76

「夏休みの宿題を手伝って欲しいの!」

歩美ちゃんにそう言われて、世間はもう夏休みなんて言う時期なのかと思い知った。
汗ばむ陽気になったなとは思っていた。街を歩く人々の服装が長袖から半袖になったことも理解していた。気温がぐんと上昇し、日が伸びて退勤時である午後六時に大分明るくなったことも感じていた。
けれども、そうか。世の子供達はサマーバケーションなのか。



「こんにちは、少年探偵団のみんな」

嶺書房での勤務を終えた帰り道、米花駅の駅前で久し振りに少年探偵団の子供達を見かけた私は、軽く挨拶くらいはしようと彼らに声をかけたのである。
元太くん、光彦くん、歩美ちゃん、哀ちゃん、それにコナンくん。メンバー勢揃いであった。学校帰りかと思ったが、ランドセルを背負っていないところを見るとどこかに遊びに行った帰りだろうか。

「あっ、ミナ姉ちゃん!!」

最初に声を上げたのは元太くんである。それから光彦くん、歩美ちゃんが振り返り、コナンくんと哀ちゃんも足を止めた。
それから何やら元太くんと光彦くんと歩美ちゃんの三人は顔を見合わせ、それからこれ幸いとばかりに駆け寄ってきた。なんだなんだと目を瞬かせていたら…歩美ちゃんに、冒頭のセリフを言われたというわけである。
そりゃ、ランドセルなんて背負ってるはずもない。だって夏休みだもの。この期間、子供たちは大いに遊ぶのが仕事である。…宿題を終わらせる、という条件付きであるが。

「えっ、夏休みの宿題?」
「そう!もうあとちょっとしか日にちもないんだけど、全然終わってないの!」
「えぇ…?」

…正直夏休みの宿題に苦しめられたのは私も心当たりがあるから何とも言えないけれども。八月の最終日に必死になって宿題を終わらせたのも、今となっては良い思い出である。二度と経験したくはないが。

「お前ら、ちゃんと自力で終わらせねぇと意味がねぇだろうが」

コナンくんの言葉に三人は振り返ると、不満そうな声を漏らした。
コナンくんと哀ちゃんの様子を見る限り、あの二人はちゃんと終わってるんだろうな。…まぁ、夏休みの最後まで宿題を残しておくタイプには見えないし。七月中に終わらせたんだろうなぁと思いながら苦笑した。

「ちなみに、何が残ってるの?」
「俺はほとんど全部…」
「僕は終わってるんですけど、元太くんが終わりそうにないので…その手伝いを」
「歩美は絵日記が埋まらないの!」

なるほど。この中で一番ヤバそうなのは元太くんだな、と思いながら頭を書いた。ほとんど全部ってどういうことだ。算数国語理科社会…それから絵日記?それが全部ほとんど終わってないとなるとかなり大変なんじゃないかな、と少し頭痛がした。
コナンくんや哀ちゃん的には大人が手を出すのはあまり褒められたことではないんだろうが…さすがにここで突き放すのはあまりに可哀想だと思い頷く。

「私明日ならお仕事お休みだから、お手伝いくらいなら出来るけど」
「ホント?!」
「ただし、コナンくんの言う通り自力で終わらせないと意味がないから、私はあくまでお手伝いするだけ。それでも良ければ付き合うよ」

喜ぶ子供達を見て、呆れたように肩を落とすコナンくんと哀ちゃんをまぁまぁと宥めながら、手伝うくらいならいいだろうと考える。
小学一年生レベルの宿題なら私にも教えられるだろうし、家に篭もって一人で宿題と対峙するよりは気分的にも捗るだろう。友人達と集まって宿題をするのも、長期休みの醍醐味だろうし。

「ミナお姉さんありがとう!じゃあ、明日ポアロに集合ね!」
「ポアロでやるの?図書館とかじゃなくて?」
「図書館だと、腹減った時にすぐ食えねぇじゃんか!」

…元太くん…。
君が食欲旺盛なのはよく知っているつもりだけど、そういう理由でポアロなのか、と思わずから笑いをしてしまった。
…まぁ、私はどこでも構わないのだけど。彼らが集中出来るのならどこでも良いだろう。それに、ポアロなら安室さんもいるだろうし…彼なら、この子達に良い的確なアドバイスをくれるかもしれない。

