91
朝目を覚まして、目の前にいたのはうさぎのれいくんだった。ベッドにころんと転がって、そのつぶらな瞳で私の方をじっと見つめている。抱きしめて寝たはずだったが、寝ている間に私の手を離れていたらしい。
そっと手を伸ばしてれいくんの耳を撫でる。肌触りの良さに目を細めた。
家の中に物音はしない。体を起こして辺りを見てみるも、透さんが帰ってきた形跡は一切なかった。寝室でもある和室も、ダイニングキッチンの方も、昨日私が寝る前に見たままだった。
…それもそうだろう、透さんはしばらく帰れそうにないと連絡してきたのだから。それでも、もしかしたら、なんて期待を持ってしまう自分が滑稽で、乾いた笑いが零れる。
せめて、危険な目に遭わないでいて欲しいと思う。
透さんは今頃、どこにいるのだろうか。


コナンくんからの連絡もない以上、私に出来ることはない。独自に調査なんてしたくても手段がないし、こんな時にいつもなら頼りにする透さんも今回の件に関しては相談出来そうにもない。
昨日のコナンくんの言っていた言葉をあのままの意味で受け取るなら…毛利さんを逮捕に追い込んだのは透さんということになるからだ。そして透さんも、コナンくんの言葉を否定はしなかった。それが本当であろうとなかろうと、どちらにしても私に踏み込める領域でないことくらいはわかる。

「…もし、透さんが毛利さんを逮捕に追い込んだのが本当だったら、」

取り込んだ洗濯物を畳みながら、不意にぽつりと呟いた。
私は毛利家の人達が好きだ。毛利さんも蘭ちゃんも、そこに一緒に住んでるコナンくんも。そんな人達と透さんが対立しているなんて考えたくもないけど、でもそれが真実だとして何か変わるのだろうか。
私が透さんのことを好きなのも、毛利さん達を大切に思うのも、きっと変わらない。透さんがそういうことをするのなら、何かのっぴきならない理由があるんだ。理由もなくこんなことをする人ではない。
そもそも、私は透さんを信じたいわけではないのである。信じるというのは、それを本当だと思い込み正しいとして疑わないこと。疑いがあるから、信じるという言葉が成り立つのかもしれない。
だって私は、透さんを疑ったりはしていない。今まで一緒に過ごしてきた透さんを見て、知っているだけ。
ぼんやりとして、いつしか止まっていた手を動かし始める。畳んだ洗濯物をクローゼットの中にしまうと、ふとポケットに入れていたスマホが震えた。メールとも着信とも違う震え方だったので何かと取り出してみたら、ニュース速報が入っている。
開いてみて絶句した。
爆発現場に残された指紋、自宅のパソコンから出てきたサミットの予定表や会場の見取図、そして引火物へのアクセスログ。それらが証拠となり、毛利さんが送検されたというニュース。
時刻は、昼過ぎのことだった。


***


翌日コナンくんに呼び出されて、私は霞ヶ関に向かった。何でも、目暮警部に今回の件についていろいろと聞きに行くらしく、保護者として着いてきて、とのことだ。私よりも蘭ちゃんの方が良いのではないかと思ったけど、コナンくんがわざわざ私に連絡してきたということは彼がこの方が良いと判断してのことだろうと考えて了承した。

「ミナさん、こっち!」

地下鉄の駅の改札を出たところで、コナンくんの声に振り向く。スケボーを抱えたコナンくんがこちらに向かって手を振っていた。

「おはよう、コナンくん」
「ミナさんおはよ。詳しい話は歩きながらさせて」

目暮警部にアポイントを取っているらしい。コナンくんのコネクションが正直少し怖い。階段を上がって警視庁に向かいながら、コナンくんに現在の状況を聞く。

「小五郎のおじさんが送検されたことは?」
「知ってる。昨日スマホにニュースが入ってきたから。弁護士はどうなったの?蘭ちゃんのお母様、引き受けてくれるって?」
「肉親が弁護すると、客観性がないと判断されて不利に働くことがあるんだって。妃先生も良い弁護士を探してくれたんだけど…眠りの小五郎っていう有名人だから、みんな尻込みしちゃって引き受けてくれなくて」
「えっ?!」
「あ、でもその後に橘境子っていう弁護士が訪ねてきて、引き受けてくれたんだ。公安事件を多く担当してる人」

…と、言う割にはコナンくんの表情は浮かない。弁護士が見つかって良かったと胸を撫で下ろしたけど、その橘弁護士に…何か問題でも、あるのだろうか。私が首を傾げてるのに気付いたコナンくんは、少し迷うように視線を泳がせた後に言った。

