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「ストーカー規制法、ご存知ありませんか」

安室さんの言葉に、男性は息を詰めて目を見開いた。それは罪を突きつけられて焦ったと言うよりは、自分がまさかそんなことを言われるだなんて思ってすらいなかったというような反応のように見えた。

「なっ、なにを」
「ストーカー行為とは、付き纏い等の行為を反復して行なうことです。あなたはミナさんに付き纏っていた」
「じ、自分の妻を見守って何が悪い?!」
「…こんな状況になっても尚現実を見ないのは少々厄介ですね」

安室さんは小さく溜息を吐いて肩を落とすと、いいですか、と男性に声をかけながら再度顔を上げる。

「あなたはミナさんの勤務先での待ち伏せ、進路立ち塞ぎ、押しかけを行ないました。これは立派な付き纏い行為に当たります」
「違う!俺は、」
「そして“帰ろう”“結婚”などの義務のないことを行なうことの要求。それから彼女に掴みかかるという乱暴行為、怒鳴るという粗野な言動。そもそも彼女はあなたの配偶者ではありません」

ぴしゃりと言い切る安室さんの声に安堵する。この人に任せていれば全て大丈夫だと思えるような、そんな大きな安心感だった。
男性は安室さんに言葉を遮られ、事実を突きつけられ、青ざめているのがわかった。少しだけ震えているようだ。自分の行なっていたことへの自覚が出てきたのだろうか。

「…ミナ、」

可哀想なくらいに細い声で、その男性は私の名前を呼んだ。哀れな姿に胸が痛むけれど、この人は私の知らない人。安室さんが助けてくれなければ、この人に連れ去られていた可能性だってある。手首を掴まれ、詰め寄られ、怖い思いをした。
この人は間違いなく、私にとって加害者なのである。

「…私はあなたの奥さんではありません。あなたのことは知りません。私のことを、どこで知ったんでしょうか」

今なら声も届くかもしれないと思い、ゆっくりと告げる。すると男性は、私の言葉を反芻するように一度瞬きをし、視線を地面に落とした。

「……嶺書房の常連の…友人がいて…。…そいつから、新しく働き始めた女の子の話を聞いたんだ」

常連さんの、お友達だったのか。
常連さんの中には毎日来てくれるような人も何人かおり、私のフルネームを知ってる人もいる。その誰かから私の話を聞いていたとしても、なんら不思議ではなかった。
男性は膝に着いた手を強く握り締めると、深い溜息を吐く。

「……数年前、妻を病気で亡くしたんだ。妻の名前も、ミナだった。なんとなく縁を感じて、嶺書房で働く君のことを見守りたくなった。仕事の行き帰りを見守れるだけで良かった。それは本当だ」

足音が近付いてくる。視線を向けると、数人の警察官が立っていた。
安室さんが呼んだのだろう。警察の人達は男性に歩み寄ると、その手に手錠をかけた。

「署まで同行いただけますね」
「……はい、」

警察官に連れられて、男性はゆっくりと歩き去っていく。
その背中が酷く小さく見えて、加害者とはいえ…やはり、胸が痛んだ。
奥さんを亡くしていた。奥さんのビーフシチューが食べたいと言っていたけど…料理の上手い奥さんで、仲睦まじい夫婦だったのかもしれない。
無意識に左手の薬指に視線を落とす。結婚指輪がないと大声を上げていたけれど、あんなに激昂するほど奥さんのことを大切に思っていたのだろうか。
ぼんやりと自分の左手を見ていたら、そっと安室さんの褐色の手に左手を握り込まれる。顔を上げると、安室さんが小さく笑っていた。

「…大丈夫ですか?」
「…はい。安室さんがいてくださって良かったです。ありがとうございます」

緊張から冷えていた手先が、安室さんの体温でゆっくりと温まっていくのを感じる。
…以前元彼が家に押しかけてきたときもそうだったけど、安室さんの法律の知識というか…そういうのが本当にすごい。探偵さんってそんなことまで知識として持っているものなのだろうか。