「わかった。それじゃあ、明日午前十時にポアロでいいかな?」
「はーい!」
「よろしくお願いします!」

元気のいい返事に小さく笑う。それから顔を上げてコナンくんと哀ちゃんに視線を向けた。

「二人はもう終わってるんだろうけど、来る?」

尋ねると、哀ちゃんは軽く肩を竦めてひらりと手を振った。

「私はパス」
「そっかぁ。コナンくんは?」
「…まぁ暇だし、手伝うくらいなら行ってもいいけど」
「決まりだね」

翌日午前十時にポアロで待ち合わせをして、そのまま私は少年探偵団の子供たちと別れたのだった。


***


午前十時、ポアロに行くと既に子供たちは揃っていた。
窓の外から彼らの姿を見つけて、ドアを開けて中へと入る。からんからんとドアベルの涼やかな音がして、子供たちがこちらを振り向いた。

「ミナお姉さん!」
「おはよう。どう?宿題は進んでる?」
「まだ始めたばっかりだよ!」

元太くんの隣に光彦くん、その向かい側に歩美ちゃんが座り、お誕生日席にはコナンくんが座っていた。必然的に私は歩美ちゃんの隣へと腰を下ろす。
ポアロの店内は程よくクーラーが効いていて、寒過ぎずちょうど良い温度に保たれている。さすがだなぁと思いながら小さく息を吐いた。

「いらっしゃいませ、ミナさん。子供達の宿題のお手伝いですか」
「こんにちは、安室さん。ええ、そうなんです。私なんかにそんな大役が務まるかはわかりませんけど」

安室さんがお冷とメニューを運んできてくれる。メニューを受け取りながら顔を上げれば、安室さんは小さく微笑んだ。
安室さんとポアロで会う時は、きちんと挨拶をするようにしている。たとえ数時間前に家で言葉を交わしていたとしても、だ。家と外は違うし、安室さんがいらっしゃいませと言ってくれるのだからそれに挨拶を返すのは当然である。…ちょっと不思議な感覚であるのは変わらないけど。

「ご注文はどうします?」
「長くなりそうだし…とりあえず、アイスカフェラテをお願いします」
「かしこまりました」

安室さんお手製の朝食も食べたし、今はまだお腹も空いていない。元太くんの前に広がる宿題のプリントやらテキストやらを見る限り長くなりそうだから、食事はまた後で休憩の時にでも良いだろう。
メニューを安室さんに返してお冷を口に運んでから、さてと、とコナンくんに視線を向けた。

「…それで、今はどういう状況?」
「元太は算数と理科がほぼ何もしてない状態で、唯一絵日記だけは全部埋まってた。んで、歩美ちゃんは逆に絵日記が埋まってないんだ」
「なるほど」

見る限り、コナンくんと光彦くんが元太くんの宿題を手伝ってくれているようだったから、私は歩美ちゃんの方を見ようと考える。…とは言っても、絵日記だけならそんな苦戦することもなさそうだけど。
歩美ちゃんの手元の絵日記に視線を移して、懐かしさに目を細めた。
絵日記、私も描いたなぁ。毎日遊ぶことに夢中で、絵日記のネタはたくさんあったのに描くことを忘れて日々過ごしてしまっていたから…結局夏休み最終日に、夏休みのことを必死に思い出しながら無理矢理描き上げたんだっけ。おばあちゃんに泣きついたのを思い出して思わず苦笑が浮かんだ。

「歩美ちゃんは、何を困ってるの?」

色鉛筆を握ったまま難しい顔で白紙の絵日記と向き合う歩美ちゃんに声をかける。
歩美ちゃんは小さく唸ると、私を見上げて困ったように眉を下げた。

「あのね、描きたいことが多すぎるの」
「描きたいことが多すぎる?」
「うん。お母さんやお父さんと旅行に行ったことも描きたいし、少年探偵団のみんなでいろんなところに行ったことも描きたい。海やキャンプに行ったの!そこで、たくさん楽しいことがあったからそれを全部描きたいんだけど…そうすると、足りなくなっちゃうの」

なるほど、初めてのパターンかもしれない。私自身も私の周りも、絵日記に関しては描けなくて困っているばかりだった。描きたいことが多すぎてまとまらないというのはいい事なんじゃないかと思う。
ないものを絞り出すのは難しいけど、あるものを削るのは難しいことではない。小学一年生に要約は難しいかもしれないが。

「じゃあまず、ひとつずつ整理していこうか」

私がメモ帳とシャーペンを取り出したところで、安室さんがアイスカフェラテを運んできてくれた。
テーブルにカフェラテを置いた安室さんは、そのままカウンターの奥に戻らずに佇んだまま私の手元を見つめている。
…なんか見られてると緊張するな。