「境子先生、裁判の勝敗…全部負けてるみたいなんだ」
「えっ」
「対するのは日下部検事っていう負け無しの有名な検事さん。不安にもなるでしょ?」

それは…かなり旗色が悪いのではないだろうか。ただでさえ今毛利さんはかなり危険な状態な気がするのに。誰も弁護を引き受けてくれないのなら仕方ない…と思うしかないのだろうか。その境子先生には申し訳ないが、なんとか引っくり返してもらわないと困る。

「日下部検事から追加の捜査を求められたって知り合いの警部さんが教えてくれたんだ」
「だから、目暮警部に話を?」
「うん。何か教えてくれればいいんだけど」

コナンくんと一緒に警視庁の門を潜る。
私の世界で透さんに付き添って霞ヶ関まで来たことはあったけど、実際に警視庁に入るのは初めてだ。緊張している私とは対照的に、コナンくんは慣れた様子で足を進めていく。…これ、コナンくん一人でも何ら問題なかったんじゃないかな。
受付で警視庁の入館証を貰い胸に付ける。ロビーの奥に進むと、見慣れた恰幅のいい警部さんがこちらに向かって手を上げた。軽く頭を下げて歩み寄る。

「目暮警部こんにちは!」
「こんにちは。お忙しいところお時間取って頂いてありがとうございます」
「いや、構いませんよ。コナンくん、今日は佐山さんと一緒なんだね」
「うん!ミナお姉さんに一緒に来てもらったんだ!」

コナンくんがたまに二重人格なのではないかと思うことがあるんだが、やっぱり二重人格なんだろうか。なんだか急に子供らしい。
目暮警部は気にした様子も見せずに私達にソファーを勧めてくれる。コナンくんのスケボーを預かって、一緒にソファーに腰を下ろした。

「目暮警部、小五郎のおじさんのパソコンが誰かに操られた可能性を調べてるんだよね?」
「まぁ、確かに…日下部検事に追加の捜査を頼まれてはいるんだが」

日下部検事。先程コナンくんとの話にも出てきた負け知らずの検事さんの名前だ。
追加の捜査をした上で、何かわかったことは無いのだろうか。

「言える範囲でいいから教えて?新一兄ちゃんが、小五郎のおじさんを助けるためにどんな情報でもいいから欲しいって、」
「毛利先生が、どうしたって?」

コナンくんの声に次いで聞こえてきた声に、はっと息を呑む。聞きたかった声。今は聞きたくなかった声。こんなところで耳にするとは思わなかった声。

「安室くん」

目暮警部が彼の名を口にして、私もゆっくりと視線をそちらに向ける。
いつもの柔らかな笑みを浮かべた透さんが…真っ直ぐにこちらに歩み寄ってきて、目の前で立ち止まった。
手には青い紙袋を持っている。あまりにいつも通りの彼に、思わず言葉を詰まらせた。

「…聞いてたの?」
「何を?僕は毛利先生が心配で、ポアロから差し入れを持ってきただけだよ」

透さんがどういう状況にあって、何をしているのかはわからない。けど…私はその時、ポアロにはいるんだ、と思ってしまった。
家に帰れないくらいなんだから当然のようにポアロの仕事も休んでいるのだと思い込んでいた。そうじゃないんだ。いつも通りポアロには出勤して…でも、家に帰れないくらい、忙しいんだ。
ポアロには、いるのに。

「あー、毛利くんはもうここにはいないよ」
「…送検されたら原則、身柄は拘置所へ行く。…安室さんが知らないはずないよね」

目暮警部とコナンくんの声にはっとした。
ダメだな、余裕が無いと妬みを抱えてしまう気がする。こんなことではいけないと思いながら小さく息を吐いた。

「へぇ、そうなんだ。君は相変わらず物知りだね」
「あぁ、それから、拘置所にそういったものは差し入れできないよ」
「わかりました」

目暮警部の言葉に軽く返事をしながら、透さんは踵を返した。
行ってしまう。まるで私の事なんて見えていないかのようだった。彼には…コナンくんしか見えていないかのようだった。透さんは私の方を、一度も見やしなかった。

「透さん!」

思わず立ち止まって呼び止める。
彼は私の声にぴたりと足を止めてはくれたが、振り向く様子はない。

「あ、あの、…今日、ポアロ、行ってもいいですか?」

言いながら間抜けな一言だと思った。
行くだけならわざわざ透さんの許可を取る必要なんてない。勝手に行けばいいのだ。
だけどどうしても、家で会えない透さんに会いに行っても良いのか判断がつかなかった。今までに無いくらい透さんとの間に分厚い壁を感じてしまって、踏み出すことが出来なかった。
無意識に服の胸元をぎゅうと握りしめる。
感じている不安を払拭したかった。ポアロに行って、いつもみたいには無理かもしれないけど…透さんとお話ししながらカフェラテを飲んで、少しでもこの気分を軽くしたかった。

