蜜月 -5-

温泉から上がった俺達は、すぐに冷たい水を飲み干してしばらく畳の上にごろりと横になった。
腕の中の遙は蒼紫色の浴衣を着ている。
俺も浴衣を着てこうして畳の上に寝そべると、まるでここは異世界ではなく、俺がいた世界にいるような錯覚を覚える。

「なあ、遙」
「なあに?」

遙の髪を撫でていた指に遙の髪を絡ませ、そっと俺の方を向かせる。

「政宗様って呼んでみてくれ」

遙は驚いたように目をしばたたかせていたが、ふわりと微笑んだ。

「政宗様…お慕い申し上げております。誰よりも…」

ただ名を呼んでくれるだけで満足だったのに。
続けられた言葉にどうしようもなく胸が鷲掴みにされて、苦しいくらいに胸がときめく。
言葉にならず、俺はただ、遙をキツくキツく抱き締めた。


このまま遙を連れ去りたい。
俺のそばで生きて欲しい。
乞えばすぐにその声で『政宗様』と呼んで欲しい。


「まさ…むねっ…苦しい」

腕の中でもがく遙を一層強く抱き締める。

「我慢しろっ…今ほど…今ほど狂おしいくらいにお前を連れ去りたいと思った事はねぇっ。遙、愛してる。遙…お前を離したくねぇっ!」

遙の身体が折れてしまうのではないかというほど強くぎゅうっと抱き締め、首筋に顔を埋める。

離れてしまうと思ったら辛くて堪らなかった。
あと2週間…。
あとたったの2週間で、俺は永遠にこうして遙を抱き締める事が出来なくなる。
遙を掻き抱いた腕が震える。
他のものは望めば何でも手に入るのに。
何で…何で遙だけは手に入らねぇんだ…!!

腕の中で遙が小さく震えているのに気付き、ようやく俺は抱き締める腕の力を緩めた。
顔を覗き込むと、遙は目にいっぱい涙を溜めていた。

「私も政宗のそばで生きたい。いつでもこうして抱き締めて欲しい。政宗と離れたくないよ…」

目を閉じると、瞳に溜まっていた涙が一筋流れていった。

そうだ。
俺が気弱になってどうする。
俺は遙を泣かせたくねぇ。
ずっと俺のそばで微笑んでいて欲しいんだ。

力ずくでも…俺は遙を連れ帰る。
出来るか出来ないかなんて関係ねぇ。
俺は遙を連れ帰れると信じる。

「泣くな。悪かった。泣かせるつもりはなかった。安心しろ。俺はずっとお前のそばにいる」
「でも…」
「Stop. この話はこれで終わりだ。もうお前を不安にさせたりしねぇから」

今度は優しく抱き締める。
遙も俺の背中に腕を回して抱き着いた。
しばらくそうしてただ静かに抱き合っていると、場にそぐわないchimeが鳴った。
遙は目元を拭いながら玄関へ出て行った。
すぐに戻って来た遙は仲居と一緒だった。

「お食事をお持ち致しました」
「ああ、thanks. 辛口の冷酒をつけてくれ」
「かしこまりました」
「あの、お手伝いしましょうか?」
「いいえ、ごゆっくりなさって下さい」

所在なさげに立ちすくむ遙を俺は窓際に誘った。

「遙、こっちに来い。この部屋、南西向きなんだな」

窓の向こうに茜色に染まった夕焼け雲が細くたなびいている。
あの日、遙に想いを告げた時に見た夕焼けを思い出す。

俺は遙の手首を引き寄せ、後ろから抱き締めた。
遙はそっと俺の腕に手を重ねた。

抱き締める度に、遙の温もりで心が満たされていく。
遙の優しさそのもののような温もりが愛しくて、大切で。
俺はギュッと抱き締めると遙の首筋に顔を埋めた。
俺が感じているように、遙にもこの温もりで俺の想いが伝わればいい。
そう願いながら。

「綺麗な夕焼けだね。明日も晴れるかな。政宗と一緒に海で遊びたいな」
「晴れたらいいな」
「うん」

振り返り微笑む遙の唇に掠めるようなkissを落とす。

「それでね、明日もこうしてここで政宗と夕焼けを眺めるの。政宗に抱き締められながら」

すごく幸せだよ…。

そう言って遙ははにかんだような笑顔を見せた。

俺の想いが伝わっていたのが嬉しくて。
もう一度触れるだけの口付けを交わすと俺は遙と頬を寄せ合うようにして、茜色の夕焼けが藍に染まっていくまで飽く事なく空を眺めていた。

