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「公安警察はね、たくさんの“協力者”を持ってるの」

橘先生は、窓の外へと視線を向けた。
窓の外は未だ雨。雨雲もまだ重たいままだ。

「協力者って…公安刑事の捜査に協力する民間人のこと?」
「そうです。特に通信傍受法で捜査対象になるサーバーの関係者には、公安警察の協力者が多いんです。その手の協力者に当たれば、毛利さんが不正アクセスしていた証拠も取れるはず」

橘先生…コナンくんから聞いた話だと負けてばかりの弁護士さんということだったけど。こうして話を聞いていると、公安関連のことにとても精通しているようだ。このことに関しては妃先生よりも詳しいようだし、説明もわかりやすい。
橘先生が言ってることは全て事実なんだろう。抗えない現実であり、きっと橘先生はそういった現実と戦ってきたんだろう。勝ちも負けも、戦いには変わりない。
けれど、それでも。私には、どうしても許せなかったのだ。

「あの、」

思わず、声が出てしまった。
黙っていることが出来なかった。だってその言い方では。

「私、裁判だとか法律だとか、弁護士さんと検事さんのあれこれだとか…そういうの、よくわかりません。馴染みのない世界ですし、テレビドラマで見てるくらいで…知識もないです」
「…ミナさん、」
「でも、橘先生。あなたは…毛利さんを弁護する人、ですよね」

裁判において、毛利さんを護るべき立場の人。
裁判で相手の検事さんと戦い、毛利さんの無罪を証明してくれるはずの人。
裁判に直接的に関われないコナンくんや工藤くんが頑張って動いているのに。どうしたら裁判をひっくり返せるかと妃先生が考えを巡らせているというのに。出来ることからやらなきゃって、蘭ちゃんは毛利さんのことを信じ続けているというのに。

「橘先生が…裁判で、相手の検事さんと戦うんですよね。蘭ちゃんや妃先生やコナンくんの思いを背負って、裁判に臨んでくださるんじゃないんですか?」

口にするのは否定的なことばかり。それも、まだ確実でないことをさも事実のように言い放つ。
毛利さんの容疑は決定的になる?毛利さんが不正アクセスしていた証拠も取れる?どうしてわかりもしないことを言い切ってしまうのだろう。

「あなた以外この場にいる皆、毛利さんは無実だと知っています。無実だと信じています。だから無実であることを証明する為の証拠をコナンくんや工藤くんが集めてきてくれた。その証拠をしっかり確認して、少しでも裁判に勝つ為に動くのがあなたの仕事じゃないんですか?」

どうして。

「どうして毛利さんの粗を探そうとするんですか?違うでしょう?無実の罪に問われている毛利さんを助けるのが、あなたの役目でしょう!」

私達は、実際裁判では何をすることも出来ないのだから。
橘先生が勝つ為に動いてくれなければ…こんな裁判、何の意味もないじゃないか。
悔しかった。この人は毛利さんを助けるためには動いてくれない。裁判に勝てないんじゃない、負けるつもりでいるんだとわかってしまった。
法律や裁判のことをよく知りもしない私が、そもそも毛利さんの肉親ですらない私が、こんな風に身勝手に噛み付くのは間違いなんだとわかっている。それでもやっぱり…許せなかった。

「…もちろん、そんな証拠があればの話ですよ?誤解させてしまうような言い方をしてすみません」

橘先生は少し困ったように笑うと、再びテレビの金具を外す作業へと戻ってしまった。
そんな橘先生に妃先生が歩み寄り、テレビは業者に頼みましょうと声をかけている。…私がしたことといえば、この場の空気を悪くしてしまっただけだ。私の言葉もきっと橘先生には響いていない。
橘先生が何故毛利さんの裁判に対して意欲的になっていないのかはわからない。何か深い理由でもあるのかもしれない。
何か深い、理由でも。

「………ミナさん、」

くい、と服の袖を引かれる。はっとして視線を下ろすと、コナンくんがこちらを見上げていた。
髪も服も濡れたままだ。暖かくなった時期とは言っても、このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。

「コナンくん、風邪引いちゃう」

私はコナンくんの手を引いて少し橘先生達から離れると、彼の前にしゃがみこんだ。鞄の中から少し大きめのハンドタオルを取り出して広げ、それをコナンくんの頭に被せる。水気を切るようにそのまま軽く撫でるように手を動かす。

「わ、だ、大丈夫だよ…!」
「だめ。そのジャケットも脱いで、乾かしておかないと」

コナンくんの髪を拭いながら、私はぼんやりと考えていた。
非道な行ないにも、きっと意味がある。私は透さんに対してはそう思っている。だからもしかしたら、橘先生にも深い理由があるのかもしれない。橘先生も理由もなくこんなことをする人ではないのかもしれない。そう考えようとした。
でも、どうしても考えられなかった。お願いだから毛利さんを助けて欲しいと、心から願ってしまった。
理由があるかもしれないのに。橘先生も、何か苦しんでいるかも知れないのに。

「…ダメだなぁ、私」

自分でも意識しないうちに、ぽつりと呟いていた。
小さな呟きは目の前のコナンくんにしか聞こえなかったようで、彼は私を見つめて目を細めている。

「ごめんね、気にしないで」
「ミナさん」

コナンくんに手を握られて、動きを止めた。コナンくんはじっと私を見上げ、それからほんの少しだけ微笑む。

「ダメじゃないよ」

次いで、小さく「ありがとう」とも。
どうしてお礼を言われたのかわからなくて首を傾げる。むしろ私はこの場の空気を壊して、謝らなければならない立場だと思う。なのにコナンくんから突然感謝の言葉を告げられて、困惑して眉を寄せた。

