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透さんからのメールの返信はない。そもそも、忙しかったらメールを読んでくれているかどうかもわからない。
阿笠博士の家のリビングで、ずっと座ったままニュースを見ていたが…何度か防犯カメラの映像が流れたものの、哀ちゃんが見たという映像は一向に流れなかった。哀ちゃんも傍で一緒にニュースを見てくれていたから間違いない。様々な防犯カメラの映像を見ながら確認したが、哀ちゃんはどれも違うと首を横に振ったのだ。
不安ばかりが募る中、私がスマホを握り締めて肩を落とすと、目の前のテーブルにカフェオレの入ったマグカップがことりと置かれた。顔を上げれば、小さく笑った阿笠博士がいた。

「これでも飲んで、少し気を緩めなさい。ポアロの味には到底敵わんがの」
「そんな、とんでもない。…すみません、ありがとうございます…いただきます」
「ミナさん、まだ顔色少し悪いわよ」
「そ、そうかな…」

マグカップを口に運んでカフェオレを飲む。ポアロとは違う味だけど、それでもとても優しい味がした。ミルクたっぷりで甘くて、飲み下すと強張っていた体から力が抜けるのを感じる。
一度目を閉じてゆっくりと息を吐き出し、顔を上げる。

「子供たちは?」
「まだ外で遊んどるよ。さっきコントローラーを三つに分けて渡してやったら、あっという間に操作を覚えてな」

三十キロ先の家まで荷物を届けたりしたようじゃ、なんて博士はあっさり言うけど、それってすごいことなんじゃないだろうか。
それに、いつの間に。私がニュースに見入っている間にコントローラーを三つに分けていたなんて知らなかった。短時間であっさり三つのコントローラーを完成させてしまうなんて…阿笠博士、やっぱりすごい。

「じゃあ、ドローンを操作して遊んでるんですね」
「今は新一に頼まれて国際会議場の…」
「博士」

新一?
私が目を瞬かせていたら、呆れたように哀ちゃんが博士の声を遮った。瞬間、阿笠博士は慌てたように言い直す。

「こ、コナン君に頼まれて、国際会議場の爆発跡を撮影してもらってるんじゃ」
「コナンくんに頼まれて…」

どうして、コナンくんがそんなことを頼んだんだろう。蘭ちゃんに呼び出されて何かのトラブルで帰って行ったみたいだったし…国際会議場の爆発について、何か調べないといけない状況にでもなっているんだろうか。
視線をテレビへと移す。未だ爆発のニュースが流れているが、詳しいことはわかっておらず報道されていない。
窓の外に視線を向けると、日が少しずつ傾き始めて空は赤く染まってきていた。時計を見て、小さく息を吐く。
マグカップのカフェオレを飲み干して、鞄を持って立ち上がる。哀ちゃんがこちらを見上げながら首を傾げていた。

「帰るの?」
「うん…そろそろポアロに向かおうと思って」

ここから歩いてポアロまで行くと考えたら、そろそろ出た方が良いだろう。ポアロに電話して安室さんが出勤しているか聞こうかとも思ったが、とてもじゃないがそんな勇気は無かった。直接行って、何食わぬ顔で透さんと話をして、カフェラテを飲んで帰ってこよう。
大丈夫、きっといつも通りだ。

「カフェオレ、ご馳走様でした。…大分落ち着きました」
「なら良いんじゃが…あまり思い詰めんようにな。安室さんによろしく」

心配そうに見送ってくれる阿笠博士と哀ちゃんに頭を下げて、私は足早に家を出る。外では子供たちがまだドローンを操縦しているようで、私の姿に気付いた歩美ちゃんが顔を上げた。

「あ、ミナお姉さん!帰っちゃうの?」
「うん、ごめんね。ちょっと用があるから今日は帰る」
「えぇ〜?今日、あまり僕達と遊んでくれてないじゃないですか!」
「そうだぜ!オレ達ドローン飛ばせるようになったのに!」

名残惜しんでもらえるのは嬉しい。でも、操縦中ならあまり目を離さないようにして欲しいなぁと思いながら苦笑した。
子供たちの前にしゃがみこみ、みんなの頭をそっと撫でる。

「ごめんね。今度、ドローン操縦してるところたくさん見せて欲しいな」
「わかった!たくさん練習して、ミナお姉さんをびっくりさせるね!」
「楽しみにしてる」

三十キロ先の家まで荷物を届けたくらいだからもう充分なんじゃないのかなぁ。私には到底操作できそうにないコントローラーで、簡単にドローンを操縦するこの子達が頼もしく見える。
子供たちに手を振って阿笠博士の家を後にすると、私はいつもよりも少し早足でポアロへと向かった。


***


日はすっかり沈みかけて、街が真っ赤に染まっていた。
いつか海で透さんと一緒に見た夕焼けと同じ色なのに、どうしてだか私の胸騒ぎはおさまらない。ざわざわと胸が疼いて落ち着かない。
前に進むのが怖いのに、足も気持ちも急いていた。いつしか駆け足になって、ポアロへの道を進んでいた。
道を曲がって大通りへ。この通りを進めば、すぐにポアロが見えてくる。
もう少し、と息を吐いたその時だった。

「―――、」

一歩踏み出しかけた足が止まる。
目は、目の前を通り過ぎた車に釘付けになっていた。
既に遠ざかっていく車を見つめながら、どくりと胸が嫌な音を立てる。
黒い車。何の変哲もない、普通の車だ。けれど窓ガラスから見えたのは。

