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どこをどう走ったかはわからない。ただ私は安室さんに手を引かれるまま、縺れる足を必死に動かして住宅街を駆け抜けただけだ。
どれくらいの間走っていたのかもわからないまま、気付けば安室さんのアパートの前にいた。息が乱れに乱れた私とは違い、安室さんはほんの少しだけ呼吸が浅くなった程度。普段からの鍛え方が違うのだろうけど、あまりの差に少し運動しようと心に決める。
安室さんはアパートの前で辺りに視線を走らせると、胸を押さえて肩で呼吸を繰り返す私に向き直った。

「どうやら無事に撒けたようです…大丈夫ですか?」

いつもの笑みを浮かべた安室さんは、私の様子を見て瞬時に心配そうな表情になる。そりゃ、こんな息を乱している人を目前にしたらそんな表情にもなるだろうな。
すみませんろくに言葉も返せない状況で。小さく咳き込みながら、大丈夫という意思表示のために精一杯頷いて見せた。

「全力で走らせてしまいすみません。歩けます?」

正直走りすぎて足腰はガクガクと震えていたが、たかだかアパートの前から部屋まで歩けないなんて情けなくて耐えられない。
私が頷くと、安室さんはそっと私の腰を抱き寄せてくれる。体を支えられてほんの少しだけ楽になった。走って汗をかいてるだとか密着度がすごいだとか思うことは色々あったけれど、正直私の呼吸器官はそれどころではない。密着度に関しては毎晩の添い寝のこともあり今更だ。気にするだけ無駄である。
安室さんに支えられながら階段を上がると、安室さんは一度私から体を離してドアの鍵を開けてくれた。
中に促されて、靴を脱いでダイニングキッチンに上がり込んだところで…限界だった。

「っ…はぁぁあー…!!」
「お疲れ様でした。ミナさん体力ありますね、ここまでとは思いませんでしたよ」

深く息を吐き出したところで安室さんが笑いながら声をかけてくる。
いや、体力ありますねなんて言っているけど、グダグダな私と違って安室さんはすっかり呼吸も元通り。全力疾走した後だなんて思わせない様子である。…そもそも安室さんにとっては全力疾走ですらなかったかもしれない。軽いウォーミングアップとか?有り得る。

「あむ、っ…あむろさ、…なんでそんな、…涼しい顔して…!」
「これくらい体力がないと仕事にならないんですよ」

探偵ってそんなにハードなお仕事なんでしょうか。
ぜはーぜはーと息を乱しながら座り込んだままの私の前に安室さんがしゃがみこんで、小さく笑いながら私の頭を撫でてくる。突然のことに一瞬呼吸の仕方さえ忘れた。

「もう大丈夫ですよ」

にこりと笑う安室さんに目を瞬かせてすぐに、走って乱れた髪の毛を直してくれているのだと気付いた。
恥ずかしすぎる。

「す、っすみませ、」
「ミナさんの髪、触り心地が良いですね」

何とはなしに告げられる言葉に息も詰まる。まともな呼吸をさせて欲しい。

「えっ」
「あなたはあのうさぎのぬいぐるみの触り心地を気に入っているようですが…僕はこちらの方がいい」

ぽかん、と口を半開きにしてしまった。息は止まったままである。
安室さんは一体どうしてしまったのだ。酔ってる?いや、酔うタイプではないだろうしそもそもアルコールは摂取していないはずだ。
目を白黒させる私に構わず、安室さんは私の頭を優しく撫でて…やがて満足したのか手を離すと、改めて私と目を合わせてにこりと笑った。

「さ、ご飯にしましょうか。少し遅くなりましたが腕をふるいますよ」

呆気に取られたまま立ち上がれない私をよそに、彼は立ち上がってエプロンをつけながら台所の前へと立つ。
…今のは…なんだったのだろう。安室さんに撫でられていた頭に触れる。頬がかぁと熱くなっていて、胸がドキドキと高鳴っている。
私は未だ、ろくな呼吸さえ出来ずにいる。


