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翌日はどんよりとした曇り空だった。
窓から差し込む光は少なく、まだ朝だと言うのに薄暗くて今にも雨が降り出しそうだ。
ベッドから体を起こして立ち上がり、ダイニングキッチンへと向かう。変わらず、透さんが帰ってきた形跡は一切ない。
キッチンのシンクには、昨日私が食べた夕飯の食器が重ねてある。…いつもなら食器を洗ってから寝るんだけど、昨日はどうしてもそんな気になれなくて放置してしまった。
昨日の夜は…何を食べたんだっけ。食欲はないけど何か食べないとと思って、冷蔵庫の中にあったもので適当に作った気がする。ぼんやりとしている自分に嫌気が差して、深い溜息を吐きながら肩を落とした。
…雨が降りそうだし、洗濯物は今日はやめておこう。かと言ってこんな暗い気持ちを抱えたまま家にいたくはないな。
とりあえず食器を洗ってから考えよう、と思いながら、時間を確認するためにスマホを取り出し、ディスプレイを見て気付いた。

「…あ、」

五月一日。
東京サミット当日だ。都内は厳戒態勢が敷かれているんだっけ。厳戒態勢が敷かれているなら大きな事件も起こらなそうだ、と思いながらスマホをポケットにしまう。
…宛てはないけど、たまには都心の方に出てみようか。ベルツリーとか登ってみたら気晴らしにもなるかも。家で篭もりきりになるよりは良いよね。
気力がなくなっても、自分を見失ってはいけない。自堕落になってはダメだと自分の頬を両手で叩く。
透さんのことは…とりあえず、置いておこう。忙しさが落ち着いたらきっと帰ってくる。その時は笑顔で出迎えたい。透さんの隣に胸を張って立てるような女性になりたいと思った。だから、自分の機嫌は自分で取らなくちゃ。

「よし、」

小さく気合いを込めて呟く。
顔を洗って食器を片付けたら出かけよう。


***


米花駅から都心に向かう電車に乗っている時、それは突然起こった。

「あつっ…!」
「やだ、なに?」

近くに立っていた女子高生二人組の声に顔を上げる。放り投げられたスマートホンが私の足元まで転がってきて、どうしたのかと拾い上げようとして…焦げたような臭いに動きを止めた。

「うわぁっ!」
「きゃぁ!!」

次いで立て続けに男性と女性の悲鳴。
視線を向けると、その二人ともスマホを床に落としている。徐々にざわつき始める電車内に気付き、ひとまずと足元のスマホを拾い上げる。
可愛いストラップの着いたスマホだけど…異常に熱い。これを落とした女子高生に歩み寄って、そっとスマホを差し出した。

「あ、ありがとうございます…」
「今、何があったの?」
「急にスマホが熱くなって…バチバチッて、ショートするみたいな音がしたんです」

私の手からスマホを受け取った女の子はボタンを押したり画面をタップしたりしてみるけど、スマホの画面は暗く沈黙したまま。電源を入れ直しても反応する気配もない。

「やだ、壊れた?」
「えぇ?!なんでぇ…!」

様子を見れば、この女の子以外に悲鳴を上げた男性と女性もスマホを手にして困惑した表情を浮かべている。皆同じくスマホが故障したんだろう。
どうして突然?スマホから発火なんて普通はメーカーを疑うところだけど、皆手にしているスマホはそれぞれメーカーも機種も違う。それに、タイミングが揃い過ぎていた。
…嫌な予感がする。

電車を降りると雨が降り始めていた。
…雨が降りそうだとわかっていたのに傘を持ってくるのを忘れた。ぼんやりしすぎだな。
ひとまずスマートフォンを取り出しニュースを見てみると、都内で不可解な現象が相次いでいるという記事が上がっていた。コンビニの電子レンジや監視カメラ、パソコンや電気ポット、車のナビが暴発しただなんて情報も載っている。
さっき電車の中でスマホが故障したのも、間違いなくこれに関係しているんだろう。でも、一体どうして。

「ミナさん?」

声をかけられて顔を上げると、傘を指した蘭ちゃんがきょとんとした顔でこちらを見つめていた。

「蘭ちゃん」
「ミナさんこんにちは。先日はありがとうございました」
「えっ?なんのこと?」

歩み寄ってきた蘭ちゃんがぺこりと頭を下げる。突然何のことだろうと目を瞬かせたら、蘭ちゃんは顔を上げて少し照れ臭そうに笑う。

「いえ…父が逮捕されたあの日、ミナさんがいてくださって良かったな、って。弁護士見つけないと、ってミナさんが言ってくださって、そうだ出来ることからやらなきゃって思ったんです。なんか、ミナさんの言葉を聞いてたら大丈夫な気がして」

