それまで柔らかく微笑んでいた遙が、表情を強張らせて小さく震えながら携帯電話を握り締めているので、心配になった。
「政宗…。どうしよう…」
遙は言葉を探すように何度か口を開きかけたが、言葉にならず、ただ静かに涙を一筋零した。
電話で何かあったに違いないと思うのに、それが一体何なのか皆目見当もつかない。
遙を泣かせる奴は絶対に許さない。
「誰だったんだ?お前を泣かせる奴は絶対に許さねぇ」
低い声で凄むと、遙は違うというように首を横にふるふると振る。
「違うの、誰も悪くないの。誰もっ…!でも、でもっ…」
遙は俺の背中に腕を回して抱き付き、胸に顔を埋めて静かに泣いた。
何故遙がこんなに哀しんでいるのか分からない。
原因さえ分かればと思うのに、それを聞き出せないほどに遙は取り乱していた。
乗るはずだった電車は通り過ぎ、人気のないホームで遙と二人抱き合う。
その哀しみを取り除いてやりたくて、あやすように背中や髪を撫でてやっても遙の瞳からはまた新たな涙が零れ落ち、俺の胸元を濡らしていくだけだった。
俺の心の中にも不安が広がっていく。
泣き虫だけど、冷静で頭の良い遙。
二人擦れ違っても、最後は言葉を尽くして分かり合い、そして愛を深めてきた。
遙はいつだって言葉を尽くして自分の気持ちを伝えて来た。
それが、出来ない…。
言葉に出来ないほどの悲しみ。
たった一つだけ思い当たる事があった。
それは……。
俺達の別れ……。
嘘だ。
違うんだろう?
いつもみたいに別れを思い描いて哀しくなっているだけだろう?
大丈夫だ。
俺はここにいる。
まだ傍にいるから。
だから泣くんじゃねぇ。
そう言葉にしたかったのに、まるで喉の奥に何かが貼りついたように言葉が出てこない。
やがて、遙はしゃくりあげながら、囁くように俺に告げた。
「PS2が…。政宗の世界に繋がっている機械が直ったって連絡が入ったの…。政宗は…政宗は、もう帰れるんだよ…」
台詞の最後は微かに聞こえるほどの囁きだった。
でも…。
その内容は胸を凍りつかせるほどに衝撃的で。
泣き崩れる遙を俺は茫然と抱き締めることしか出来なかった。
これが最初で最後の逃避行になるなんて思ってもみなかった。
遙との婚儀は、俺のけじめであり、夢であり、そしてこれからの二人の生活の象徴になるものだと思っていた。
別れなんてもう少し後のことだと思っていた。
それが…。
たったの5日間。
遙を俺の妻として愛する事が出来たのがたったの5日間になるなんて。
遙は俺の温もりを求めるように縋りつき、声を殺して泣いている。
さっき、遙を泣かせる奴は許さないと言ったが、今、遙を泣かせているのは俺達の別れ。
いや……多分、消えてしまう俺自身なんだろう。
いずれ消えてしまう身で愛してしまった。
想いを殺そうと思ったこともあった。
遙を泣かせたくなかったから。
でも、殺すにはこの想いは熱過ぎて、切な過ぎて。
愛してはならない身で遙を愛してしまった。
遙は誰も悪くないと言ったが、俺が想いを打ち明けさえしなければ遙をこうして泣かせることはなかった。
遙の身にも心にも深く俺自身を刻み込み、縛り付けてしまった俺が全て悪い。
「悪ぃ。全部俺のせいだ。俺がお前を縛り付けたから…。泣かせたくなかったのに…!」
「違うよ。政宗が悪いんじゃない。私、後悔してないからっ。政宗に愛されてっ…とてもっ…すっごく…幸せだったからっ。ひっく…今だって、幸せなんだからっ。言葉に出来ないくらい、すっごく。でも、でもっ……離れたくないっ…」
遙は一層顔を俺の胸元に埋めて泣きじゃくった。
遙の切ない願いに抱き締める腕が小さく震える。
その時…。
