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恐怖だとかトラウマだとか、そういうものは時間の経過と共に薄れていく、と私は思っている。もちろん全てがそうと言う訳では無い。根底に残る傷はあれど、それを誤魔化せる程度には回復するのではないか、と言うことである。
例えば、まだ学生の頃にクラスの男子がやっていたRPGゲームの中に、酷く不気味なメロディーがあった。えぇと確か、キャラクターが呪いにかかってしまった時に流れるとかいうメロディーだっただろうか。私はそれを一度聴いただけだったが、そのメロディーが酷く恐ろしく、気持ち悪く、私の中にこびり付いてしまったのだ。当時はそのメロディーの気持ち悪さと怖さに怯える日もあった。思い出すだけで怯えてしまうのだから相当なトラウマである。
さすがに今そこまで怯えるなんてことはないけれど、それでも聴きたくないメロディーであることに変わりはない。根底の傷はそのままに、それを覆い隠す術が出来たと言うだけの話だ。
暗闇への恐怖、火事への恐怖、閉じ込められることへの恐怖。それらは私の中に確実にトラウマとして刻まれていた。だからこそ夜は一人で寝ることも出来ず、うさぎのれーくんの力を借りてようやく眠ることだけは出来る状態で、今までのようにゆっくり休むには安室さんの力が必要だった。添い寝だなんて子供みたいと言うことなかれ。自分でもそう思うが、それで笑える話でもない。
そう、安室さんの力が必要だった。過去形だ。今の私は恐怖を覆い隠す術がある。…術があるというよりは、恐怖を覆い隠せる程度には傷も浅くなった。要するに私は、今現在、安室さんとともに眠らなくてもある程度の睡眠は自力で確保できるのである。だと言うのに、私は夜のその穏やかな時間を手放せずにいる。
ここまで長々と話をし少し脱線したが。
つまりは、私はこのままでは本当に安室さん無しでは過ごせなくなってしまうのではないかと、いや、むしろそうなりつつあるのだと、そう思っているのである。



私がこの世界に来てから結構な時間が過ぎた。
嶺書房さんでの仕事にも慣れ、暇な時間が出来たらポアロに行きのんびりと過ごす。時折少年探偵団の皆と遊んだり、蘭ちゃんや園子ちゃん、世良ちゃんとお茶をしたりする、そんな生活にも慣れた。この街の犯罪率の高さには慣れることは無いが、現状血を見るようなことはないのでさほど問題は無い。
この世界に来た当初は安室さんにおんぶにだっこだった私も、嶺書房さんでの仕事が安定した為携帯料金は自分で払うようになったし、安室さんに家賃の半分程度は渡せるようになった。安室さんが家賃を受け取ってくれたことは無いのだが。
嫌でもそんな時間の経過を感じながら、私は溜息を吐いて紅茶の入ったティーカップを口へと運んだ。

「…そろそろ一人暮らしを、と考えてはいるんですが」
「ホォー」
「阻止されるんです」
「…誰に、とはわかり切ってることかもしれませんが一応聞いても?」
「もちろん安室さんにです」

はぁー、と再度深い溜息を吐く私を、沖矢さんは興味深そうにまじまじと見つめている。
今日は安室さんは夜遅くまで探偵のお仕事。私は仕事がお休みだ。そんなタイミングで、沖矢さんから連絡が入った。
曰く、「あなたの傷も癒えたでしょうし、良ければ飲みに来ませんか」とのこと。
断る理由もなく、夜も安室さんがいないとなれば私も時間がたっぷりと空くことになる。ならば折角だしとお邪魔することにした。もちろん安室さんには内緒である。

「阻止とは、具体的にどのように?」

だというのに私は何故か沖矢さんに安室さんとの相談をしてしまっている。申し訳ない。けれども聞いてくれそうなのは私の周りには沖矢さんだけなのだ。
まさか蘭ちゃんや園子ちゃんに話せるはずもないし、そもそも私が安室さんのことを好きだと知っているのはコナンくんと沖矢さんだけで、こんな話を小学生に相談できるはずもなく。
嫌そうな素振りも見せずに、沖矢さんはゆったりと足を組んでティーカップを持ち上げる。長い脚だなぁと思いながら私は小さく肩を落とした。