「一度僕達も警察署に行きましょう。簡単な事情聴取をしないといけませんから」
「…はい」

ストーカーをされていたのは私だ。私が事情を説明しなければならないことはわかる。一人だったら気が重かったかもしれないが、安室さんが一緒なら何も怖くない。

「あなたは最近事件に巻き込まれることが多いですね。…ますます、目が離せない」
「……お手数おかけします」
「そういう意味じゃありませんよ」


***


その後警察署にて簡単な事情聴取を受けた私は、安室さんと二人で帰路に着いた。
あの男性は安室さんの言葉によって正気を取り戻したらしく、自分が行なっていたことの重大さも理解したようで、警察の方から「本当に申し訳ないことをした」との言付けをいただいた。
あの男性は私自身にはもちろん、勤務先である嶺書房近辺に近付くことの禁止命令が出されたようだ。反省もしているとのことだったので、もうこれ以上の接触はないだろうと思っている。

「かといって、油断はいけませんけどね」

アパートに戻ってきて、安室さんが夕食を支度しながらそう言った。

「油断…ですか」
「万一のことがあるかもしれないということです。常に気を張っていろというわけではありませんが、今後また何かあればすぐに誰かに相談してください」

例えば今回の一件でコナンくんとたまたま遭遇しなかったら。あの時男性に連れ去られそうになって…それを回避出来たとしても、私は誰かに話すことはしなかっただろうと思う。
そうしたらどうなっていたか。男性の行為はエスカレートし、手に負えないような状況になっていたかもしれない。

「…善処します」
「善処ではなく、約束をして欲しいんですけどね」

私が小さく呟くように言った言葉は、安室さんにバッチリ聞こえていたらしい。安室さんは苦笑しながら答えて、それ以上は何も言わなかった。

今日の夕飯はサラダとカレーライス。
今までにも何度か安室さんの作ってくれたカレーを食したことかあるが、程よく効いたスパイスは恐らくだが安室さんのブレンドではないだろうか、と思っている。
出来上がって盛り付けられたサラダの皿や食器をテーブルに運ぶと、カレーライスの皿を安室さんが持ってきてくれる。
今日のカレーもとても美味しそうだ。
安室さんとテーブルに着いて、一緒に手を合わせていただきますをしてから食べ始める。

「そう言えば、掴まれた手首は大丈夫ですか?見た感じ傷にはなっていないようですが」

安室さんに言われて、自分の左手首に視線を向ける。男性に強く掴まれはしたしその時は痛みもあったけど、痣や傷にはなっていない。軽く動かしてみるが痛みもなかった。

「大丈夫みたいです」
「それは良かった」

安室さんはほっとしたように笑うと、サラダを食べ進める。私もサラダを口に運んで、さっぱりとしたドレッシングの味に頬を緩めた。

「ミナさん」

安室さんに声をかけられて、もぐ、と咀嚼するのを一時中断して視線を向ける。
安室さんの目は私の方を向いてはいなかった。どこを見ているのかわからないが…視線はテーブルに落とされている。どうしたのだろうと思いながら首を傾げる。

「……いえ、何でもないです」
「えっ?な、なんですか?気になります」

しばらくの沈黙の後に何でもないと言われて、むしろ気になってしまって眉を下げる。安室さんは何を言おうとしたのだろう。気になって首を傾げると、安室さんはそんな私を見て小さく笑った。

「気にしないでください。…今はまだ言うべきではないと思ったので」
「…今はまだ?」
「時が来たらちゃんとお話しますよ。…近いうちにきっと」

安室さんはそう言って小さく笑うと、サラダを食べ切ってカレーに手を着け始めた。
…近いうちにきっと、話してくれる。なら、私は今は問い詰めることなんてしないで、ただその時を待つだけだ。
安室さんは言ったことを破ったりするような人ではない。言葉通り、きっと近いうちに話してくれるだろう。

