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「て、典悟っ!しっかりして典悟!!」
「あかん!」
「触っちゃダメだ!」

頭が追いついてこない中、唯さんが倒れた典悟さんへと駆け寄っていくのを、服部くんとコナンくんが制している。
まずは、どうすれば。えぇと、目の前で、人が刺されて、たくさんの血を流して倒れていて。
救急車を呼ばないと、と思いながら震える手で鞄を漁る。

「これは殺人事件や。無闇に触って現場荒らしたらあかんで!」
「さつじん、」

殺人事件が、私の目の前で。
いつかこういう日が来るのではないかと考えなかった訳では無い。米花町は危険な街だ。犯罪率も高く、殺人事件だって日常茶飯事。理解はしていたけれど、こんな突然自分の目の前で人が死ぬなんて考えながら日々を生きてはいない。
ぐらりと視界が揺れるような感覚に、思わず片手をカウンターテーブルへとついた。真っ赤な血が床に広がっている。

「うっ…ぐ、ぅっ!」

呻き声に息を呑む。今の、典悟さんの。
まだ死んでない、生きてる。

「どうやらまだ、殺人未遂事件のようですね」
「きゅ、救急車を呼びます、」
「お願いします。梓さんは警察に連絡を」
「は、はいっ!」

ぼんやりとしているわけにはいかない。典悟さんはまだ生きているけど、処置か遅れればどうなるかなんてわからないのだ。一分一秒でも早く来てもらわないと。
鞄からスマホを取り出して、上手く力の入らない手でダイヤルボタンをタップしてコールする。片手ではスマホさえ上手く支えられる気がしなくて、両手でスマホを持ちながら耳へと押し当てた。
数回のコール音の後、すぐにぷつりと繋がる。

『こちら東都消防庁。火事ですか、救急ですか?』
「きゅ、救急です」
『そこは、何市、何町、何丁目、何番、何号ですか』
「え、えっと、…あ、…あの、」

しまった、ポアロの住所なんて知らない。慌てていて頭も真っ白になって、上手く言葉を話すことも出来ない。落ち着け、まずはこの場所を知らせないと。そうは思うのに米花町とさえ言うことも出来ずにじわりと涙が浮かぶ。
完全にパニック状態だ。こんなことなら私が救急車を呼ばない方が良かったんじゃないか。
その時、優しく背中を叩かれて顔を上げる。安室さんが私のすぐ側に立って、安心させるように柔らかく微笑んでいた。それから安室さんがカウンターテーブルに置いたメモに視線を落とし、きゅっと唇を引き結ぶ。
大丈夫、落ち着け。しっかりしないと。

「東京都米花市米花町、五丁目〇−〇、喫茶ポアロです」

安室さんが置いてくれたメモには、ポアロの住所と電話番号が書かれていた。安室さんが背中を優しく叩いてくれるのにゆっくりと落ち着きを取り戻していくのを感じながら、私はメモに書かれていた住所をゆっくりと読み上げる。

『米花町五丁目の喫茶ポアロ、どうしましたか』
「人が…男の人が刺されて、血がたくさん出ていて、意識も朦朧としています」
『わかりました、現場に急行します』

通話が切れて、私はゆっくりと震える息を吐き出しながらスマホをカウンターテーブルへと置いた。
そうしていると、安室さんが私の目の前に立ち私の顎にそっと触れた。何かと視線を上げれば、そのままそっと顔を上げさせてくる。安室さんの手にはおしぼりが握られている。

「じっとしていてくださいね」
「え、」

安室さんはそう言って柔らかく微笑むと、おしぼりで私の頬を優しく拭っていく。おしぼりの温かさに強ばっていた体から力が抜けるのを感じて、私はほうと息を吐いた。

「…何か、汚れてましたか」
「ええ。…大丈夫ですよ、気にしなくて。綺麗になりましたから」

安室さんはそう言うと、私の頬を拭いた面を手早く裏返しにしておしぼりを畳んでしまった。一瞬しか見えなかったけど、見えたその色は赤。
…そう言えば、停電して暗くなって…典悟さんの悲鳴の直後に、頬に生温い液状のものが跳ねたのを思い出す。恐らく、典悟さんの血だったんだろう。
私が気にしないようにとの心遣いに胸が温かくなる。それと同時に、自分のことを情けなくも思った。

「にしても、こんな長い刺身包丁で刺されたんやから、即死かと思たわ」

そうなのだ。ナイフかと思っていたがよく見ればその刃物の刃渡りはかなり長い。ナイフではなく刺身包丁なのである。
そんなもので刺すというのは…それはやはり、確実に殺すという殺意の表れなのだろうか。

「けど、警察呼ぶまでもないで。この兄ちゃんが刺された時、俺の頬に血ぃが飛んできたし…」
「ボクの眼鏡にも飛んできたよ。…ミナさんの頬にも、ね」

私の頬に飛んできた血は、今安室さんが拭き取ってくれたけれど。

「せやから、刺した犯人の手ェや袖口にも、この兄ちゃんの返り血が付いてるはずやからなァ」

服部くんの言う通り、私もそう思った。
これだけ返り血が飛んだのなら、刺した犯人自身に血が飛ばないはずがないのだ。今の間に誰かがポアロから出て行った様子はないし、恐らく犯人はまだこのポアロの中にいるのだろう。けれども返り血を見ればきっとすぐに見つかるはずである。
…と、考えていたのだけど。