いっそ帰らなければいいんじゃないかと思った。
俺のいた世界は時間が止まったまま。
それならば、俺の気の済むまでここにいればいい。
あの戦場に向かう途中の小十郎や成実の止まったままの姿が脳裏に思い浮かぶ。
あいつらはあのまま動くことなく、こちらの世界では時が流れていく。
すまないとは思うが、それでも遙をこのまま置いていくわけにはいかなかった。
泣かせたままでなんて放っておけない。
「遙…俺…このまま帰るの止めちまおうかと思う」
思いつきで言ったわけではない。
ずっと頭の片隅で考えていたこと。
それでも言葉にするには勇気が要って。
それは俺のidentityを否定することだから。
あいつらを見捨てることになるから。
だから、口にした言葉は驚くほど弱々しく、そして掠れていた。
「え…?」
遙は虚を突かれたように俺をぼんやりと見上げたが、すぐにまた涙が盛り上がり、すべらかな肌の上を伝っていく。
遙は俯き頭を横に小さく振った。
何度も、何度も。
「ダメ、それはダメ」
「Why?」
俺だって生半可な覚悟で口にした言葉ではない。
全身で拒絶されて血の気がすうっと引いていく。
「政宗は、小十郎や成実を見捨てるの?自分の世界を…政宗自身を捨てられるの?ダメ。そんなのダメ」
一番痛いところを突かれて、呼吸が一瞬止まった。
いくら覚悟を決めていても、こうして言葉にされると不安が募る。
それに、自分の人生をそう簡単に捨てられる奴なんていないだろう。
でも、遙をこのまま置いていくわけにはいかなかった。
「お前をこのまま放っておけるわけねぇだろ?」
「私の事はいいの!政宗が…政宗が…」
「俺のことはいい」
「良くない!良くないよ!!政宗は分かってない!」
遙は涙に濡れた顔を上げると少し怒ったような表情で俺を睨み付けた。
遙にこうして本気で睨まれたことなどほとんどないので、胸がズキリと痛む。
遙は何かを堪えるように唇を震わせ、新たな涙を流しながら途切れ途切れに話し始めた。
「この生活は長くは続かないの。もうすぐ私の大学が始まっちゃう。そうしたら、政宗と一緒に過ごせなくなる。しばらく一緒に住むことは出来るかも知れない。だけど…だけど…一生一緒にはいられないの。私は医者と…結婚しないといけない…から…」
遙は辛そうに、また俺の胸元に顔を埋めてしゃくりあげた。
「この世界じゃ政宗には何の後ろ盾もない。医学部にいるわけでもない。このままずっと一緒にいたら、いずれは別れなきゃいけないの。それだったら、私、政宗には政宗の世界で幸せになって欲しい。天下取って欲しい。向こうの世界では政宗を待っている人、たくさんいるよ?私なんかのためにここに残らないで」
遙の一言一言がナイフで胸を抉るように胸に響く。
「私なんかのために」なんて言うな。
お前だから全てを捨ててもいいって思えるんだ。
でも…。
いくらあがいてもその先にあるのが別れで、遙が他の男に嫁ぐのを指を咥えて見ている事しか出来ないのなら、そんな未来、いらなかった。
何も言葉が出てこない。
俺達の未来にあるのは、『別れ』だけ。
その事実が酷く俺を打ちのめした。
「泣いたりしてゴメンね。帰りに機械を受け取ってから帰ろう」
遙は涙を浮かべたまま、無理に笑った。
そんな遙を見ているのは辛いのに、俺は何も出来なかった。
何の慰めの言葉もかけられなかった。
遙は俺よりもきっと、別れの事を真剣に考えて、理解している。
それでも尚、俺を愛して受け入れてくれた。
あの鐘の前で想いを告げる決心をしてくれた。
今更ながらに遙の覚悟を思い知らされて、ただただ胸が苦しく痛かった。
しおりを挟む
top