カムフラージュ -3-

所長も所員も帰ってしまった事務所で、私は彼のこと、そして小十郎のことを思いぼんやりとしていた。
こんな上の空で緻密な事務作業などすることが出来ないから、何となくデスクの周りを片付けていると、事務所のドアが開いた。
ハッと顔を上げると、そこには黒いスラックスに黒いシャツを着た小十郎が立っていた。

「悪ぃ。待たせたな。顔色が悪いな。大丈夫か?」

私に近づくと、小十郎はいつものようにくしゃりと私の頭を撫でてくれた。
それだけで、どん底まで落ち込んでいた気持ちがふわりと楽になる。
私は頷いたが、安堵と彼に裏切られた悲しさからじわりと目頭が熱くなって、俯いた。
小十郎が溜息を吐く。

「やっぱり大丈夫じゃないじゃねぇか。出るぞ」

小十郎は私のバッグを肩にかけると、私の肩を抱いて歩き出した。
それは私を慰める時の小十郎の癖なのだけれど。
どうしようもなくときめいて期待してしまう。
その仕草は……。
小十郎も……。
小十郎も私と同じ気持ちなの?
いつもそう。
彼氏のことで悲しくて仕方がないのに、いつの間にか小十郎への思いが溢れ出す。
でも、それが告げられなくてこんなに切ない。

私は事務所の戸締りをして、小十郎にいざなわれるまま小十郎の車に乗り込んだ。

小十郎の端正な横顔が街のネオンに照らされている。
私はその横顔に見蕩れた。
またいつもの店に行くのかな、と思ったら、道を外れていく。
繁華街の外れにあるビルの駐車場に小十郎は車を停めた。

「小十郎…。ここ、どこ?」
「俺の住んでいるマンションだ。前に引っ越したって言っただろう?お前ぇは来たことなかったな」
「え…。でも…」

よっぽどのことがない限り部屋には上げないんじゃなかったの?
私が小十郎を見上げると、小十郎はニヤリと笑った。

「今日は特別だ。降りるぞ」

私達は車を降り、マンションの中に入っていった。
入り口はオートロックで、床は大理石だろうか。
これはいわゆる高級マンション?
小十郎に促されてエレベーターに乗り込む。
この狭い空間の密室に二人きり。
その事にどうしようもなくときめいて緊張してしまう。
車の密室はいつものことで慣れていたから大丈夫だったけど。
これから小十郎の部屋に向かうということがまるで夢のようだった。
小十郎の部屋に行くのは、大学のあの日以来だ。

エレベーターが止まると、小十郎は私の肩を抱いて真っ直ぐに部屋に向かい鍵を開けた。
廊下を抜けると広いリビングがあり、その一角のキッチンは対面式カウンターだった。
ダイニングテーブルは置かず、カウンターチェアが2脚置いてある。
リビングにはガラスのテーブルと人一人横たわれそうな大きなソファがあった。

「適当に座ってろ。今、コーヒーを淹れてやる」

小十郎は夜遅くても仕事の後、必ずコーヒーを飲む。
私は柔らかいソファに身を沈めた。
やがて、コーヒーの香ばしい香りが部屋を満たしていった。
その香りにすこし緊張が解れる。
小十郎が私の隣に座り煙草に火を点けた。
そして、ゆっくりと煙を深く吸い込んで吐き出すと、小十郎は私の顔をじっと見つめた。

「何があった?」

数時間前、見た光景を思い出す。
部屋の外から微かに聞こえる車の騒音が、鮮やかに記憶を蘇らせる。

「浮気現場、目撃しちゃった……」
「そうか……。確実に黒なのか?」
「うん。…だと思う。女の人と仲良さそうに腕組んで歩いてて、頬にキスしてて、目が合ったら逸らされた」