「綺麗なお嫁さんですね。旦那さんも凛々しくて、お似合いのご夫婦ですよ」

仲居さんは、愛想良く話しかけながら次々に食事を座卓の上に並べていった。
『夫婦』と言われるのが何だか気恥ずかしくて、照れてしまう。
政宗がさも当然だというように悠然と構えているのがおかしかくて笑ってしまった。

「遙、酌をしろ」

お酒が運ばれて来ると、政宗は私を隣りに呼んだ。
お猪口にお酒を注ぐと、ぐいとそれを呷る。
やっぱり和食の膳に日本酒が政宗には一番似合うと改めて思った。

「本当に仲がよろしいんですね。私はお邪魔をしてはいけないので、これで下がりますね。お膳は8時半頃下げに参ります。その時、お布団も敷きますからね」
「分かりました。ありがとうございます」

私が頭を下げると仲居さんは微笑みながらお辞儀をし、部屋を出て行った。

「ねぇ、政宗。これ、全部食べるの…?」

目の前には、お通し、刺身の舟盛、金目鯛丸ごと一匹の煮付け、アワビの踊り焼、茶碗蒸し、松茸の土瓶蒸し、煮物などが並んでいる。
4人は座れる座卓いっぱいいっぱいに並んだ料理に驚き言葉が出て来ない。

「まさかこんなに量が多いとは思わなかったけどな。白米を食べなきゃ酒の肴にはいいだろ。お前は好きなものだけ食べればいい」
「じゃあ、温かいものから食べようかな」

アワビに手を伸ばすと、そっと政宗が制止した。

「アワビは冷めた方が味が締まって旨いぜ。食べるなら土瓶蒸しや煮付けが先だな」

政宗は刺身をつまむと、私にお猪口を差し出した。

「そうなの?」
「ああ。俺も料理するからな」

流石政宗様だと感心してしまう。
私もお酌をすると政宗の隣りに座って一緒に刺身をつついた。
鯛や鮃、ハマチ、マグロなどが並んでいる。
刺身と松茸の土瓶蒸しと茶碗蒸しだけでお腹いっぱいになりそうだ。
金目鯛なんて絶対に無理。

「明日から量を減らしてもらおうな。だからそんな不安そうな顔すんな」

ぽんぽんと政宗が私の頭を撫でる。
私は頷き、あっさりとしたものだけ手を着けていった。

新鮮な魚介がとても美味しくて頬が緩む。
まだ旬ではない松茸も美味しい。

「お前も飲め」

政宗が徳利を差し出したので、私も少しだけ飲む事にした。

そうして二人で杯を交わしながらゆっくりと食事をする。
向かい合わせでなく、こうして政宗の温もりがそばに感じられるほど近くに寄り添っていられるのが嬉しい。

「何かこういうのいいな…」
「何が?」

呟くと、政宗が怪訝そうに首を傾げた。

「政宗の隣りでね、同じお皿の料理をつつくのが嬉しいの」

政宗はふわりと笑った。

「じゃあ明日もお前はここに座って酌をしろ」
「うん」

すっかり火の消えて冷めたアワビの踊り焼に政宗は手を伸ばした。
ナイフとフォークで切り分け、一口食べる。

「これ、醤油だけじゃねぇな。butterか?」
「そうなの?」

政宗は、お箸でアワビをつまむと私の口の前に差し出した。

「ほら、お前も食ってみろ」
「お行儀悪いってば」

本当はこうして恋人らしい食事をするのは嬉しいのに何だか恥ずかしくて素直になれない。
政宗は唇の端を吊り上げて笑った。

「そうかそうか。お前は口移しの方がいいか」
「ヤダヤダっ!食べるから!」

差し出されたアワビにパクつくと政宗は嬉しそうに笑った。

「殿様なのに信じられない」
「Hey. 口答えすると口移しにするぞ」
「ごめんなさい」

慌てて謝ると、政宗は嬉しそうに笑う。

「どうだ?」
「うん、これはバターだね。アワビは生でしか食べた事ないから何だか新しい味だよ。美味しいね」

アワビの旨味とバターのこくが絶妙にマッチしている。

「そうか、気に入ったか。ほら、あーん」
「…政宗、恥ずかしくないの?」
「そう言われると恥ずかしくなるから突っ込むな」

少し頬を染めて政宗が視線を彷徨わせる。
その様子が可愛らしくて思わず笑ってしまった。
政宗は拗ねたような表情になった。

「じゃあもうやらねぇ」

ふいと視線を逸らして自分の口に運ぼうとする政宗の手首を捉えた。

「ゴメン…。本当は嬉しいんだけど、何だか恥ずかしくて…。二人きりの時だけだからね?」

消え入りそうな声で呟いて俯くと、政宗にくいと顎を持ち上げられた。
キスされる、と思って目を伏せると、唇の先に硬いものが当たり、すぐに政宗の柔らかい唇でそれが口内に押し込まれた。
ふわりとアワビの香りがする。

