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警視庁を出て、すぐに安室さんの車へと飛び乗った。向かう先なんて言わなくたって安室さんくらいの人なら全部わかっているはずだ。シートベルトを締めると同時に、勢いよく車が発車する。
フロントガラスも割れてあちこちぶつけてボロボロの車だけど、持ち主に似てしぶといらしい。運転には全く問題もないようだった。
霞ヶ関インターチェンジから高速に乗り、東京湾埋立地にあるエッジ・オブ・オーシャンへと向かう。避難誘導が上手くいっていないのか高速道路は渋滞していたけれど、安室さんの運転テクニックには驚かされた。正直命がいくつあっても足りないような状況だったけど…お陰で、エッジ・オブ・オーシャンは近い。

蘭とは変わらず連絡が取れない。混乱状態の今、回線が混み合っているということも安易に想像出来る。
カプセルの落下地点が東京湾の埋立地になった時点で警察も手を打っているだろうし、別の避難場所へと動けているなら良いのだが…まぁその可能性は低いだろうなと目を細める。
せめてどういう状況くらいかだけでもわかれば。唇を噛んで俯いて、ふとそれが目に入ってオレは目を瞬かせた。
ジャケットのポケットの中に転がる、探偵バッジ。さっき元太達との連絡で使った後、そのままポケットにしまったのだった。

「…これが繋がれば、」

ポケットからバッジを取り出して、それの周波数をミナさんのバッジへと合わせる。それから、バッジを口元に近付けて叫んだ。

「ミナさん!ミナさん、聞こえる?!」

彼女の名前を口にした瞬間、運転席の安室さんを包む空気が張り詰めたのに気付いたけどそんなのは後回しだ。この状況をなんとか出来なければ、蘭もミナさんも危ないということに変わりはない。
スピーカーからは酷いノイズ音が聞こえている。電波の混濁だろうか。なんとか話が出来れば、と祈りながら声をかけ続ける。
頼むから応答してくれ。

『…もしもし、コナンくん?』

状況にそぐわないような、静かな声が聞こえてきて一瞬反応が遅れた。
ミナさんの声だ。

「ミナさん?!聞こえる?!」
『うん。ノイズで聞き取りづらいけど、なんとか…。ねぇ、コナンくん。さっき、すごかったねぇ』
「ミナさん…?」

のんびりとした声に違和感を覚える。
もっと焦ったり、パニックになっているのではと思っていたけど…聞こえてくる声はいつものミナさんの声そのままだ。感情の揺らぎなんて感じられない。
冷静でいるのかと思ったが、そういう様子でもない。いつも通りすぎるその声は、今の状況から考えるととても異質で、不気味に聞こえた。

『見てたよ。上空でどーんって。あれ、博士のドローンで…操縦してたの、少年探偵団の皆だよね』
「…どうして、」
『これ。このバッジから、皆の会話聞こえてたんだ。もう、無茶し過ぎだよ。でも、さすがだね』

くすりと笑う声もする。その背後からは、エレベーターに乗れないことに苛立った人達の怒鳴り声が微かに聞こえてくる。ミナさんはまだカジノタワーの中だ。ということは、十中八九蘭も。

「ミナさん、まだカジノタワーの中にいるの?皆一緒?」
『うん。エレベーターも全然動かないしね。蘭ちゃんと園子ちゃんと妃先生…それから毛利さんは今一緒に固まってる』
「ミナさんは?」
『私は今窓際にいるよ。少しでも電波が届きやすいかなと思って』

明日の天気でも語るような、そんな声音だった。隣の安室さんが舌打ちするのが聞こえる。安室さんも、ミナさんの様子がおかしいことに気付いて苛立ちを覚えたんだろう。
ミナさんと話が出来たら、いろいろと状況を聞き出せたらと思っていたのに…彼女の様子が、そういった問を拒んでいた。状況はわかった。でも、もっといろいろ言いたいこと聞きたいこともあったはずなのに、ミナさんののんびりした声を聞いていたらその全てが霧散してしまった。
だってどうして、ミナさんは。そんな諦めたような声で話すのだろう。