私自身そんなお礼を言われるようなことをしただなんて思ってはいないが、蘭ちゃんの表情は穏やかだ。毛利さんの件は好転していないのだろうが、それでもしっかりと前を見据えている。蘭ちゃんは強くて、綺麗だなぁと思う。眩しいくらいに。

「…私は、何もしてないよ。コナンくんから話は聞いてるけど、無事弁護士さんも見つかったって」
「はい。…まだどうなるかはわからないんですけど、でも父のことを信じてるからには、信じ続けなきゃって」
「…そっか、」

信じ続ける。蘭ちゃんのその気持ちは、色んなところから向けられる疑いの眼差しさえ跳ね除けるのかもしれない。
どうか毛利さんの疑いが晴れるようにと祈る。
毛利さんがまた笑顔で家に戻れるようになって欲しい。蘭ちゃんやコナンくんの為にも。

「そういえば、ミナさんはどうしてここに?」
「気晴らしに外出。…けど、雨が降るのわかってたのに傘忘れちゃって」
「あ、だったら私と一緒に来ませんか?今から母の法律事務所に戻るんですけど、そこに予備の傘もありますし…母に、ミナさんのことを紹介もしたいし」
「傘を貸してもらえるのはとても助かるけど、傘を借りに行くのにこんなに緊張したことないよ私」

なんと言っても蘭ちゃんのお母様は負け知らずの敏腕弁護士だ。凡人の私なんかがご紹介に預かっても良いのだろうか。一般人の感覚で申し訳ないが、だって、弁護士の人ってものすごく偉いイメージがある。

「大丈夫大丈夫!母もミナさんに会いたがってたんです」
「なんで??」
「私がミナさんの話をしたら一度お会いしたいって」
「えぇ…?」

一体何を話したんだろう、蘭ちゃん。
とは言えせっかくのお誘いである。ここでお断りするのも申し訳ないし、弁護士さんにお会い出来るなんてなかなかない機会というか…正直少しお会いしたい気持ちはある。
…私も毛利さんにお世話になってるし、ご挨拶はちゃんとすべきだよね。

「…わかった。ご一緒してもいいかな」
「もちろんです。行きましょう」

蘭ちゃんが傘を差し出してくれるので、ありがたく相合傘をさせてもらうことにした。妃先生の事務所はここから近いらしく、歩いてもそんなに時間はかからないそうだ。
空はまだどんよりと暗い。天気予報では夕方くらいには晴れるみたいだけど、まだしばらくは降り続くだろうな。

「そういえば蘭ちゃんは何か用事でもあったの?」
「あ、いえ。都内で起こってる電子機器の暴発のニュース見ました?事務所のテレビがそれで暴発して壊れちゃって…」
「えっ?!大丈夫だったの?!」
「はい。壁に固定してあるテレビなので、とりあえず外しちゃおうって。ドライバーを買いに出たんです」

まさかあの暴発事件に巻き込まれていたとは。
でも本当に何が原因なんだろう。そんな同時に、種類の違う様々な電子機器を同時に暴発させるなんてことが、果たして可能なのだろうか。
蘭ちゃんと歩きながら考えていたら、いつしかビジネス街へと入っていく。法律事務所なんて行くの初めてだから、やっぱり緊張するな…。

「あれ、コナンくん」
「え?」

蘭ちゃんの声に顔を上げる。ビルの前に、スケボーに片足を乗せた男の子の姿…蘭ちゃんの言う通り、コナンくんだ。誰かと電話しているみたいだけど、雨の中帰ってきたようで彼の髪や服はしっとりと濡れていた。

「現場で見つかったその圧力ポットもIoT家電のはず!犯人はネットでガス栓を操作し、現場をガスで充満させてからIoT圧力ポットを発火物にして、サミット会場を爆破したんだ!」

IoT家電。…電波干渉。
ついこないだ、ポアロでケーキが溶けたのもそれだった。
サミット会場を爆破した犯人と、今都内で起こってる暴発騒ぎの犯人が同一だとしたら。

「小五郎のおじさんには、出来っこないよ!」
「それ、本当?!」

隣にいた蘭ちゃんが声を上げ、そこで初めて私達に気づいたコナンくんは驚いたように振り返る。瞬間、スマホを取り落としそうになって慌てたようにこう付け足した。

「…って!新一兄ちゃんが言ってたからよろしくね!警部さん!!」

新一兄ちゃん。…コナンくん、今回の件で工藤くんと連絡を取り合っているんだな。電話の相手は目暮警部だろうか。本当にすごい小学生だ。
蘭ちゃんはコナンくんの言葉にほんのりと嬉しそうに微笑み、傘を畳む。そして、ほんの少し頬を染めながら言った。

