同じ敷地内にあるのに、大学病院に来るのは初めてだった。
きっと小十郎がいなかったら右も左も分らなかったに違いない。
壁に背中を預けて、長椅子の上でぐったりとしていると、小十郎が隣りにやって来て腰を下ろし、私の手を握ってくれた。
「運良く知り合いが当直だったから診てくれるはずだぜ。あんまり会いたくなかったけどな」
「そうなの?じゃあ、その人じゃなくてもいいのに」
「いや、腕は確かだし、あいつの処方は普通の医者より治りが早い」
ゴホゴホと咳込むと、小十郎が背中を擦ってくれる。
外に出たせいか、一層頭がくらくらとして怠い。
そのまま小十郎の肩を借りるようにもたれ掛かると、小十郎は一瞬身体を強張らせ、そして躊躇いがちに私の肩を抱き寄せた。
コートを来ているから温もりは伝わらないはずなのに、何だか小十郎の温もりに包まれているような気がして安心する。
幸せな気分になってうつらうつらとしていると、誰かがコツコツと靴音を響かせながら廊下を歩いて来た。
ふと顔を上げると、白衣を靡かせて歩いて来るのは光秀さんだった。
「おやおや。急患というのは政宗君だとばかり思っておりましたが貴女でしたか。お久し振りです」
光秀さんは相変わらずな妖艶な笑みを口許に浮かべた。
「あれ?光秀さん?小十郎が言ってた知り合いのドクターって光秀さんだったの?」
私は中学生の頃からよく小十郎の大学に遊びに来ていた。
遊びというより、勉強を教えてもらいに来ていたのだけれど、小十郎の授業中によく相手をしてくれていたのが光秀さんだった。
私は小十郎の背中を追いかけ、同じ大学に入学した。
小十郎と光秀さんは私の先輩に当たる。
「その様子では片倉君も遂に想いを遂げたようですね。何よりです」
「テメェ、余計な事言うんじゃねぇっ!さっさと仕事しやがれ!」
「おお、怖い怖い。この借りは高くつきますよ?口止めも含めて」
口止めって何の事だろう?
ぼんやりと小十郎と光秀さんを交互に見上げる。
「覚悟の上だ」
小十郎が苦り切った様子で答えると、光秀さんは満足そうに艶然と笑った。
「ではこちらへ。一応インフルエンザの検査もしておきましょう」
私は小十郎に支えられながら病室に入った。
一通り問診が終わり、鼻の粘膜を採取されて検査結果を待つ。
「それにしても、貴女が私と片倉君の後輩とは知りませんでした」
「テメェは余計な事は言わずに仕事しやがれ。医者って忙しいもんだろ?」
「いいじゃないですか、今日は空いていますし。私をわざわざ呼んだのですからそれ相応の覚悟はあるはずですよねぇ、片倉君」
光秀さんが揶揄するように笑うと、小十郎は舌打ちをして目を逸した。
光秀さんは、白衣のポケットからメモを取り出すと、さらさらと何かを書いて私のコートのポケットに入れた。
「私のPHSの番号とアドレスを書いておきました。学食ばかりだと飽きるでしょう?病院の最上階に美味しいお店があるんです。今度ご馳走しますよ。だから、必ず連絡下さいね」
「わあ、ありがとうございます!」
「お前ぇ、行くんじゃねぇぞ。飯くらい俺が連れて行ってやる」
喜んだのも束の間、小十郎に低い声で釘を刺される。
光秀さんはわざとらしく眉を顰めた。
「おやおや。付き合ってもいないのに貴方に言われる筋合いはありませんねぇ。それとも今彼女にバラしましょうか?」
小十郎が言葉に詰まる。
「……一度だけだからな」
「ええ、十分ですとも。『お兄さん』の許可も取れた事ですし、楽しいデートをしましょうね」
「えっ?」
「テメェっ!ふざけるな!」
「おっと、検査結果が出る頃ですね。一旦失礼致しますね」
光秀さんは楽しそうに笑いながら衝立の向こうに消えて行った。
小十郎は光秀さんが消えて行った跡をぎりりと睨み付けている。
「小十郎、怒ってるの?断った方が良かった?」
私の記憶している限りでは、光秀さんがこうして小十郎をおちょくる事があっても二人の仲は良かった。
あの頃は、小十郎がいない間に光秀さんに奢ってもらう事もあったから今更の事なのに。
不思議に思って小十郎を見上げると、小十郎は渋り切った様子で私の頭を撫でた。
「お前ぇに怒ってる訳じゃねぇよ。いずれ分かる。…多分な」
『多分な』と言った時、小十郎の瞳が一瞬切なげに揺れた。
いずれ分かるって何がだろう。
小十郎がそこまでして隠したい事って何だろう?
でも、あれほどかたくなに小十郎が隠すのだから私は聞けなかった。
もしあの時聞いていれば、私達の未来は変わっていたのに、当時の私は知るよしもなかった。
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