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私の火傷は、思っていたよりも手のひら全体に広がってしまっており、蘭ちゃんが手当よりも近くの病院に行った方が良いだろうと判断してすぐ近くの病院を教えてくれた。
トイレでひたすら流水で十五分ほど冷やして痛みは大分ましにはなったものの、水膨れも出来て赤みも残っている。利き手を火傷してしまったのは痛いと苦笑する。ぎゅっと握りしめることも出来ないし、力を入れると痛いからぶらぶらさせておくしかない。水膨れもうっかり潰しちゃいそうだなぁ。
自炊もほとんどしないし火傷なんて何年ぶりのことだろう。小学生くらいの頃が最後かもしれない。火傷って、こんなじんじんと痛むものだったんだな。

「ありがとうございました」
「お大事に」

病院で手当をしてもらって外に出たら、すっかり雨雲も晴れて夕焼け空が広がっていた。さっきまで本当に晴れるのかなんて思っていたけど、天気予報は正しかったらしい。
スマホも使えないし、ひとまず妃先生の事務所に戻ろうか、と思って歩き出した時、ふと道の先からこちらに向かって駆け寄ってくる蘭ちゃんの姿が見えた。よく見ればその後ろに妃先生もいる。…コナンくんはいないみたいだけど、どうしたんだろう。

「ミナさん!」
「蘭ちゃん、どうしたの?」
「父が不起訴になったって!」
「えっ?」

毛利さんが、不起訴。唐突に告げられて一瞬理解が遅れる。
駆け寄ってきた蘭ちゃんが少し乱れた息を整えながら、心から嬉しそうに微笑んだ。

「嫌疑なしで不起訴です…!」
「不起訴、…毛利さんが、」

じわじわと理解が追い付いて、きゅうと胸が苦しくなる。毛利さんが不起訴。つまり釈放。嫌疑なしということは完全に疑いも晴れたということだ。涙が浮かんで、慌てて目元を擦った。

「よ、…よかった、よかったね、よかったね蘭ちゃん…!」
「ミナさん、本当にありがとうございました。あの、今から父を迎えに警視庁に行くんですけどミナさんも良かったら来てくださいませんか?園子もこの後合流するんです」
「私もいいの?是非ご一緒させて欲しい」

そんなお誘い断る理由がない。むしろご一緒させてもらっても良いのかなと思うけど、私も毛利さんにお会いしたかった。

「そういえばコナンくんは?」
「コナンくんも一緒にって思ったんですけど…なんか、飛び出して行っちゃって」
「飛び出して行った…?」

新一も電話に出ないし、と呟く蘭ちゃんを見つめながら、私はほんの少しだけ眉を寄せる。コナンくん、どうしたんだろう。飛び出して行ったって、一体どこに。…何かまた違う情報でも得たのだろうか。

「連絡は入れたので…多分、大丈夫です」
「…そっか。後からコナンくんも来られたらいいね」

四月二十八日に毛利さんが逮捕されてから三日間。たった三日、されど三日だ。毛利さんも妃先生も蘭ちゃんも、心の休まる暇など一切なかっただろう。毛利さんは取り調べも続いていただろうし、体を壊したりしていなければいいのだが。
この三日間、いろんなことがあった。長かったような、短かったような。四月二十八日のことが遠い昔のことのようにも感じられて、不思議な心地だった。
毛利さんの件はきっとこれで解決だ。だったら、…透さんとも、ゆっくりお話しも出来るだろうか。


***


霞ヶ関の駅で園子ちゃんと合流し、警視庁に入る頃には外も暗くなっていた。時計を見れば、もう夜七時になろうとしている。
いろいろと手続きもあるみたいで、警視庁に着いてすぐに毛利さんに会えるというわけでもなかった。ここでお待ちください、と案内された廊下で、ただひたすらに毛利さんが来るのを待つ。蘭ちゃんも妃先生も園子ちゃんも、口を開かなかった。