「おいおい、嘘やろ?!」

唯さん、大積さん、永塚さん、それから不思議な男性のお客さん…誰の手にも袖口にも、血が付着していなかったのである。もちろんコナンくんや服部くん、安室さんや梓さん、私の手も同様である。
つまりすぐに解決すると思われていたのに、解決できなくなってしまったのである。

「ったくもう!なんでこう、毎度毎度!」

服部くんの嘆きが店内に響く。
…毎度というのがどういうことかはわからないけど、服部くんは先程の話を聞く限りこれからデートだったはず。けれどもこんな事件が怒ってしまった以上、行くことは出来ないのだろう。…可哀想すぎる。十三日の金曜日で仏滅というのは、あながち馬鹿にできないのかもしれない。


***


その後すぐに救急車が到着し、典悟さんは運び出されて行った。
服部くんは想いを寄せているらしい女の子と電話してるみたいだけど、殺人事件とは言えずに映画の撮影だなんて説明をしている。…きっとその女の子に気を遣わせないためなんだろうな。優しいなぁ。
ふぅ、と息を吐いて私はまだ少し残っていたカフェラテに視線を落とした。…あんなことの後では口にする気も起きない。というか多分、こんなことがあった以上現場を変に動かしては行けないんだろう…多分。
大分落ち着いては来たが手はまだ震えてるし、今は立ち上がれそうにない。

「すみません、こんなことになってしまって」

声をかけられて顔を上げれば、申し訳なさそうに眉尻を下げた安室さんが立っていた。とんでもない、と思いながら首を横に振る。

「安室さんは何も悪くないじゃないですか。大丈夫です、殺人未遂だし…典悟さん、大事に至らなければ良いんですけど…」

床にはまだ典悟さんの血が広がっている。
…いつか私が後ろから刺された日のことを思い出す。あの時も刃渡りが相当長い刃物で刺されたんだった。服部くんは「こんな長い刺身包丁で刺されたんだから即死かと思った」と言っていたし、私も少しでも位置がズレていたら即死の可能性もあったんだろうな。あのときは夢中だったから覚えていないけど、血もたくさん出たんだろう。
人は簡単に死ぬ。こんな刃物で刺されたくらいで…死んでしまうことだってある。

「自分が刺された日のことを、思い出してるんですか?」

安室さんに問われて、いつしか下を向いていた顔を上げる。安室さんにはなんでもお見通しだなと思いながら苦笑した。
安室さんの言葉に、服部くんが驚いて目を丸くしている。

「姉ちゃん、刺されたことあるんか?!」
「う、うん。もうすっかり元気だけどね」

傷痕は消えない。背中を見ることは出来ないけど、腹部まで貫通した刺傷を縫った跡はまだ残っている。大分薄くはなっているけど、皮膚の色が違うのでなかなかに痛々しい。

「なんでまたそんな」
「ボクたちを守ってくれたんだよ」

ね、とコナンくんに見上げられて目を瞬かせる。
私はキョトンとしていたけど、やがてすぐに笑顔で頷いた。
そう、この傷痕は子供達を守れた証だ。だから自分の体に傷が残ったことを嫌だとかは全く思わない。もちろん、だからといってもうあんな無茶はしないとも思っているけれど。…でも、やむにやまれずな状況だったら、また飛び出していってしまうかもしれないな、なんて思った。

「麻薬の密売人がミナさんを刺して、その後ボクを含めた子供達を襲おうとしたところを助けてくれたんだ」
「…って待てや、今の話やと刺された後に動いたってことにならへんか?」
「そうだよ。背中から腹部まで貫通してたのに構わずに動いて犯人の腕を止めるんだから。尊敬しちゃうよ、いろんな意味で」

にこ、と笑いながら説明を続けるコナンくんにぐうとお腹が痛くなる気がする。
心配かけたのは悪かったと思ってるけど、そんなチクチク刺さなくてもいいじゃないか…。…いや、それだけ心配をかけてしまったってことなのはよくわかるんだけども。

「ミナさんはすぐに無茶するから」
「う、…そ、そうかな」
「そうだよ、何かあってもあんまり自分から言ってくれないし」
「…耳が痛いです」

そんなに無茶しているつもりは無いのだけど。相談だってしていると思う。…以前に比べたら、だけど。
…いや、でもまだ無茶すると思われているんだろう、なぁ。
安室さんはやれやれと溜息を吐くと、それでも優しく笑って言った。

「お陰でいつだって目が離せませんよ」

その言い方と表情があまりに優しくて、こんな状況だというのにほんのりと顔が熱くなるのを感じた。
気づけば手の震えは止まっている。今なら立ち上がることも出来るだろう。…私が動揺していたのを見て、他愛のない話をして落ち着かせてくれたんだろうな。

「あのー」

服部くんの声に視線を向ける。何やら服部くんは気まずそうな表情を浮かべて頬を指で掻いている。

「あんたら、付き合うとるん?」

ぴしゃん、と雷が落ちたのかと思った。
まさかそんな、今日初対面の服部くんにそんなことを言われるなんて思っておらず、いつもと違って反応も遅れてしまう。

「ち、違いますっ…!!」
「そうなん?でもただの店員と客っちゅーわけやないんやろ?」
「店員と常連客です…!」

それ以外になんと言えと言うのか。
私だけあたふたとしていて、安室さんはそんな様子を見ながら小さく笑っている。

「…安室さん、楽しそうだね」
「ええ、それはもう」
「安室さぁん…!」

安室さんに助けを求めるも、安室さんはニコニコと笑うまま何も言ってはくれなかった。

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