「…どうぞ?僕はいませんけど」

振り返らないまま告げられたその一言に動けなくなる。強く頭を殴られたような衝撃だった。
冷たい声で、そんな言い方をされるとは…思ってもいなかったから。
突き放されたのだ。私は。透さんに。
遠ざかっていく透さんの背中を追うことも、もう一度声をかけることも出来ない。
体が、動かない。

「ねぇ!刑事さん!!」

コナンくんの声にびくりと体が震えた。凍り付いていたように動かなかった体が動くようになって、私は突然駆け出したコナンくんに目を丸くする。
見れば、見た事のある刑事さんがこちらに歩いてくるところだった。眼鏡をかけた短髪の刑事さん。キュラソーさんを連れて行った公安の人。名前は確か…風見さん。

「おじさん家から持ってったパソコン返してよぉ!僕の好きなゲームも入ってるんだからぁ!」
「っ?…あれは証拠物件だ、まだ返せない」
「コナンくん…!」

コナンくんは風見さんの腕にぶら下がり駄々をこねている。こ、こんな子供っぽいコナンくんもなかなかに珍しいというか、やっぱり、二重人格なのかな。あまりの差に呆気に取られるものの、風見さんはお仕事中だろうし邪魔はいけない。慌てて駆け寄ると、地団駄を踏むコナンくんを後ろから抱き上げた。

「博士が作ってくれたソフトなのにぃ!」
「コナンくん!ダメだよ…!すみません、ご迷惑をおかけして」

風見さんに頭を下げると、彼は私の顔を見て少しだけ驚いたように目を見張った。…ように見えた。すぐに小さく「失礼」と言いながら眼鏡を軽く上げて行ってしまったから。
その背中を見送りながら小さく息を吐く。

「…ミナさん、風見さんと知り合い?」
「えっ?」

コナンくんに問われて目を瞬かせる。

「知り合い…ではないよ。キュラソーさんに会いに警察病院に行った時にすれ違ったことがあるだけ。私が一方的に知ってるだけで、風見さんは私の事なんて覚えてないと思うし」
「…ふーん」

コナンくんはもう遠ざかった風見さんの背中を見ながら何やら考え込んでいる。もう子供バージョンのコナンくんは終わりらしい。すっかり私の知る探偵のコナンくんだ。

「…まぁいいや。ミナさん、下ろしてー」
「えっ?あ、ごめん」

軽く体を揺らすコナンくんに気付いて、私は彼を床へと下ろした。軽いなぁ、小学一年生の平均的サイズだと思うし当然だけども。

「目暮警部、ありがと!何か話せることがあったら連絡して欲しいな」
「あぁ、わかったよ。それじゃ」
「ありがとうございました」

コナンくんと一緒に目暮警部を見送って、ゆっくりと息を吐き出す。
…今の十数分の間に、やけにどっと疲れた気がする。まさかこんなところで透さんに会うとは思っていなかったし…なんというか、心の準備が出来ていなかったというか。去っていく透さんの背中を思い出して、ずきりと胸が痛んだ。

「ミナさん」

スケボーを手にしたコナンくんが歩み寄ってくる。取り繕うように笑みを浮かべて、軽く背中を屈めた。

「ごめん、ぼーっとしてた。…帰ろっか」
「ミナさん、ポアロに行くの?」

コナンくんに問われて、小さく息を呑む。
言葉に詰まったのは一瞬だけ。私はすぐに笑みを浮かべたまま首を横に振った。

「ううん。透さんもいないって言ってたし…今日はやめとく」
「そっか、」
「うん」

コナンくんと一緒に受付で入館証を返し、警視庁を出る。
そういえば結局目暮警部から有力な情報は聞けなかったけど良かったのかな。コナンくんはもうここには用はないというような顔をしているし、まさかあの会話の中でなにかわかったとでも言うのだろうか。探偵さんの考えは私にはわからない。

「コナンくんはこれからどうするの?」
「英理おばさんのとこに戻るよ。蘭姉ちゃんもそこにいるんだ」
「そっか、気を付けてね。送っていこうか?」
「ううん、大丈夫!ありがと。また何かわかったら必ず連絡するから!」

そう言ってもらえるのは本当にありがたいな。スケボーに乗って行ってしまうコナンくんを見送りながら、胸の苦しさを誤魔化すように深呼吸をひとつ。
やっぱりポアロに行こうか、と思いかけて首を横に振る。
透さんはいない。…でもいつもと同じように透さんに接してもらえるであろう梓さんと、今は楽しくお話し出来そうにない。
だって、それは…とても、羨ましいことだ。

「………」

嫉妬の塊だ。重い石が胸に乗っかっているみたい。
こんな自分、嫌だな。
苦しくてしんどくて、今はただ一人になりたかった。


Back Next

戻る