***


その翌日。
いつも通り嶺書房さんでの勤務を終え、いつも通り電気を消して戸締まりをした。嶺さんに無事閉店した旨連絡して、スマホを鞄に入れて…一息。
私は鞄を両手で強く抱き締めながら、路地の先に視線を向けた。
佇む人影。薄暗がりの中にいるため顔ははっきりとは見えないが、その人影はじっとこちらの様子を伺っているように見えた。少なくとも視線を感じる。
ぼんやりと見えるのは、スーツ姿の男性だろうということ。それだけで、昨日腕を掴んで来た男性を想像して萎縮する。

「ミナ」

声をかけられて小さく身を竦ませた。鞄を抱きしめる腕に更に力を込める。

「ミナ、どうしてそんなにワガママなんだ」

ゆっくりと男性がこちらに歩み寄ってくる。それは、そこらのホラー映画なんかよりもよっぽど怖い光景だった。
…昨日の男性だ。間違いない。声も、喋り方も、耳に残っている。地面を打つ革靴の音が路地に反響するような気さえする。…怖い。

「どうして帰ってこなかった?連絡をしなさいと言っただろう。連絡すら出来ないのか?もうあの子供と会うのはやめなさい、君の為にならない」

この人は何なのだろう。柔らかく語るような口振りで話しながら、男性は一歩一歩近付いてくる。

「ミナ、帰ろう。君の作るビーフシチューが食べたいんだ」
「どちら様ですか」

私に、ビーフシチューなんて作れるわけがない。そんなもの作ったこともないし作ろうと思ったことも無い。
この人の妄想なのか…それとも人違いなのかはわからないけど、どっちにしろこの男性は勘違いをしている。
はっきりと声に出して問うと、男性はぴたりと足を止めた。

「まだそんなことを言っているのか」

先程までの優しい声とは違う、低く震える声だった。

「本当に記憶を失ってしまったのか?やはり昨日無理にでも病院に連れていくんだった」
「私はあなたと会ったことなんてありません、人違いだと思います。私は記憶喪失なんかじゃないですし、そもそもあなたの連絡先どころか…名前すら知りません」

言いながら、恐怖に負けた足が小さく震え始める。
ここでへたり込むわけにはいかない。ゆっくりと後退りすると、離れた分の距離を男性が詰めてくる。
日陰から出た男性の顔が太陽に照らされる。口元は笑みを形作っているのに、目が全く笑っていない。
…この男性は、私が嶺書房で働いていることを知っていた?だから、待ち伏せしていたのだろうか。私がここで働いていることを知っていたということは…やはりお客さん?そうは思うものの、男性の顔にはどうしても見覚えがあるとは思えなかった。記憶に一切引っかからない。

「…ミナ、いい加減にしなさい」
「あなたは誰?どうして私の名前を知ってるんですか」
「いつまでふざけているつもりだ?」
「ふざけてなんかいません」

男性が一歩近づけば、私も一歩後退る。距離を縮めさせない。これ以上近付きたくなかった。
けれど男性はふと視線を下げ、私の手元を見ると…息を飲んで目を剥き、大股で歩み寄ってきた。咄嗟のことに反応が出来ないまま、伸びてきた男性の手に左手を掴まれる。

「っやめ、痛ッ!」
「ミナ!!指輪はどうした!!結婚指輪がないじゃないか!!」
「ゆっ」

指輪?!
この人は一体何を言っているんだろう。わけがわからずに混乱する。それもただの指輪ではない、この男性は結婚指輪と言ったのだ。
結婚?誰と?私とこの男性が?冗談ではない。

「離して!」
「捨てたのか?なくしたのか?どちらにしろ許せることではないぞ!!」

この人、おかしい。妄想に取り憑かれているのか。
強く手首を掴まれて、そういえば以前もこんなことがあったなぁなんて思い出す。
家に乗り込んできた元彼に、突然腕を掴まれて。…あの時も、安室さんが助けてくれたのだ。
強い人。
安室さんがいてくれたら…安室さんのことを思えば。
私は、いくらでも強くなれるような気がするのだ。