「…でも、じゃあ少しだけ」
「はい」

ぱっと顔を上げる。安室さんはスプーンを持ったまま私を見つめ、小さく首を傾げている。

「あの男性に、“うちのミナ”と言われた時どう思いました?」

まるで夫婦かのような物言い。その言葉通り、あの男性は私と夫婦と考えてしまっていたようだったが。
言われた時のことを思い出しながら、私はもやりとした気分になって眉を寄せた。

「……気持ち悪かったです」
「まぁ、知らない男性に言われたのですから当然ですよね」
「いつからこの人のものになったんだろう、って怒りも少しありましたし…、…でも、まぁ、それ以上に気持ち悪くて怖かったような気がします」

仮に本当の夫婦ならなんらおかしい言葉ではないのだろうけど。
けれど知らない相手から、さも親しい間柄のように声をかけられ名前を呼ばれるのは、思っていた以上に大きなストレスだったと思う。考えても見て欲しい。恐怖である。

「でも、どうしてそんなことを聞くんですか?」

何故安室さんがそんなことを気にするんだろうと思いながら顔を上げる。すると安室さんは、苦笑を浮かべながら軽く肩を竦めた。

「コナンくんからその話を聞いた時、お恥ずかしいことに僕も苛立ちを覚えたものですから」
「…安室さんが?」

そういえばポアロで事情を説明していた時、コナンくんがこの話をした時に安室さんが「うちのミナ?」と低く呟いていたのを聞いたような気がする。

「心配をおかけしてしまって本当にすみませんでした」

心配してくれた故だろうと思いながらそう言ったのだが、安室さんは何やら目を瞬かせるとすぐに困ったように小さく笑う。

「いえ。心配したのはもちろんですが…単なる嫉妬ですよ」
「へ」

嫉妬、と言ったのか。
私が目を瞬かせている間に、安室さんはええ、と頷く。

「“うちのミナ”だなんて言われてしまったことに、嫉妬したんです。知らない相手が、ミナさんのことをそう呼んだことに」

かぁ、と頬が熱くなる。まさかそんなことを考えていたなんて思ってもみなかった。
好きな人に嫉妬してもらえるなんて、思うわけないじゃないか。関係だって曖昧なままだというのに。

「ミナ」
「ひぇっ」
「……なんて、やっぱりちょっと馴染まないですね」

呟くように言われて変な声を上げる。
今。今安室さん。私のことを、呼び捨てに…したのか。嬉しいような気もするし、でもやっぱり恥ずかしいし、いたたまれなくなって下を向く。でも頬は緩みそうで仕方がない。

「…ミナさん」
「…はい…」
「ちょっと僕のことを、名前で呼んでみてくれませんか?」
「えっ」

ぱっと顔を上げると、にこにこと笑う安室さんと目が合った。
しばしぱくぱくと口を動かしてみるも、安室さんは変わらず微笑んだまま私を見つめている。

「……、と、……とおる、さん」
「もう一度」
「……透さん…」

言ってから恥ずかしくなって両手で顔を覆った。
たかが名前を呼んだだけだ。何故私はこんなにも羞恥に襲われ顔を赤くして動けなくなっているのか。胸がドキドキとして、きゅんと疼いて、けれども口にした安室さんの名前が愛おしい。
透さん。…透さん。

「…ふふ、たまには名前で呼ばれるのもいいですね」
「…恥ずかしいです」
「無理に名前で呼んでくださいとは言いませんよ。…でも、あなたに呼ばれるのは心地がいい」

だからまた呼んでくださいね。
安室さんの楽しそうな声に胸が温かくなる。
こうやって安室さんは、私の中からひとつずつ、少しずつ、嫌だった思いや恐怖を取り除いていってくれるのだ。

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