「まずは家族で旅行に行った日のことかな。どんなことがあったの?」
「新幹線に乗ったの!それでね、お父さんが買ってくれた駅弁を食べたのよ。すごく美味しかったの!新幹線の中で売ってるカチカチのアイスも食べたんだ」
「うんうん、それから?」
「窓から見えるお空や景色がすごく綺麗だったの。山や田んぼや森!見ていて全然飽きなくて、歩美ずーっと見てたんだ。それから駅に着いて、お土産屋さんでお買い物したんだよ!可愛いキーホルダーと、お菓子!」

なるほどこれは描き切れないと言うのも頷ける。
何しろここまで話を聞いたのにまだ観光すらしていないようだし。思わず安室さんを振り返れば、安室さんは少し楽しそうに笑っていた。…これは見守りに徹するつもりだな。
ちらりと元太くんの方を見れば、光彦くんとコナンくんに挟まれてあっちはあっちで何とか進めているようだ。とりあえずは心配ないだろう。
よし、要約の方法を教えよう、と意気込んで、私はひとつひとつ出来る限り丁寧に歩美ちゃんに説明していった。


***


「ミナお姉さん、ありがとう!」
「ミナ姉ちゃん、俺の方は全然見てくれなかったじゃねぇかー…」
「元太くんは僕とコナンくんで見てあげたじゃないですか」

結局彼らの宿題の目処が立ったのは日が傾き始めた頃だった。朝からずっとだったし、終わりも見えてきたことだしそろそろ解散しようということになったのである。
元太くん、光彦くん、歩美ちゃんが手を振りながら帰っていくのを、安室さんとコナンくんと一緒に見送った。無意識のうちに結構疲れていたみたいで、私は凝った肩を軽く回した。…慣れないことはするもんじゃないな。

「ミナさんお疲れ様」
「コナンくんもね。元太くん、なんとかなりそう?」
「出来る限りのことはしたし、大丈夫じゃないかな。まだ二学期始まるまで少し時間あるし、あとは自力でやるよ。きっと」

そういうコナンくんと顔を見合わせて、一緒にくすくすと笑った。
いいなぁ。夏休みの宿題は嫌だったけど、もう一度小学生をやりたいとは思う。楽しい毎日だった気がする。

「それじゃ、ボクも帰るね。ばいばい!」
「またね、コナンくん」

コナンくんが手を振りながら階段を上がってくのを見送ってから、安室さんに向き直る。慣れた場所だったとは言っても、さほど広くない店内を五人で陣取ってしまって迷惑ではなかっただろうかと少しだけ不安だ。

「ありがとうございました。こんなに長くなるとは思ってなくて…席占領しちゃって」
「構いませんよ。夏休みの宿題なんて、僕も懐かしく思ってましたし」
「…安室さんも小学生だったんですもんね」
「それはもちろん。喧嘩をしてばかりの生意気な子供でしたけどね」

今の落ち着いた安室さんからは、喧嘩をしてばかりの生意気な子供なんてイメージは全くないなぁ。でもきっと、小さな頃から可愛かったんだろうなぁと思って笑みが浮かんだ。
今こんなイケメンなんだもの。相当顔の整った男の子だったに違いない。

「ミナさんは教えるのが上手いですね」
「え、…そうでしょうか」
「ええ。あれくらいの年頃の子供に物事を教えるというのは案外難しいんですよ。ひとつひとつ納得させながら話を進めなければなりませんし、子供は疑問が尽きませんから」

そういえば、あの子達は理解が早くて助かったなぁと思う。歩美ちゃんも少し教えればすぐに要領を得たようだったし、元々頭の回転は早いんだろうな。
ふぅ、と息を吐いてから顔を上げる。

「安室さん、今日のシフトは夕方までですか?」
「ええ、あと少しで上がる予定ですが…」
「じゃあ、待ってるので一緒に帰りませんか。…せっかくですし」

思い切って言ってみた。恥ずかしさもあるけど、何となく安室さんとのんびり歩いて帰りたい気分だったのだ。
私には時間がある。安室さんはもうすぐ勤務が終わる。ならば、せっかくだから。

「…いいですね。一緒に帰りましょうか。せっかくですし」
「はい、せっかくですし」

言いながら顔を見合わせて、一緒にくすくすと肩を揺らして笑った。

Back Next

戻る