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「…何してるの、赤井さん」

呆れた声でそう言うボウヤは、その声に違わず呆れた表情で俺のことを見上げていた。姿は沖矢昴のままだが、ここにはボウヤと俺しかいない。いや、もう一人いるにはいるが、そちらは事情により除外する。
まぁ、夜も更けたそこそこに遅くなってしまったこんな時間に呼び出してしまったことは悪かったと思っている。だが、俺がまさか安室くんに連絡するわけにもいくまい。たまたまボウヤが阿笠博士の家に用があって来ていたのが幸いだった。

「すまないが、安室くんに連絡を取ってくれないか。彼女を迎えに来るようにと」
「なんて説明するんだよこんな状況…」

そんなボウヤの視線の先には、ソファーで横になりくうくうと寝息を立てる…佐山ミナの姿があった。
飲ませていろいろ情報を聞き出そう、…などとは考えていなかったのだが、気付けば彼女を酔い潰してしまっていた。ペース配分を間違えたらしい。

「安室さんは沖矢昴がここに住んでることを知ってるんだよ?ボクから連絡したところで沖矢昴に疑念の目が向くのはわかり切ってることだよ」
「しかし俺から連絡するよりもマシだろう」
「でも誘ったのは赤井さんでしょ」
「誘いに乗ったのは彼女だ」

ボウヤは深い溜息とともに手で顔を覆った。それからかくりと肩を落とし、呻くような声で言う。

「…ミナさんの傷も癒えたし、ここで飲まないかって昴さんが誘った。そしてミナさんはその誘いに応じてやってきた。そして飲んでるうちに…」
「彼女が潰れた。すまない、酒の嗜好がわりとコアだったんでな。いける口かと思ったんだが…俺が想定していたよりもずっと酒には弱かったようだ」

酒を飲み始めて、彼女は口が軽くなった。笑みが増えて笑い上戸かと思いきや、ある一定を超えた瞬間うとうとと船を漕ぎ出し…そのままぱたりと寝入ってしまったのだ。
さすがにテーブルに突っ伏したままではと思いソファーに横にしたのだが…安室くんに知られたら大変なことだな、とどこか他人事のように思った。

「…お酒を飲んでる時点でボクが呼び出したなんて説明は出来ないし、赤井さんもちゃんと安室さんに説明してくれるんだよね?」
「それはもちろん。…彼女のことだ、恐らく安室くんにも何も話さずに来たのだろうし、少しでも彼女が説教されるのを回避するよう尽力せねばな」
「…赤井さんが言ったところで火に油な気がするけどなぁ……」

ボウヤは再度溜息を吐くと佐山ミナに歩み寄り、その寝顔をスマートフォンで撮影する。それを安室くんに送るつもりなのだろう。

「何故写真を?」
「ミナさんが酔い潰れたからここまで迎えに来て、なんて言ってどういう状況かあれこれ考えさせるよりも、写真ですぐにわかる方がいいでしょ。…多分」
「それこそ火に油なのでは?」

ボウヤが安室くんにメールを打つのを見守りながら小さく息を吐いた。
だが、ふとボウヤの手がぴたりと止まる。それから、ゆっくりと俺を見上げ言った。

「ミナさんと…どんな話をしたの?」

問われ、彼女とした会話を思い出す。
基本は、安室くんとの話。恋愛相談のようなものから始まり、安室くんを心から大切に思っていることを事も無げに言ってのけたんだったなと思いながら、けれどもその後の酔い始めてからの話を思い返して目を細める。
そんな俺の様子に気付いたのだろう。ボウヤは、完全に手を止めてスマートフォンを下ろすと俺に向き直る。

「…基本的には安室くんとの話だったよ。彼女は恋愛下手のようでね、いろいろと悩んでいるようだった」
「…………えっ、恋愛相談?赤井さんが?」

ボウヤが驚き、何やら言いたげな表情を浮かべているが言わずともわかる。似合わないと言うのだろうな。話が脱線する為そちらには触れずに続けた。

「聞いてみたのだよ、彼女に。安室透という人物が虚像だったら、どうするのかと。安室透という人物を演じているだけで、彼の本当の姿は別にあるとしたら…それは悪かもしれないし、正義かもしれないし、或いはその両方かもしれないと」