「ま、政宗!?」

思わず口を押さえて目を丸くすると、政宗はくつくつと笑った。

「口答えしたら口移しにするぞって言っただろ?」

悪戯っぽく笑う政宗に呆れる。
もう政宗には逆らわないでおこう。
政宗の箸からものを食べるくらいは何とかなっても、口移しで食事して、政宗が止まる訳がない。
食事中にそんなのは御免だ。

「ごめんなさい。もうしません」

打ちひしがれてもう一度謝ると、政宗は機嫌良さそうに笑ってお酒を呷った。


しばらくお酒を酌み交わしながらゆっくりと食事を続けると、段々とお腹がいっぱいになって来た。
あれだけあったように見えた料理も、政宗が時間をかけて平らげていって、案外丁度いい量だったのかもと思い直す。

唐突に破裂音が外から聞こえて来て窓の方を私は振り向いた。
丁度光の余韻を残しながら花火が消えていった所だった。

「花火だ!」

思わず箸を止めてじっと窓の外を見つめると、政宗が忍び笑いを漏らした。

「見たいんだろ?行って来いよ」
「でも…」

独りで眺めるのは寂しい。
そう思って政宗を見つめると、政宗はそっと私の頭を撫でた。

「安心しろ。俺も行くから」

政宗は徳利の中のお酒を湯飲みに移し替えると、私の手を引き窓辺に行った。
窓の前に向かい合わせになっている椅子を一脚除けて、残った椅子を窓の前に置く。
その脇にテーブルを置くと、政宗は椅子に座り、膝の上に横抱きに私を抱いた。
ほろ酔い気分で政宗の膝の上に抱かれるのは心地良い。
政宗に身体を預けて打ち上げられる花火を見つめる。
窓枠がまるで額縁になったように、夜空のキャンバスに花火が描かれては消えていく。

隅田川の花火ほど華美でも趣向が凝らされている訳でもない。
あの時は、こうして政宗と寄り添って、その温もりから愛を感じるような関係ではなかった。
それに、危うく政宗とはぐれてしまう所だった。
何の心配もなく、こうして腕の中で幸せだけをかみ締めて、二人で夜空を眺める事が出来る。

政宗はお酒をちびちびと呑みながら、時折私のこめかみや頬にキスを落とす。
身体がふわふわとした感覚に包まれ、目の前で鮮やかに咲いては散っていく花火はまどろみの中で見る夢のように幻想的だった。

「綺麗…」
「ああ、そうだな。でも、花火よりも、こうして甘く蕩けたお前の表情の方が綺麗だ」

政宗はテーブルに湯飲みを置くと、私の頬に手を添え、そっと唇を重ねた。
うっすらと開けた視界の端で花火が爆ぜ、キラキラと余韻を残しながら消えていく。
目を開ければ、間近で愛しげに微笑みかける政宗の端整な顔立ちと、視界の端で煌めく花火で視界が埋め尽くされる。
これ以上はないと言うくらい、幸せで美しい光景だった。

私達は一緒に花火を眺めては、時折触れるだけの優しいキスを交わした。

きっとこんなにも満たされる花火大会なんてこの先ないだろう。
私達は惜しむように花火を見つめては抱き合い、唇を重ね、愛を囁いた。

やがて、花火は間髪を入れず次々と打ち上げられ始めた。
もうすぐこの夢のような時間は終わってしまう。
私は政宗に抱き着いたまま、じっと夜空を見つめた。
政宗もまた、ちびちびとお酒を呑みながら、言葉もなく夜空を見つめている。
夜空を埋め尽くすように一際鮮やかに花火が咲くと儚い余韻を残しながら、光の華は名残惜しげに消えて行った。

「終わっちゃった…」
「そうだな…」

あの花火のように、もうすぐ私の恋も鮮やかに儚く散っていく。
そう思うと無性に哀しくなって私は政宗の肩に頬を寄せた。
政宗は私の想いに気付いているのか何も言わず、ただそっと抱き寄せ、ゆっくりと私の髪を梳いていてくれた。
この甘く優しい時がもう少しだけ長く続いて欲しい。
そんな想いで政宗の温もりに浸っていた。