「コナンくん。…新一、頑張ってくれてるんだね。…お父さんのために」

不安じゃないはずがない。直接会うことが出来ない分、工藤くんが何をしているのかもきっと不透明だろう。それでも工藤くんはコナンくんと繋がっていて、毛利さんの無実を証明するために奔走している。
先に歩き出す蘭ちゃんに、コナンくんと一緒に続く。
…蘭ちゃん、嬉しいだろうな。離れていても目指すところはおんなじだ。


***


「あなたが佐山ミナさんね」
「はっ、初めまして…!」

妃法律事務所、と書かれた立派なドアを潜った先に待っていたのは、とんでもなく美人な女性弁護士さんだった。
妃英理さん。蘭ちゃんのお母様であり、当然ながら毛利さんの奥様である。
眼鏡の奥の目は切れ長で、すらりとした手足は長い。薄紫色のスーツを着こなすその姿はめちゃくちゃにかっこいい。
負け知らずの敏腕弁護士…と聞いてはいたけど、その噂に違わず油断や隙のない雰囲気に正直圧倒されそうだ。何か失礼なことをしてしまわなければ良いのだけど。

「そんなに緊張しないでちょうだい。いつも娘の蘭がお世話になってます」
「とんでもないっ!こちらこそ蘭ちゃんやコナンくんにはお世話になりっぱなしで…!その、妃先生にお会い出来て光栄です…!」

私の様子を見ているコナンくんと蘭ちゃんが苦笑いをしているのが横目に見えた。
妃先生の飼い猫だろう。毛並みの良い猫ちゃんが足元に擦り寄ってくるものの、そちらに気をやる余裕はない。察して欲しい。

「ごめんなさいね。ちょっとテレビが故障してしまって、今境子先生に外してもらっているところなの。少し待っててね」
「お、お構いなく…!」
「あ、境子先生!ドライバー買ってきました」

妃先生の後ろにある応接用のソファーの横に取り付けられたテレビ。見れば、暴発の際の傷なのか派手にヒビが入ってしまっている。
そして、そのテレビと格闘してるのが…コナンくんの言っていた、毛利さんの弁護を引き受けてくれた橘境子先生。橘先生は蘭ちゃんからドライバーを受け取り、テレビの裏を覗き込んでいる。

「英理おばさん。新一兄ちゃんが言ってたんだけど、今回の暴発事件は恐らくIoTテロだって」
「IoTテロ?どういうことなの?」

首を傾げる妃先生に、コナンくんが工藤くんからの話を説明する。話を聞き終わった妃先生は、なるほど、と頷いた。

「…それが本当なら、裁判に勝てるかもしれないわね」
「うん!検察に捕まっているおじさんは、今ネットにアクセス出来ないもんね!」

そう。毛利さんには今回のテロは実行不可能だ。これが上手く証拠になれば、裁判で勝てる可能性も出てくる。
希望が見えてきたと喜ぶ蘭ちゃんやコナンくんの様子に私も知らず笑みを浮かべたのだが。

「いいえ?」

温度のない声が、遮った。橘先生だ。
彼女はこちらを見向きもせず、テレビの金具をドライバーで外しながら言う。

「日時を予め設定しておけば、拘束された後でもIoTテロは可能です」
「…え?」

橘先生は、毛利さんの…弁護士のはずだ。
毛利さんを護るべき立場にある弁護士さんのはずだ。

「サーバーを辿ってアクセス先がわかれば、毛利さんの容疑は決定的になる」
「そんな!」
「っ、でも、サーバーの捜査って難しいんでしょ?裁判までに終わるかなぁ」
「公安が捜査しているから、難しくはないはずよ」
「待って。…なんで公安がその捜査をしているって、知ってるの?」
「…え?」

コナンくんの言葉に橘先生が振り向いた瞬間、壁のテレビがぐらりと揺れてそのままテーブルの上に大きな音を立てて落ちた。がしゃん、という派手な音とともに、モニターのガラスが小さく飛び散る。

「あぁっ…ごめんなさい!」

後ろの配線コードが伸び切り、テレビは不安定な角度のままテーブルの上に鎮座している。それを見ながら、橘先生は深い溜息を吐いた。

「…それはね、ボウヤ。その手を捜査をするのは、公安が多いからよ」

橘先生は改めてコナンくんに視線を向けると、公安警察の“協力者”という存在について語り始めた。


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