きょろきょろと辺りを見回す。
小十郎はまだ来ていないようだ。
私は、空いている席に着くと、ノートパソコンを立ち上げて、配色デザインの本を広げながら、スライドをいじった。
どうすれば、魅力的なスライドになるか。
文字の大きさや、アニメーションや、配色を戯れにいじる。
「北川、社外の公共の場で、機密文書を広げるなと言ったはずだが?」
振り返ると、毛利主任が眉間に皺を寄せて、私の後ろに立っていた。
「あ、毛利主任、お疲れ様です。これは、会社のプレゼンの資料じゃありませんよ。私の大学時代のプレゼンのスライドです」
「ほう…」
毛利主任は、私の肩越しに、ノートパソコンを覗き込んだ。
そして、スライドを順に見ていく。
背後から覆いかぶさるようにパソコンを操作する毛利主任の温もりを近くに感じてドキリとする。
「よく出来ているではないか」
「ありがとうございます。もう使わないスライドだって分かっているんですけど、配色を変えたり、構成を変えたり。どうしたら見やすいスライドになるか、研究しているんです。仕事で使うスライドのための勉強になりますから。いくつかパターンを作って、印象がどう変わるか比較してみたりするんです」
「そなたは仕事熱心だな」
毛利主任は、私の前の席に座り、ふわりと微笑んだ。
いつも厳しい無表情の顔しか向けられていないから、なんだかくすぐったい。
「疲れているのであろう?そんなに根を詰めなくともよい。そなたは十分に働いている。せっかく早く上がれたのだから、今日はゆっくりと休むがよい」
「そうなんですけど。なかなか仕事のことが頭から離れなくて」
「それは、上司としては喜ばしいことではあるが、休息は肝心だ。我もそなたに期待している。大事な時期に倒れられては困る」
「はい……」
私が視線を落として頷くと、くすりと笑う気配がした。
「別に叱っている訳ではない。そのような顔をするな。仕事から離れられないというのであれば、これから気分転換に付き合ってもよい」
「え?あの……」
上司の誘いを断るのは、何だかとても気が引けて。
まずい展開になったな、と思う。
「そなたには借りがあるからな。チョコレートの礼だと思えばよい。一ヶ月も借りを作ったままというのは我の性に合わぬ」
「あの、そんなに気になさらないで下さい。いつもお世話になっていますから」
慌てて言うが、毛利主任はコートを手に取り、すでに立ち上がっている。
まずい、まずい!!
小十郎と待ち合わせをしているのに。
会社から離れたところで待ち合わせたらよかった。
このままでは、政宗のチョコレートを準備することなど出来ない。
「あ!毛利主任!これから飲みですか?俺も混ぜてもらえると嬉しいな〜、なんて」
振り返ると、にっこりと微笑んだ猿飛君がいた。
助けを求めるように見上げても、猿飛君は笑顔を崩さない。
今日、用事があるって言ったのにな。
「仄香ちゃんがいれば、寂しいバレンタインにならなくて済むからね。ね、毛利主任?」
「うるさい。黙れ」
毛利主任は薄っすらと頬を染めて、視線を外した。
どうしよう。
何だか、このまま飲みに行くこと決定みたいな空気なんだけど。
『俺と仕事、どっちが大事なんだ……?』
政宗の言葉が蘇る。
仕事も大事だけど……。
年に一度しかないこの日だから。
だから……。
せめて今日くらいは、政宗といたい……。
政宗と、小十郎と。
温かい部屋で、のんびりくつろぎながら。
チョコを食べて、紅茶を飲んで。
楽しく過ごしたい。
でも、そんなことで、上司と同僚の誘いを断れなくて。
会社の人にプライベートなことを話したくなくて。
私は苦し紛れに言い訳をした。
「あの!!今日、遅刻しそうになって…。駅まで自転車で来られなかったから、今朝、会社まで送ってもらったんです。それで、帰りも、危ないから迎えに来てもらうことになってるんです。だから……今、人を待ってるんです」
人を待ってるのは事実。
帰りが危ないというのも事実。
私は、二人が諦めてくれることを祈った。
毛利主任と猿飛君は、一瞬動きを止めた後、くすりと笑った。
「大丈夫だよ♪ 駅から危なかったら俺が責任持って送ってあげるからさ」
「心配は無用だ。我の自宅はそなたと同じ方面ゆえ、タクシーで一緒に帰ればよい」
「毛利主任、それ、ずるいってば」
「部下を危ない目に合わせるわけにはいかぬ」
帰りの算段までされてしまって。
断りにくい雰囲気でいっぱいだ。