「っあ、来た!おじさま!」

園子ちゃんの声にぱっと顔を上げ、廊下の先へと視線を向ける。そこには、高木刑事に連れられた毛利さんの姿があった。顔には少しだけ疲れも滲んでいたが、いつも通りの毛利さんだ。ほんの少しだけ照れ臭そうに笑いながら、軽く手を上げている。

「お父さんっ…おかえりなさい!」
「心配かけたな、蘭」
「…ほんと、良かったぁ…!」

蘭ちゃんが毛利さんの胸に飛び込んでいくのを見て、引っ込んだはずの涙がまたじわりと浮かんできた。しっかりと抱き合う親子を見て、毛利さんを信じ続けた蘭ちゃんも救われただろうと思う。毛利さんがそんなことをするはずがないと、冤罪だとわかっていても、起訴不起訴は私たちにはどうにもならないことだ。
蘭ちゃんにとっても毛利さんにとっても、きっととてもとても長い三日間だったに違いない。毛利さんの疑いが晴れて本当に良かった。

「それと、英理も。…いろいろと、すまんかった」

毛利さんの視線が妃先生へと向く。妃先生は「何言ってるの」なんて返している。…身内なんだから当然でしょ、という言葉が聞こえてくるようだった。
毛利さんと、妃先生、蘭ちゃん。素敵な家族だな。

「良かったねぇっ、蘭…!」
「本当に…ほんとに良かった、」

園子ちゃんと一緒に浮かんだ涙を拭えば、振り向いた蘭ちゃんの目にも涙が浮かんでいた。

「園子…ミナさん、ありがとう…」
「あっそうだ!この感動シーンを推理オタクにも送ってやろ〜!」
「推理オタク?」
「一人しかいないでしょ?工藤くんのことよ」

園子ちゃんがスマホを取り出してカメラを三人に向ける。
そっか、工藤くんも心配してるだろうし、安心させてあげた方がいいよね。蘭ちゃんは少し恥ずかしそうで、毛利さんは拗ねているようにも見える。妃先生は何も言わないけど、付き合ってくれるということなのかな。
園子ちゃんの掛け声でカメラのシャッターが切られるのを見守っていたのだけど。

「はい、チーズ」

瞬間、スイッチが切れるような音が館内に響き渡り、一瞬にして視界が闇に閉ざされた。
突然暗く染まる館内に、もうほとんど忘れかけていた暗闇への恐怖がむくりと頭を擡げる。ひやりと背中が冷えて、心臓が激しく胸を打ち始める。
…落ち着け、大丈夫。ここに火事はないし、私も腕も足も自由なまま。私一人じゃないし、皆いる。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながらゆっくりと深呼吸すれば、なんとか自分を誤魔化せるくらいには思考もはっきりしてくる。園子ちゃんのスマホのディスプレイの明かりを見ていたら、恐怖も大分薄くなった。

「ひとまず会議室へ!バラバラになるのは危険ですから」

高木刑事の声に頷き、皆で会議室の方へと移動を開始する。停電しているが、館内がバタついているのは廊下をすれ違う刑事さんたちの様子でわかった。
会議室の中もピリピリとした鋭い空気が流れている。モニターの明かりで多少部屋の中は見えるものの、非常用の電源も動かないらしい。刑事さんたちの邪魔をしないよう、私達は部屋の隅へと固まった。

「NAZUから報告です!無人探査機への不正アクセスが確認されました!!」

ナズ、ってなんだっけ、とぼんやりと考える。無人探査機に関係がある機関、と考えてはっとする。
私の世界での名称は、NASA。アメリカ航空宇宙局のことだ。こちらの世界ではNAZUというんだっけ。待って、今刑事さんはなんて言った?無人探査機への不正アクセスって、どういうことだ。そんなことが可能なのか。