***


『ミナさん、諦めてるの?』

硬い声で聞いてくるコナンくんに、苦笑が浮かんだ。
探偵バッジからコナンくんの声が聞こえてきた時は驚いた。電波回線もいかれてるみたいだし、スマホを持っていたところで恐らく使い物にはならなかっただろう。バッジがこんなところでも役に立つなんて、本当にすごいなぁと感動する。
諦めているつもりはなかった。当然死にたくはないし、カプセルが直撃するかもしれないという恐怖もある。せっかく毛利一家が揃ったその日にこんなことになるなんて、という憤りもある。けれどそんな感情に身を任せられるほど、私に気力なんてなかった。皆を励ませるだけの言葉も、持ち合わせていなかった。だから、人の輪から離れて…窓際で一人でいるのが、楽だった。

「諦めてるつもりは無いよ。でも、現状は私にはどうにも出来ないから。焦っても…泣いても叫んでも、状況は…変わらないから」

私に出来ることは、エレベーターに乗れるのを待ち下に降りてカジノタワーから出て、一刻も早くこの埋立地から離れること。でもエレベーターは上手く動かないし、カジノタワーを出れたとして上手く輸送車に乗れるのだろうか。そしてこの埋立地から出るなんて、一体どれだけの時間がかかるだろう。
NAZUの予測落下地点が外れていて、カプセルは無事海に着水…なんてことになるのを願っている方が、まだマシなんじゃないかなんて考える。
状況は絶望的。じゃあこれからどうしよう。神様にでも祈ろうか。そんな思いから、私の口からはぽつりと小さな呟きが零れた。

「死にたくないなぁ」

結局透さんとも話が出来ずじまいだ。
こんなことなら、警視庁で会った時にもっとちゃんと向き合って…恐れないで、話をすれば良かった。突き放されたくなかった。でも、二度と会えなくなるよりはマシだったかもしれない。
私は、彼に自分の気持ちも伝えられないまま。

『死なせません』

バッジから聞こえてきた声に、一瞬思考が止まった。
今のは。

『必ず阻止します。あなたを死なせはしません』

透さんの声。
…そうか。コナンくん、今透さんと一緒にいるのか。
阻止だなんて、一体どうするつもりなんだろう。普通の人なら誰もが絶望するような状況だ。でも私は、彼らが諦めない人達だということを…一番近くで、見たことがあった。
東都水族館の観覧車。彼らは決して、最後の最後まで…諦めることは無かった。そして、それは奇跡を呼んだのである。

「…透さんとコナンくんが一緒なら…百人力どころか、千人力ですね」

透さんの声を聞いただけで、何故だか力が湧いてくるような気がする。
何も出来ないし状況は変わらないけど…気持ちが変わるだけで、見える景色も違ってくる。我ながらちょろいなと苦笑した。
小さく息を吸って、思いを声に乗せる。

「信じています」

疑っているから信じるのではない。
彼らに思いを託すから、信じるのだ。

バッジの通信を切って、ポケットにしまう。エレベーターの方を振り向けば、悲鳴のような…泣き声のようなものも聞こえてくる。
カジノタワーから脱出することも出来ず、皆が絶望している。毛利さんや…蘭ちゃん達の姿は、人に押されて流されてしまったのだろう。気付けば見失ってしまっていた。
窓の外へと視線を向ける。
……きっと、大丈夫。私も。蘭ちゃん達も。


─────────


「間に合うのか?」
「このビルの高さと…カジノタワーまでの距離を考えると、あと一分後にここから加速できれば」

国際会議場のすぐ側にある、建設中のビル。そのビルの業務用エレベーターで、オレと安室さんは車ごと上へと向かっていた。
カプセルの軌道をずらせる可能性があるとしたら、もうこれしか方法はない。このビルから…カプセルにボールをぶちかまして、軌道をずらす。一か八かの手段だ。けれど、これをしなければほんの少しの可能性すら消え失せる。
スマホのタイマーを一分に設定して息を飲んだ。

―頼む、間に合ってくれ!蘭…!