「具体的に…。具体的にと言われるとちょっと難しいんですけど…」
「そもそも、何故一人暮らしを?今は安室さんと住んでいるんですよね」
「……お恥ずかしながら」

安室さんとルームシェアしているというのは前回ここに訪れた時にコナンくんと沖矢さんにはバレている。これから一人暮らしをするということは当然私の今の住処は安室さんのところというわけである。

「なんか…安室さんに甘やかされすぎて、私本当にこのままでいいのか悩んでしまうというか…」

この悩みも結局堂々巡りだ。
安室さんに気にしないで欲しいと言われ、そのぬるま湯に浸かって、そしてふと気付いた時に不安になる。私はこのままで良いんだろうかと。
いや、しつこいよね。わかる。考えがずっとぐるぐるして結局同じところに戻ってきているのもよく理解している。私ってばすごくしつこい。わかってはいるのだが…人間とは繰り返し悩むものなのである。悩むから人間なのである。なんて言ってみたりして。

「彼は、ミナさんがルームシェアしていることを疎むような様子なんですか?」
「まさか。だからこそ申し訳なくなるんです。なんの不自由もないですし…」

私が思う負担は彼の負担ではないと言ってくれたこともあるが、はいそうですかと納得出来るほど私も図太く生きてはいない。
沖矢さんは私の言葉を聞いて軽く肩を竦めると、そのまま紅茶をこくりと一口飲み込んだ。

「いいんじゃないですか?そのままで」
「と、言いますと」
「そのまま彼に甘えて、ルームシェアを続けるのも良いのでは、という意味ですよ」
「…そう思いますか」
「僕が安室さんの立場なら、少なくともそう思いますね」

そういうものなのだろうか。
私がむぅと小さく唸ると、沖矢さんはティーカップをテーブルに置いて首を傾げた。

「逆に、あなたは安室さんの部屋を出ていきたいと思うのですか?一緒に生活するのが嫌だとか、彼のことが嫌いだとか」
「とんでもない!有り得ません!」

思わず大きな声を出してしまったが、沖矢さんは気にした様子も見せずにふむ、と頷いた。
そう、天地が引っくり返ってもそれだけは絶対に有り得ないことだ。…逆に、だからこそ悩んでしまうのだけど。
私はうんうんと唸って考えているというのに、彼はやれやれと首を振りながら立ち上がる。

「当初の目的を忘れそうなので、先に準備します。酒とつまみを持ってきますよ」

沖矢さんはそう言うと、自分が飲んだティーカップを手にキッチンの方へ足を向ける。その背中を見送りながら、私は小さく溜息を吐いた。

しつこいついでに何度でも言おう。
私は安室さんが好きだ。暗闇か怖いからという理由があるのは間違いないが、それでも安室さんと共に眠る夜を嬉しく思っている。下心が罪悪感を募らせるのは仕方がないと思うしかない。
そして、安室さんが…恐らく、恐らく。少なからず私のことを想ってくれているのかもしれないと思うだけで、胸が甘く疼く。
はぁ、と深い溜息を吐いた。

「僕が思うに、」

いつしか俯いていた顔を上げると、沖矢さんが手に持ったウイスキーのボトルとグラスをテーブルに置いた。
それからもう片方の手に持っていたトレーから、つまみの乗った皿や氷の入ったアイスペールをテーブルに広げる。ローストビーフやオリーブ、スモークチーズ、ナッツなどつまみは様々だ。