あの時感じた血の気の引く思いが蘇ってきて、私は睫を震わせた。
小十郎がくしゃりと頭を撫でてくれる。
また心がふわりと軽くなる。
あんなに彼氏のことで悲しかったのに、悔しかったのに。
小十郎はいつも優しい。
でも、こんな二人きりの部屋で優しくされたら、それだけじゃ物足りなくて。
本当のことを打ち明けたくなる。
ずっと小十郎のことが好きだったと。

「だったら別れろ」
「え?」

私は驚いて小十郎を見上げた。
今までだったら。
ただ私の言いたい事、吐き出したい事をじっと聞いていてくれていただけだったのに。
こんなにはっきり言うなんて。
初めてのことだ。

「黒だろうが白だろうが、お前ぇの男がどう言い訳したって、お前ぇはもう信じられねぇだろう?なら、もう終わりだ」

小十郎は私から視線を外すと、また深く煙を吸い込んでゆっくりと吐き出した。


小十郎の言葉がぐるぐると頭の中を回る。
もう、終わり……なの?
私は彼を信じられない……?

小十郎は灰皿で煙草の火を揉み消すと、また私をじっと見つめた。

「そもそも、そんな現場を目撃しちまった後でもあいつを信じられるくらいお前ぇはあいつのことが好きなのか?」

小十郎の瞳が鋭さを帯びて。
私は射すくめられたような感覚に陥った。

私は、彼が好き……?
違う。
そうじゃない。
私が好きなのは。
私が好きなのは……。

ソファについた私の手に小十郎の手が重ねられた。
今まで手など触れられたこともないので、ドクンと心臓が跳ねた。
重ねられた大きな手が私の手を握る。

「どうなんだ、平塚?まだあいつのことが好きなのか?」

小十郎の視線は熱っぽく吸い込まれそうだ。
握られた手の温もりから小十郎の思いが伝わってくるようで。

小十郎も私と同じ思いなの?
信じてもいいの?
もう、溢れる思いを止めることは出来なかった。

「ちが……。私が好きなのは……」

私が掠れた声で呟くと、言い終わらないうちに後頭部に手を宛がわれ、小十郎の端正な顔が近づき深く唇を重ねられた。
背中に腕が回され、きつく抱き締められる。
息も吐かせぬほどの情熱的な口付けに、身体が痺れたようになる。
甘い陶酔感に心が満たされていった。

かき抱く逞しい腕の力強さから、温かな唇から小十郎の思いが伝わってくる。
信じられないほどの幸福感に胸が締め付けられて、我を見失ってしまいそうだった。

長い長い口付けの後、ようやく唇を離した小十郎が、吐息のかかる距離で囁いた。

「ずっとこの時を待っていたぜ…。紗夜歌、お前ぇが好きだ。もう誰にも渡さねぇ」

初めて呼ばれた名前。
ずっと欲しかった言葉。
胸が熱くなる。
でも、何故?
小十郎には彼女がいたんじゃなかったの?

「小十郎…?彼女は?」
「もう別れた。ずっとずっとお前ぇのことが好きだった。だがお前ぇにはいつも男がいたからな。何度も諦めた。親友のポジションでずっと一緒にいられるならそれでもいいと思った。だが諦めきれなかった。女と別れた時、今度こそお前ぇを奪いに行くつもりだった」
「そんなっ!!私だって小十郎のことがずっと好きだった……!!私も何度も何度も諦めて……」
「紗夜歌っ!!」

小十郎は私をかき抱き、また深く口付ける。
そして、今度はゆっくりと私を押し倒していった。
柔らかいソファに身体が沈みこむ。
のしかかる小十郎の体重が心地よい。
甘い束縛。
このまま抱き締めてそして離さないで。

何度も何度も角度を変えて口付けられた後、ようやく唇が離れた。

「今夜はお前ぇを帰さねぇ。覚悟はいいな?」

私は答えの代わりに小十郎の首に両腕を回した。

初めて気付いた。
小十郎が私に優しかったのは。
私と同じ思いだったから。
ずっと近くにいてくれたのに。
欺いてきた私を許して……。

好き…。
ううん、愛してる……。


Fin…
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