「ミナさんの気持ち、嬉しかったから」

だから蘭姉ちゃんの分も一緒に、ありがとう。
私には、勿体なさすぎる言葉だ。自分勝手な気持ちを橘先生に押し付けて、見苦しく喚いただけなのにありがとうなんて。
優しいなぁ、本当に。

「…ねぇ、コナンくん」
「うん?」
「私、透さんのこと…信じたいわけじゃないんだ」

少しだけ、気持ちを聞いて欲しかった。

「彼がやることには全てきちんとした理由がある、例え非道なことをしたとしてもそれには意味があるんだって、私そう思ってたの。だから信じるんじゃない…透さんがそういう人だって、知ってるだけ」

信じるのとは違う。彼を疑っていないのだから、信じるわけじゃない。当然だと思っているだけ。そう知っているだけ。
そう思っていたのに。

「…透さんを…信じたい、って…思い始めちゃった」

信じたいだなんて、彼を疑っているのと同じじゃないか。
毛利さんを逮捕に追い込んだのがもしかしたら透さんかもしれない。だとしてもそれにはきっと理由がある、最後にはきっと悪いようにはしないはず、そう思っていたのに。もしかしたらそうじゃないかもしれないなんて、少しでも疑問を抱いたらダメだった。
毛利さんの逮捕に透さんが万一関わってるとしたら、毛利さんの弁護をすることになった橘先生も何かしら関わっていたっておかしくはない。毛利さんを裁判で勝たせないようにするのは、もしかしたら透さんの指示かもなんて、そんな最低なことすら脳裏を過る。
彼を信じたい。彼を信じ続けていたい。

「彼を信じたいなんて…信じてないのと、同じだよね」

今頃、どこで何をしているんだろう。
次に会う時、どんな顔をして会えばいいんだろう。私は彼を、笑顔で出迎えるなんてことが果たして出来るのだろうか。

「ミナさん」
「…ごめんね、コナンくんにこんなこと話しても困っちゃうよね」
「ミナさん、寂しいんだね」

コナンくんに言われて、小さく息を呑む。
私が目を瞬かせるのを、コナンくんは小さく笑って見つめていた。

「安室さんに会えなくて、寂しいんじゃない?会えないから不安にもなるし、いろいろ考え込んじゃうんでしょ?ましてや昨日せっかく会えたと思ったら、あんな言い方されちゃったしさ」

昨日警視庁でのことを思い出して胸が痛む。
次またあんなふうに突き放されたら、私はちゃんと立っていられるかだってわからない。それほどの衝撃だったから。

「…うん。…すごく寂しい。透さんに会いたい。でも今は、会っても上手く話せない。…情けないね」
「そんなことないよ」

コナンくんはそっと手を伸ばすと、私の頭をぽんぽんと撫でた。小さくて温かい子供の手だ。

「信じたい、ってその気持ちだけでいいんじゃないかな」
「…でも、それは疑ってるってことだよ。私は透さんを疑いたくなんてない」
「仕方ないよ、疑われるようなことしてるんだもん」

あっさりと言うコナンくんにぱちぱちと目を瞬かせてしまう。…一刀両断、って感じだな。
コナンくんは笑顔のまま小さく首を傾げる。

「安室さんのことを疑って、それでミナさんの気持ちって変わってしまうようなものなの?」

気持ちが変わってしまうかなんて、考えなくても言い切れる。即座に私は首を横に振った。

「変わらないよ」
「なら、いいじゃない。大事なのはミナさんが心の奥に持ってる、その気持ちでしょ?」

透さんを疑っても、私の気持ちは変わらない。透さんが好きだ。彼に寄り添いたいと願う気持ちはずっと残り続けるだろう。
心の奥に持ってるこの気持ち。これは、ちょっとやそっとのことではきっと揺らがない。

「……そう、だね」

疑問は残る。もしかして、と考えてしまうのも止められないだろう。
だけど私は透さんを信じたい。信じ続けていたい。そしてその先で、彼を知っていきたいと思う。

「…ありがとう、コナンくん。…コナンくんに話して良かった」
「へへ」

なんだか少し元気が出てきた気がする。
弱音は吐いた。聞いてもらえて、少し自分の中で整理も出来た。なら後は気持ちを切り替えていかないと。
ポケットからスマホを取り出して時間を確認する。

「…っ、ミナさん!!」
「え、」

コナンくんがはっとして私の方に手を伸ばす。
なんだろうと思った瞬間、手のひらに感じる熱に眉を寄せた。視線を落とすとスマートフォンから煙が上がっている。瞬間、バチンと鋭い音がしてスマホが暴発した。

「熱ッ!!」
「ミナさんっ?!」
「どうしたの?!大丈夫?!」

手のひらに鋭い痛みが走ってスマホを手放す。床に転がったスマホの画面は真っ暗になり、ヒビも入って沈黙している。手のひらを見れば、真っ赤になってスマホを握っていた痕が水膨れになっていた。
異常に気付いた蘭ちゃんと妃先生が駆け寄ってきてくれて、慌てて顔を上げる。

「だ、大丈夫です…!ちょっと火傷をしただけで…お騒がせしてすみません」

IoTテロ。
…まさか私の持ってるスマホにまでそんな被害に遭うとは思ってなかったな。透さんから借りてるものなのに。
そっと転がったスマホに歩み寄って拾い上げる。異常な熱さではあったが、触れないほどじゃない。どうしよう、透さんと連絡さえ取れなくなってしまった。これは、明日にでも修理に持っていかないと。

「トイレ案内しますから、手を冷やしに行きましょう。そしたら手当します」

蘭ちゃんが心配そうに声をかけてくれる。ここはお願いした方がいいだろうな。
じくじくと痛み始めるのを感じながら、火傷になった手のひらを見つめて、目を細めた。

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