強く祈る。スマホを握る手にも力がこもる。
ふと視線を感じて顔を上げれば、安室さんがじっとこちらを見つめていた。なんとなく居心地が悪くて身動ぎする。

「な、なに?」
「愛の力は偉大だな」
「え」

…というか、それオレに言うのかよ。オレに言ってる場合じゃねぇだろ、この人。ミナさんと少し話した後、目の前から突っ込んでくるモノレールを避けるあの瞬間はさすがにこの人の全力を見たとしか言い様がない。すごい形相だった。背中を冷たい汗が流れたのを忘れはしないだろう。
エレベーターが止まって車は前へと進み、少し行ったところで安室さんがブレーキを踏んだ。ここから、タイマーがゼロになると同時に…一気に加速して、カプセルの軌道をずらす。タイマーは、まだ数十秒ある。
そんな時に安室さんに質問をしてしまったのは、オレの気まぐれというか…先程の意趣返しのようなものだった。

「前から聞きたかったんだけど、安室さんとミナさんって、付き合ってるの?」
「仕返しのつもりかい?残念ながら、付き合ってないよ」
「ふうん。両想いなのに?」
「そうだね」

両想いを否定さえしない。とっととくっ付いてしまえと何度思ったことか。
ミナさんが安室さんのことを好きなのは結構前に本人から聞いたし、ここ数日彼女から聞いた話や様子から見ても間違いはない。安室さん自身も、ミナさんのことを気にかけていたり彼女にだけ話し方や表情が違うから正直分かりやすかった。そもそも、この人が好きでもない女と一緒に住むはずがない。
ミナさんは真面目で、甘え下手な人だ。自分が思ったことには一直線で、それに矛盾が生まれた時に柔軟に考えを変えることが出来ずに自分を責める。自分のことよりも周りを優先して、そうして自分が疲弊し磨り減っていくことにもあまり気付いていない。さっきの会話の中で彼女がぼんやりしていたのも、きっと磨り減った結果なんだろう。ここ数日、彼女自身にもストレスは大きかっただろうし。
オレや蘭はもちろん、昴さん…というか赤井さんまでそんな彼女を気にかけるくらいなんだから…安室さんが気にしないわけもない。
…赤井さんがミナさんの恋愛相談に乗っていたのは驚きというかもはや笑い話にも近いけど。その時に彼女が零していたという言葉が脳裏を過る。
えぇと、確か。
悪も正義も理由がある、安室さんが悪だろうと正義だろうと何者だろうと関係なく、ただ彼という人間が好きだって言っていたんだっけ。
ミナさんは、心から安室さんのことが好きだ。そしてミナさんなら、安室さんのことをきっと包んであげられるんだろうと思っていた。安室さんに必要なのは、ミナさんみたいに無条件で全てを許し包んでくれる存在。…っていうのはオレの考えだけど。
まぁ何にせよ、二人が想い合っていることくらい、見ていればすぐにわかることなのだ。全く見ててもどかしいんだから。
安室さんはオレの言葉にちらりと視線を向けると、ほんの少しだけくすりと笑った。それから、ハンドルとシフトレバーをゆっくりと握り直す。

「今の僕の、恋人は」

スマホに向けていた視線を、ゆっくりと安室さんの方へと向ける。
彼の眼差しはどこまでも真っ直ぐで、強い光を湛えている。悪も、偽りも、正義も、全てを背負った人。

「彼女の生きる、この国さ」

あぁ、なるほど、と思った。思ってしまった。
安室さんが強く在れる意味。安室さんが真っ直ぐ立っていられる理由。
ミナさんと出会うまではどうだっただろう。考えたこともないからわからないが、ミナさんと出会ってから…この人は、大きく変わったのかもしれない。もちろん、良い方向に。
どこか危うい雰囲気を持っていた安室さんが少し穏やかに変わったのは、ミナさんの存在があったから。そりゃ、死ぬわけにも死なせるわけにもいかねぇよな。当然だ。
タイマーの残り秒数は、あと二十秒。

「行くよ!安室さん!!」
「一ミリでもいい、ずらせるか」
「そのつもりさ!」

強くエンジンが唸る。
緊張から手に汗が滲むのを感じながら、オレは眼鏡をかけ直す。
タイマーの残り秒数は、あと五秒。心臓が破裂しそうなくらいに激しく胸を打つ。それを誤魔化すように、大きく声を上げる。

「ゼロ!!」

諦めない。
無謀だと笑うなら笑え。やり切ればそれは、奇跡へと名前を変えるのだから。

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