「今のは、」

一瞬しか見えなかった。けれど、スーツの男性二人に挟まれて後部座席に座っていたのは…毛利さんではなかったか?
嫌な予感が加速する。コナンくんは蘭ちゃんに呼ばれて帰っていった。トラブルだって言ってた。トラブルってどんな?あんなふうに毛利さんが、連れていかれてしまうようなトラブルって?
コナンくんに、蘭ちゃんに確認しないと。透さんと話をしたら二人にも会って話を聞いて。ええと、それから。
胸元をぎゅうと押さえながら私は踵を返す。急がないと。早く確認して、安心したかった。

「サミット会場の下見をしてたんでしょ?!」

コナンくんの声だった。
足を止めて、もう目前に迫っていたポアロの方向を見つめる。
お店の前に、コナンくんと…透さん。二人とも私の方には背中を向けているから、私には気付いていない。
透さんが無事だということにまずは胸を撫で下ろした。けれどそれと同時に、ちらりと見えた透さんの横顔に貼られた大きなガーゼに目が止まる。
怪我をしている。どうして怪我なんか。

「きっとその時、テロの可能性を察知した。だけど、今のままじゃ爆発を事故で処理されてしまう。そこで、容疑者を仕立て上げた!違う?!」

駆け寄ろうとした足は、動かなかった。
店内に戻ろうとした透さんの背中をコナンくんが追うのを、私はただ佇んだまま、見つめていた。
コナンくんは、一体何を言っているんだろう?容疑者をでっち上げたって、何の話なんだろう。
どうして透さんもコナンくんを見ない?コナンくんはどうしてあんなに怒っている?
二人とも、私の知らない人みたい。あんな冷たい空気を纏った透さんも、あんなに憤って怒鳴るコナンくんも、私は…見たことがない。

「安室さんや彼みたいな警察官なら、パソコンに細工をしたり、現場に指紋を残すことも可能だよね!」
「警察はね、証拠のない話には付き合わないんだよ」
「何でこんなことするんだ!!」

警察官って、なんだ。パソコンに細工って、現場に指紋を残すって、なんだ。
私の知る透さんは、喫茶ポアロの店員で私立探偵。怒ると少し怖いけど、でもとてもとても優しくて素敵な…私の、好きな人。
透さんが秘密を抱えているのは知っている。本人もそう言っていた。隠し事がたくさんあるけど、ひとつとして話せることはないって。でも、私はそれでも構わなかった。私が聞かなくても良いことは問い詰めたりしない、聞くつもりもない、そう決めたから。
でも。
でも、もし透さんが…警察官だとしたら。

「僕には…命にかえても守らなくてはならないものがあるからさ」

もう何度も聞いたベルの音を響かせながら、透さんとコナンくんを遮るようにドアが閉まる。
私は、動けなかった。
私はコナンくんみたいに頭の回転が早くない。一度にいろんなことを言われても…すぐには理解なんて出来ない。
今のコナンくんと透さんの会話はなんだったんだ。私は何を聞いたんだ。どうして急にいろんなことが起こるんだ。
頭が、痛い。

「…、…ミナ、さん」

私に気付いたコナンくんが、驚いたようにこちらを見つめていた。その表情を見て、あぁ私は今見てはいけないものを見たんだなと理解する。
多分、透さんが…そして、コナンくんが、私に隠していた秘密。私が知ってはいけない、一欠片。

「ミナさん、今の話、」
「聞こえなかったよ」

コナンくんの声を遮って言った。
私が知ってはいけないことならば…私はそれを、知らないままでいなくてはならない。
だって私は、なんとなく気付いていたのだ。東都水族館の観覧車で赤井さんや透さん、コナンくんと遭遇した時から。
FBIである赤井さんが認める安室透という人間が、ただの探偵さんであるはずがない。ただの探偵は爆弾処理なんてきっと出来ない。
探偵業がどういうものかは私には想像が出来ないけれど、探偵と喫茶ポアロの二つの仕事をしているというだけでは、透さんの忙しさには説明がつけられなかった。

「…ミナさん、」

警察官。それが本当なんだとしたら、透さんはきっと…身分秘匿捜査を行なっている、秘密捜査官。もしかしたら安室透という名前も偽名かもしれないし、ならば私には透さんの本名さえきっと知ることは出来ない。
今まで気にも留めない点でしかなかった一つ一つが繋がっていく。不思議と脳内はクリアになって、ゆっくりと呼吸をして唇を噛み締めた。

「だけど、何があったのかは教えて欲しい。さっき、毛利さんが車で連れて行かれるのを見たの」

私がそう言うと、コナンくんは小さく息を飲んだ。
…何かあったんだ。それも、毛利さんに関わる何かが。ならせめて、知らないままでいるなりに私に出来ることをしたい。知らないからって、何も出来ないわけじゃない。
流されるままの私ではいたくない。

「……わかった。上に蘭姉ちゃんと園子姉ちゃんがいるんだ。上がって」
「うん。…お邪魔します」

階段を上がっていくコナンくんに続く。
小さな背中を見つめながら、まだ少し震える手をぎゅうと握りしめた。

安室透という人物が、虚像だとしたらあなたはどうしますか?
いつか、沖矢さんにそう聞かれたのを思い出す。本当の姿は別にあって、それは悪かもしれないし正義かもしれないし…或いはその両方かもしれないと、そう言われた。
私はあの時、なんと答えた?
悪も正義も理由がある。全てにおいて理由がある。私にとって彼が何者だろうと関係ない。そう答えた。
彼という人間が好きだ。ただそれだけ。
何も知らないままでいい。透さんに問い詰めようとは思わない。話して貰えるとも思っていない。

「相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け入れること」

少しだけ立ち止まって、自分にも聞こえないくらいの声で小さく呟く。
大丈夫、今までと何も変わらない。知らないままでもいい、騙されていると言うのならそれでも構わない。私が透さんのことを想う気持ちは変わらない。
彼という人間は、彼しかいないのだから。

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