こちらの質問に、彼女は疑問など抱いていないようだった。そして真剣にその問いについて考え…はっきり言い放ったのだ。

「…それで?ミナさんはなんて?」
「悪も正義も、理由があると思うのだと…安室くんが悪だろうと正義だろうと何者だろうと関係なく、ただ彼という人間が好きなのだと、そう言っていたよ」

大した度胸である。
誰かをなんの疑いもなく信じるというのはなかなかに難しいことだ。彼女の想いは無償の愛に近いと感じた。それは決して盲目だというわけではなく、彼女が本当に心から安室くんのことを想っているのだと…そう感じたからこそ、驚いたのである。

「それから、少し気になることを口にしていたな」
「気になること?」
「この世界の人間ではないと」
「えっ?」

東都水族館での惨事の後にここに来て話をした時だったか。米花町に来る前はどこにいたのかというボウヤの質問に、彼女は「ここじゃないところ」と答えたのだ。
痛覚を無くしたこともあった為ボウヤが更に追求すると、まるで絵本を読むような口調で“とある女の子の話”とやらを話していた。

「…この世界の人間じゃないって…どういう、」
「わからん。そこを聞こうとしたところで、酔い潰れてしまったからな」

異世界から来た女の子が帰る方法を探そうとするも、方法は見つからず体の感覚を失っていき…最終的にその世界で生きたいと願ったのが通じ、感覚を取り戻したと。ざっとそんな話だったと思う。

「世界を越えてしまった代償」
「うん?」
「ミナさんがその話をした時、そんな一節があったよ。空腹感がなくなり、味覚がなくなり、温度がわからなくなり…痛覚がなくなったのは、世界を越えてしまった代償だと誰かが言ったって」
「…なるほど」

彼女の言葉を信じるのなら…恐らくは、その女の子とは佐山ミナ自身。そして、“世界を越えてしまった代償だと言った誰か”とは、恐らく安室くんのことだろう。

「安室さんは…全部知ってるってことかな」
「だろうな。であるなら、行くあてのない彼女を保護して一緒に住んでいたというのも頷ける。…今現在、保護という名目かどうかはわかりかねるが」

ボウヤは小さく溜息を吐くと、スマートフォンを再度操作してからポケットに戻した。安室くんに連絡をとったのだろう。それから俺を見上げ、苦笑を浮かべる。

「東都水族館での一件の後、ボクミナさんに言ったんだ。何も聞かないんだねって」

初耳だった。目を瞬かせるも、黙ったまま続きを促すとボウヤは視線を床へと落とす。

「そしたら…話せないでしょう、それくらいのことはわかるよって。何も聞かないでくれるんだ。疑問には思ってるはずなのに」

何も聞かず、触れないでいてくれる。それはきっと、安室くんに対してもそうなのだろう。彼が抱える秘密や闇は多い。何も知らず聞かないでいてくれるというのは、それだけで彼にとっては心地良いことなのかもしれない。

「だから、ボクももう何も聞かないでおこうと思う」

彼女と知り合った当初はボウヤも俺も彼女のことを少なからず疑ってはいたが、今や完全に白だと確信している。観覧車の中で見た彼女はただの一般人だった。酒の名前に反応を一切示さなかったことも彼女が一般人である証拠だ。
佐山ミナは、黒の組織とは関係がない。

「ボクの秘密も話せる日が来たら…その時、改めてミナさんと話をしたいと思うよ」
「…そうだな。それがいい」

俺も、自分の秘密を話せる日が来たら。
改めて彼女に赤井秀一と名乗り、話をすることが出来るだろうか。

「あ、」
「どうした?」

ボウヤがふとポケットからスマートフォンを取り出し、操作する。そして俺を見上げると、苦笑を浮かべて肩を竦めた。

「安室さん、すぐに来るって」

こちらに向けられたスマートフォンのディスプレイを見れば、そこには「近くにいるのですぐに向かいます」という簡潔な一言があった。


────────


ゆらり。
ゆらり。
揺れているなぁ、ということと、何だか温かいなぁ、ということはわかっていた。けれど、ぼんやりとした心地の良い微睡みの中にいる私は、その心地良さに目を開けることなど出来なかった。
大好きな安室さんの匂いがする。ほんの少し甘い、でも爽やかな石鹸のような匂い。この世界で、私が一番安心を感じる匂いだと思う。