瞬間、突然横から伸びてきた褐色の腕に顔を強く殴られた男性が、大きく真横に吹っ飛んだ。がしゃん、と派手な音がして思わず目を瞑る。
強く掴まれていた腕もあっさりと離され、その反動でよろめくも背中を大きな手に優しく支えられた。

「お待たせしました。遅くなってすみません」

耳元から聞こえた声に目を開ける。
顔を上げれば、小さく微笑む安室さんが立っていた。体から緊張が解けて、私は深い溜息を吐き出す。

「安室さん、」
「よく頑張りました。後は任せてください」

私が男性と向き合いはっきり物を言うことが出来たのは、全て安室さんのおかげだ。

***

昨日の夜、安室さんはこう言ったのだ。

「明日、ミナさんが嶺書房を退勤するくらいの時間、店の周辺に張り込みます」

安室さんと歩いているところを尾けてきたのを考えると、恐らく男性は強硬手段に出るだろうというのが安室さんの見解だった。その為、男性が私を狙うであろう嶺書房の退勤時間…そこを安室さんが張り込み、接触してきた現場を押さえるのだという。

「でも、あの人私が嶺書房で働いていることを知っているんでしょうか」
「あの男性とミナさんの繋がりを探すと、正直そこしか考えられません。名前を知っているとなると、尚更です」

安室さんの推理ではこうだった。
あの男性は恐らく、以前から私のことをストーカーしていた。嶺書房で働き、決まった時間に駅前からバスに乗り帰る。その一連の流れも知っていたはずだと。その話に背筋が冷えたが、家の辺りまでついてこられたことはない…と思う。家の場所を知っていたら、撒くことなど出来なかったに違いない。

「恐らくは、あなたを見守るだけで満足だったんでしょう」

それが突然、私がスーパーに寄るというイレギュラーな状況になった。嶺書房を出ていつもならすぐ駅に向かう私が、その動線から消えた。

「ミナさんを見失って焦ったんでしょうね。その焦りからかはわかりませんが…恐らく彼の中の妄想が、彼にとっての現実になってしまったのはその時です」

行き過ぎた妄想が偽りの現実に取って代わる。
男性は偽りの現実を信じ込み、そして私に直接接触をしてきてしまった。
安室さんと歩いているところも見られていたことだろう。ということは、すぐにまた接触してくる可能性があるのだという。

「これははっきりとしたデータがあるわけではなく都市伝説に近い話ですが…男女間での恋人や結婚相手が浮気をした時、男性の場合はその当人を責める傾向があります」
「えぇとそれはつまり…例えばお嫁さんが浮気したら、そのお嫁さんを責めるっていうそういうことですか」
「そういうことです。女性の場合は浮気相手を責める傾向が強いみたいですね」
「つまり旦那さんが浮気をしたら、お嫁さんは旦那さんではなく浮気相手の女性を責めるっていう」
「その通りです。もちろん一概には言えませんし、先程言った通り都市伝説に近い話なので言い切ることは出来ませんが。けれど、その男性の話を聞く限り…あなたに再度接触してくる可能性は高いと思います」

***

安室さんの推理が大当たりである。
男性は殴られた頬を押さえながら呻いている。ボクシングが趣味である安室さんの拳はさぞ痛かろうと思いながら、私はゆっくりと息を吐き出した。

「う、う…!な、なんだお前…!」
「探偵です」
「た、探偵…?!」

にこりと笑いながら言った安室さんは、レコーダーを取り出して小首を傾げた。

「先程のミナさんとの会話、録音させていただきました。証拠として提出します」
「なに?」

「ストーカー規制法、ご存知ありませんか」

安室さんの言葉に、男性は息を飲んで目を見開いた。

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