「カプセルの落下地点が狂っていると騒ぎに」
「最終落下予測地点は?!」
「カプセルの切り離しが出来ないと…!」

なんだか、とても嫌な感じがする。刑事さんたちの様子にも余裕が一切ない。
刑事さんたちは一箇所に集まって、何やらカプセルの最終落下予測地点の確認をしているみたいだけど…どよめきが室内に反響して細かい部分はあまりよく聞こえない。
けれど、ぽつぽつと聞こえてくる単語は恐怖を呼び戻すのには充分すぎる。

「カプセルが警視庁に?!」
「どうなってるんだ!!」
「四メートルを超えるカプセルがここに落下すれば、被害は想像がつかないぞ!!」

無人探査機はくちょうのカプセルって、そんなに大きいんだ。そんなものがここに降ってくるって、あまりに現実味がなさすぎる。それって隕石みたいなものじゃないか。隕石が直撃したらどんな威力になるかなんて私には想像も出来ないけど、都心にそんなものが落ちたら莫大な被害が出る。混乱もする。逃げ遅れる人もいるだろうし、二次災害だって起こりうる。

「ミナさん、大丈夫…?」

ぼんやりとしていたら、園子ちゃんに声をかけられた。はっとして顔を上げ、緩く首を横に振る。
…しっかりしないと。

「平気…ごめんね」
「大丈夫だ、俺がついてる」

力強い声に視線を向ける。
何が大丈夫かなんて、どう大丈夫かなんて根拠もないのに、それでも毛利さんのその言葉に酷く安心する自分がいた。…きっと大丈夫。

「英理!お前も、俺のそばを離れるな」
「えっ?!…え、えぇ…」

妃先生を背中を支えながら言う毛利さんの真っ直ぐな言葉に、思わず蘭ちゃんや園子ちゃんと一緒に小さく色めき立ってしまった。…毛利さん、かっこいいな。…素敵な旦那様で、素敵なお父様だ。


***


即時退避を言い渡された私達は、その後すぐに大型輸送車に乗せられて避難場所へと向かっている。避難先であるエッジ・オブ・オーシャンへはおよそ三万人が避難することになっているらしく、その中で私達はカジノタワーへ避難するのだと目暮警部が教えてくれた。
車の窓から見えるカジノタワーは明るく光っている。灯台の役割も果たしている、ってニュースで言ってたっけ。まさかこんな形で新しい観光スポットに行くことになるとは思わなかった。
透さん、今どこにいるんだろう。
スマホも壊れてしまったから私から連絡することも、彼からの連絡に気付くことも出来ない。避難が必要ではない、警視庁から離れた場所にいてくれればいいのだけど…もしかしたら、彼も今避難場所へ向かっているかもしれない。その先がエッジ・オブ・オーシャンだったら、どこかで会えるかもなんて考えかけて首を振る。
三万人の人が避難するのだ。例え同じ避難場所であったとしても、会える可能性なんてほとんどない。そもそも避難してるかもわからないし、考えるだけ無駄である。
鞄から壊れたスマホを取り出して、割れたディスプレイをそっとなぞった。

「どうした、それ」

隣に座っていた毛利さんに聞かれて顔を上げる。

「IoTテロの際に暴発して…壊れちゃったんです」
「ミナさんのスマホも暴発したのか…その手はその時に?」
「はい。ちょっと火傷しちゃいました」

苦笑しながら、包帯の巻かれた自分の手を見る。
じくじくとした痛みは変わらずだ。お風呂に入る時が怖いな、と思いながらそっと手を撫でる。軽傷で良かったと思うけど、車がIoTテロで暴発した人はこの程度では済まなかっただろうし、死人こそ出ていないけど怪我人は相当数に上るはずだ。

「水膨れは潰すなよ。しばらくは手をあんま動かさねぇで大事にしろ」
「…はい、ありがとうございます」

毛利さんの言葉に笑みを浮かべて頷いた。
ぼそっと「痕でも残ったら大変だからな」なんて言ってくれる。優しいな、毛利さん。
窓の外を見つめながら、私は小さく息を吐く。
無事に帰って、またいつもの日常に戻れますように、と。祈らずにはいられなかった。

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