「…全く…。呑気なものですね、あなたは」

ああ、大好きな安室さんの声だ。なんだろう、少し怒ってるような声。嫌だな、安室さんを怒らせたくはないな。だって安室さんに嫌われたくないもの。

「僕に黙って沖矢昴の誘いに乗るなんて。しかも酔い潰れたなんて、コナンくんから連絡を貰って肝が冷えました」

ゆっくりと意識が浮かび上がっていく。
足がぶらぶらと揺れている。それから歩く音。目を閉じていてもわかる。…私、安室さんにおんぶされてる。
何があったんだっけ、と考えて、沖矢さんにメールを貰いお酒を飲みに行ったことを思い出す。いろいろと相談した後にお酒を飲み始めて、気分が良くなってしまったのは覚えているけど…話した内容は大分朧気だ。寝落ちてしまったんだろう。
沖矢さんにも申し訳ないことをしたし、安室さんにも迷惑をかけてしまったなと思いながらも目を開けられない。…起きたことを伝えて、自分の足で歩いて帰らなきゃと思うのに…心地良さに、寝たフリを続けてしまう。

「…酔い潰れるまで飲むなんて。いや、あなたを潰した沖矢さんにも非はありますが…、…警戒心が足りないんです。何かあったらどうするんですか」

なんだか叱るような声。おばあちゃんやおじいちゃんも、私を叱る時はこんな声で話をしていたな。なんだかほんの少しだけ懐かしくなって、それから少しだけ恋しくなって、鼻先をそっと安室さんの首筋に埋めた。
ぽかぽかと胸が温かくなる。

「……僕がどんな気持ちになったかなんて、あなたは知らないでしょうけどね」
「………ごめんなさい」

思わず声が出てしまった。
立ち止まった安室さんが深い溜息を吐くのが聞こえる。…多分これは狸寝入りにも気付かれていたんだろうな。

「ミナさん」
「………はい」
「……いえ、良いんです。僕もあなたの交友関係に口出しなんてしたくありませんから。ですが、ちゃんと自分の限界を知ってください」
「……ごめんなさい」
「心配しました」

やれやれ、と言ったような声にゆっくりと目を開ける。安室さんのミルクティー色の髪。さらさらのそれに、そっと頬を寄せた。

「…ご迷惑を…。…すみません、もう歩けます」
「まだ酔いも冷めてないでしょう?大した距離でもないですし、どうぞそのままで」
「……恐縮です」

沖矢さんは信頼できる人だからと思ってついつい調子に乗り過ぎてしまったが、安室さんの言う通り警戒心を少し持つべきかもしれないな。例えば相手が沖矢さんじゃなかったらと考えると、自分の警戒心のなさに情けなく思ってしまう。安室さんを心配させたくはない。
気を付けよう、と思いながらも、沖矢さんと飲んだウイスキーの美味しさを思い出す。思わずふふ、と笑ったら、安室さんがどうしました、なんて軽く首をこちらに向けた。

「…ウイスキーを飲んだんです。すごく美味しくて」
「ああ、テーブルの上にウイスキーの瓶が並んでいましたね。何を飲んだんです?」
「いろいろ飲ませて頂いたんですけど…エンジェルズ・エンヴィっていうバーボンが好きでした」

スパイシーなのにほんのりと甘くて飲みやすくて、すいすいと飲んでしまって…気付いたら寝落ちてしまうほどに酔ってしまっていたんだけど。

「バーボンがお好きなんですか?」
「あ、いえ、どちらかと言えばライウイスキーの方が好きだったんですが、」
「えっ?」
「えっ?」

唐突に遮られて目を瞬かせる。…な、何か変なことを言っただろうか。しばしの沈黙の後に、安室さんは軽く頭を振った。

「…失礼。それで?」
「えっと…沖矢さんがいろいろと美味しいバーボンを勧めてくださって…すっかりバーボンの虜になりました」

へらりと笑って言うと、安室さんは目を瞬かせてからほんの少しだけ小さく笑った。

「そうですか。……それは何より。…けれどバーボンはそのマイルドな甘さと飲みやすさ故に危険な酒です。気を付けて」

もう手遅れかもしれませんけど、なんて少し楽しそうに言う安室さんに首を傾げる。
その言葉の意味はわからなかったけれど、ほんの少しだけ安室さんが嬉しそうだったからまぁいいか、なんて思った。

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