「お食事を下げに参りました」

仲居さんの声が聞こえて、政宗の肩越しに座敷を見ると、仲居さんは私と目が合い頬を染めた。
そしてにっこりと笑う。

「そのままで結構ですよ。片付けたらお布団を用意しますから」

手早く座卓の上を片付け始める仲居さんから視線を外し、また政宗の身体に寄り添う。
夢見心地の時間の余韻からふわりと睡魔が訪れ、私はあくびをかみ殺した。

「眠いか?」
「うん。政宗の身体が温かくて幸せで…このまま寝たいな」
「いいぜ、このまま寝ても。布団が用意されたらそこで寝かせてやるから」

ゆっくりと触れるだけの口付けが、額に、瞼に、頬に落とされるのが心地よくて、やがて私の意識は闇に閉ざされていった。



ゆらゆらと身体が揺らされる夢を見た。
揺籠のようなのに、温かい。
やがてそれが止まると、私はどこかに下ろされ、全身がすっぽりと温もりに包まれた。
微かに光を感じ、目を開けると政宗の綺麗な鎖骨が目の前に見えた。
目を擦ると政宗は忍び笑いを漏らし、私の手を取って指先を絡めた。

「起きたか?」
「うん。もう朝?」
「いや、お前が寝てたのは15分程度だ。起こしちまったな、悪ぃ」

私はふるふると首を横に振った。

「丁度目が覚めたから」
「そうか…」

政宗はゆっくりと私の髪を梳く。

「これが俺達の初夜になるんだな…」

今まで何度も肌を重ねて来たけど、新婚旅行という事を考えるとこれが初夜になる。
政宗はそっと私を抱き締めた。

「初めてお前を抱いた時と同じくらい、胸がドキドキしている。聞こえるか?」

政宗は私の頬を胸に押し当てた。
力強い鼓動が肌越しに伝わって来る。
こくりと頷くと、またゆっくりと髪を梳きながら政宗は言葉を続けた。

「俺の夢物語を聞いてくれ…。俺は幼い頃に母上の愛情を失い、随分歪んだまま成長した。小十郎のお陰で大分まともになったが、女に関しては信じられねぇままだった。お前に出会うまでは」

政宗は私を上向かせるとそっと唇を重ねた。

「俺が素直になれるのはお前の前だけだ。お前とこうして結ばれて、子が出来たら…」
「政宗…」

咎めるように見つめると、政宗は淋しそうに笑った。

「これは夢物語だ。だから黙って聞いてくれ」

私の後頭部を撫でると再び政宗の胸にそっと押し当てる。

「お前と子を成したら、例えどんな事があっても慈しんで欲しい。乳母に任せなくても構わねぇ。お前と俺で一緒に育てて。一緒に遊んだり、手習いをしたり、書を読み、楽や舞で遊んで。決して淋しい思いはさせねぇ。そんな風に育てたいんだ。俺の世継ぎがそんな環境で育つ事に周りが反対するのなんて分かっている。だから、これは俺の勝手な夢だ」

政宗はこちらの世界に来て、思う事がたくさんあったのだろう。
戦国の大名のお世継ぎとなれば、そんな生温い養育など許されない。
でも、私と同じように感じている政宗の想いが嬉しかった。
もし、政宗との子が出来たらそんな風に育てたい。

「そんな風に一緒に子どもを育てられたら幸せだね」

政宗を見上げると、フッと微笑み私の頬を撫でた。

「お前ならそう言ってくれると思った。……お前を抱いても子が出来ないのは分かっているけど…。それでも、俺の世継ぎを作るつもりで今夜はお前を抱きたい…。夢をもう少しだけ見させてくれ」

政宗は私の頬にあてがっていた手を滑らせ、浴衣の合わせに手をかけた。

「いいよ。私ももう少し、政宗と同じ夢を見ていたいから」
「遙、愛してる。俺の大切な、この世で一番大切な、俺だけの姫…」

政宗は私の浴衣を肌蹴ながら覆い被さり、いつもより時間をかけて、何度も愛を囁きながら、切なくなる程に優しく私を抱いた。

その夜、私達は初めて夫婦として結ばれた。


(夢物語と言ったけど、俺に取っては夢物語なんかじゃなかったんだ。俺はお前を絶対に離さねぇ。必ず…。必ずお前を連れ帰るから…)



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