「ミナさんのそれは、もはや恋とはまた少し違うもののような気がしますが」
「うっ」

恋とはっきり口にされると羞恥に埋まりたくなる。…この人は私が安室さんのことを好きなことも知っているとわかってはいるが、恥ずかしいものは恥ずかしい。

「…恋とはまた少し違う、とは…」
「よく言うでしょう?恋は下心、愛は真心」

沖矢さんは言いながらグラスに氷を入れて、ウィスキーのボトルの蓋を開けて中に注ぎ入れる。バーボンだ。綺麗な琥珀色の液体がグラスに揺れる。

「…と、言いますと」
「あなたは安室さんに恋をしている。それは間違いないのでしょう。けれどあなたが彼に抱いている気持ちは恋ではなく、愛なのだと思いますよ」

沖矢さんの口からそんな色恋沙汰の話を聞かされるとは思っていなかったため少々戸惑いを隠せない。…いや、そんなことを話させてしまっているのは私なんだろうけども。

「愛とは何でしょうか。恋とどう違うと思いますか?」

問われて、私は首を横に振る。
恋と愛がそれぞれ違うものだということはわかる。けれども具体的にどこがどう違うのか、と聞かれると上手く答えることは出来ない。なんとなくこうかな、というのはあるけれど。
私が視線を落とすと、沖矢さんは小さく息を吐いてソファーに腰を下ろし私にグラスを勧めた。促されてグラスを手に取り、そっと口に運ぶ。
一口舌に乗せて、深い味わいに目を細める。

「愛とは相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け入れることだ」

目を瞬かせながら顔を上げると、沖矢さんもグラスを口に運ぶところだった。

「イタリアの劇作家、ディエゴ・ファブリの言葉です」

全然知らない人だった。けれども、その言葉は不思議と私の中に馴染んでいくような気がする。
相手をありのままに受け入れる。受け入れるなんて私には烏滸がましいけれど、でも…私は安室さんなら、なんでも受け入れるような気がする。

「僕から見て、あなたは安室さんに寄り添おうとしているように見えます。それは受け入れているということでしょう」
「…そう、なんでしょうか」
「例えば。…例えばの話ですよ」

沖矢さんがぴっと指を立てる。

「安室透という人物が、虚像だとしたらあなたはどうしますか?」
「虚像?」

突拍子もない言葉に目を瞬かせた。
虚像、とはどういうことだろうか。意味がわからずに首を傾げると、沖矢さんは言葉を続ける。

「安室透という人物を演じているだけで、彼の本当の姿は別にあるとしたら」
「えっと…それって仮面ヤイバー的な?」
「……まぁ、そういう感じです」

うーん、と考え込む。
つまり“安室透”は変身後の姿で、変身前の安室さんがいる、ということだよね? “安室透”という変身後の姿を演じている、本当の安室さんがいると…えぇと、多分そんな感じなんだろう。

「例えばそれは、悪かもしれない。正義かもしれない。或いは両方かもしれない。ミナさんは、どう思いますか?」

沖矢さんの言葉を聞きながら、ゆっくりと目を瞬かせる。
安室さんが、本当は悪かもしれない。正義かもしれない。もしくは、その両方かも。矛盾すぎる内容は少し難しくて眉を寄せるが、私の中にあるのは至って単純な答えだった。

「悪も正義も…理由があるんだと思います」
「どういうことです?」
「悪にならなければいけない理由、正義を全うする理由、それから、“安室透”に変身する理由。全てに置いて理由がある。安室さんはきっとそういう人です」

理由がないことはしない。私が安室さんと出会ってから今まで大した期間ではないが、その期間で見てきた安室さんはそういう人だ、
深くは知らない。私が見ている安室さんの姿が正しいかどうかはわからない。けれど、私は正しいと思っている。私が、そう信じている。

「つまり?」

沖矢さんは眼鏡を指先で軽く上げながら問いかける。

「安室さんが悪だろうと正義だろうと何者だろうと…関係ありません。私は…彼という人間が、好きです」

それが、私の中の単純な答え。それが全てなのだ。
彼という人間が好き。彼が“安室透”であろうとなかろうと、私のその気持ちはきっと変わらない。

「…なるほど」

沖矢さんは私の言葉を聞くとゆっくりと息を吐き、バーボンの入ったグラスを煽った。


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