るとのこと。
暗い道を安室さんと歩きながら、私は安室さんに視線を向ける。

「…でも、どうしてバスではなく徒歩で帰るんですか?」
「万一尾行されていた場合のことを考えて、ですね。尾行されていたら、バスに乗ってしまうと家の近くまで連れてきてしまうでしょう?歩きなら撒くことが出来る」
「なるほど…。…でも、尾行されているかどうかなんてわかるものですか?」

正直私にはそんな自信はない。はっきりとした足音でもしていたら別だけど…でも、もしかしたらたまたま家の方向が同じ人かもしれないし、更にもしかしたらたまたま隣の家の人だったりする、かもしれない。そんなことだから警戒心がないだなんて言われてしまうのかもしれないが。

「わかりますよ。これでも探偵ですから」
「探偵さんってすごい…」

確かに探偵さんなら誰かを尾行したりすることもあるだろう。その際、相手に気付かれないように気を張っているのだろうし…気配というものにも敏感になるのだろうか。私は探偵にはなれないななんて思う。

「それよりもミナさん。コナンくんに言われなかったら、相談も何もしないつもりだったでしょう」
「…そ、…そんなことはないですよ」
「あなたの嘘は見抜きやすいですね」

うぐ、と言葉に詰まって視線を落とす。
…今は相談して良かったと思っているし、相談すべきだったと思う。相談して正解だったと思っている。けれど確かに、コナンくんに何も言われなかったら果たして安室さんや警察の人に相談したかと考えたら…していなかったかな、と思う。
何も事が起こっていないのに相談なんてしていいのだろうか、だって少し腕を掴まれたくらいだし…みたいな気持ちが先に出てしまうのである。まさか自分が、なんて気持ちもあったし。

「…大事にしてしまっていいのかな、と思ってしまって」
「言ったでしょう、本当に困ったことがあったらちゃんと相談してくださいね、と」
「…はい」
「あなたが困っているのを見過ごすのは嫌なんです」

そう言う安室さんに、そっと手を取られて握られる。
大きな手のひら。繋がれた手を見て、ほんのりと頬が熱くなるのを感じた。

「僕も出来る限りのことはしますが、先程の警察官に言われた通りミナさんも自衛と警戒はしっかりしてくださいね」
「はい、もちろんです」
「…うちのミナ、なんて言い方をしたのがどうにも引っかかるんです。ストーカーが妄想に取りつかれている場合も珍しくはありませんし」

“うちのミナ”。
確かにあの男性はコナンくんに対して私のことをそう言った。それはまるで、私とあの男性が夫婦であるかのような言い方である。知らない人と夫婦であることにされているなんて気味が悪い。
安室さんの言うように…あの男性の妄想の中では、私とあの人は夫婦なのだろうか。
帰る時は連絡しなさい、とも言われたし…連絡も何も連絡先がわからないのだから私にはどうしようもないのだが。

「すみません、怖がらせましたか」

安室さんの声にはっとして顔を上げる。
無意識のうちに安室さんの手をぎゅうと握り締めてしまっていたようだ。慌てて手の力を抜く。

「ご、ごめんなさい。手、痛くなかったですか」
「ミナさんの握力くらいじゃ痛くなったりなんてしませんよ」

結構強く握りしめてしまっていたと思ったのだが、安室さんは軽く笑うだけである。…男性の手だもんなぁ。きっと安室さんは握力も強いのだろうし、私の力程度じゃビクともしないのだろう。

「大丈夫ですよ。…ちゃんと、守りますから」

その言葉にとくりと胸が弾む。
けれど安室さんは先程までの穏やかな表情を引っ込め、やや鋭い視線を周囲に走らせている。その様子に私にも緊張が走った。

「ミナさん」
「…はい、」
「少し遠回りをします」
「…走りますか」
「走れますか?」
「はい」

小声でやり取りをしながら、繋いだ手に力を込める。
近くにあの男性がいるのだ。安室さんはそれに気付き、恐らくどの辺にいるかの目星もついているのだろう。
安室さんに手を引かれながら歩いて、囁かれる言葉に耳を傾ける。

「…僕の合図と同時に走ります。いいですか?」
「…いつでも大丈夫、です」
「頼もしいですね」

くすり、と安室さんが笑う。安室さんはさりげなく私が持っていた牛乳の袋を取り上げた。私が走りやすいようにとの配慮だろう。ドキドキと心臓が暴れ始める。
目の前数メートル先に、十字路。その方向に向かいながら、安室さんが手に力を込めた。
そして十字路に差し掛かる。

「走って!」

安室さんの声に足が反応する。
弾かれたように私と安室さんは駆け出した。

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