ああ。
私はこうして、仕事漬けになって。
プライベートな時間がなくなっていって。
そうして、政宗とも疎遠になっていくのかな。
そう思うと、どうしようもなく寂しい。
「悪ぃ。待たせたな」
ずっと焦がれていた低い声がすぐ後ろからして。
肩にぽんと手を置かれた。
「小十郎!!」
私は勢いよく振り向いた。
思わずホッとして、嬉しくて、小十郎に抱きつきたい衝動に駆られるが、それをぐっと堪えた。
流石に、毛利主任と猿飛君の前で抱きつくわけにはいかない。
小十郎は、すまなそうに、私の頭を撫でる。
「少し寄るところがあってな。待たせて悪かった」
「ううん、大丈夫。そんなに待っていないから」
私は、毛利主任と猿飛君を振り返り、頭を下げた。
「お迎えが来たので、申し訳ないんですけれど、今日は帰りますね。また誘って下さい」
「彼氏さん?」
呆気に取られたように私達を眺めていた猿飛君がようやく我に返り、私にたずねた。
「彼氏さんじゃないんですけど、家族みたいに大切な人ですよ。せっかくお迎えに来てくれたので、今日はお暇します。では、失礼します」
もう一度、深々と頭を下げて顔を上げると、小十郎が私のビジネスバッグを持ってくれた。
「行くぞ」
「うん」
毛利主任と猿飛君の視線が背中に突き刺さるのを感じながら、少し前を歩く小十郎の後ろを、私は小走りに追いかけた。
会社から少し離れて、小十郎は指を絡ませるようにして、私の手を握った。
「飲み会に連れて行かれるところだったのか?」
「うん。別の場所で待ち合わせればよかったね。あそこの喫茶室、うちの会社の人、よく使うから」
「そうだな。すまなかった。お前ぇを寒い中歩かせたくなくてあそこにしたが、裏目に出たか」
渋りきった小十郎の声に思わず笑みが零れる。
「ううん。小十郎が私のことを気遣ってくれたのはわかってるから」
「それにしても、やっぱり、お前ぇ、うちの会社に就職した方がよかったんじゃねぇか?危なっかしくて見てられねぇ」
小十郎が私をちらりと見下ろす。
小十郎は、戦前から名を馳せている、旧財閥、伊達コンツェルンの若き重役だ。
今の総帥は政宗のお父さんだけど、政宗が大学を卒業したら、跡を継ぐことになっている。
「それはちょっと…。だって、私が小十郎の会社に就職したら、何かにつけて、小十郎は目をかけてくれると思うから。他の社員さんに嫉妬されちゃうよ」
そう言うと、小十郎は苦笑いをした。
「確かにな。お前ぇから目を離せなくなってただろうな」
「それに、私、自分の実力でちゃんとやっていきたいし…」
伊達グループに就職することは、小十郎と政宗のコネできっと何とかなったと思うけれど。
そこでは、自分の実力が評価されないような気がして。
きっと政宗と小十郎の七光りだと陰口を叩かれそうで。
それが嫌だった。
小十郎はフッと笑った。
「お前ぇの実力はこの俺が一番よく分かっている。お前ぇにノウハウを叩き込んだのはこの俺だからな」
幼い頃から、小十郎に褒められたくて。
私は、小十郎の背中を追いかけて育った。
きちんと難しい問題を解けたり、作文で入賞したりすると、小十郎は、いつも頭を優しく撫でて褒めてくれた。
中学に受かった時も。
大学に受かった時も。
小十郎はいつだって私の目標だった。
「ちゃんと小十郎に色々教わったから。私はそれをきちんと評価されたい」
私は言葉を切ると、小十郎はそれ以上何も言わず。
しばしの間、沈黙が訪れた。
「それでも……お前ぇをそばに置いておきたいっていうのは、きっと俺の我侭なんだろうな……。会社での付き合いは当たり前だって頭では分かっているのに、お前ぇが他の男と飲みに行くと思うと、どうしようもなくイラつく」
そう言って、小十郎は私の手をぎゅっと握る。
初詣以来、ずっと小十郎の気持ちには、お互い触れなかったけれど。
改めて、こうして好意を伝えられるとどうしようもなく胸がドキドキとする。
「好きで飲みに行くわけじゃないもの。小十郎が来てくれて、本当によかった」
甘えるように小十郎に身を寄せると、小十郎は、眉間に刻んでいた皺を和らげ、フッと微笑んだ。
「さあ、駐車場に着いたぜ。とりあえず、銀座に向かう」
「間に合うかな?」
「多分な」
車に乗り込むと、小十郎は、タバコに火を点け、車を発進させた。
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